http://nogakusanpo.maya-g.com
記事移動
2008年02月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
まもなく 立春である。冷たい日はまだまだ続く。
最新のソーラーシステムによる 床暖房も オンドルも無いながら
三余堂は年間を通して素足で過ごす。せめて板の間ではスリッパを履くようにと云われる。
大きなお世話である。
スリッパは 右方は此方、左方は彼方、何処にや…… となるのが落ちであろうし。
だいたい スリッパだ、靴下だなどと 極寒の地でもないお江戸ではおこがましい。
日常の生活に当り前の様に靴下、スリッパ いや、足袋が取り入られるようになったのは
明治期以降ということだ。



足袋保護のため楽屋で使用する上履き
足袋



そもそも 足袋は 読んで字のごとく 足を包む袋である。
平安の頃 山野で生計を立てるような人々は 足袋の原型と思われる 獣の皮で親指の部分に
股をつけた履物を用いるようになったらしい。
其の頃 都の貴族は 襪 (しとうず) という履物を用いていた。
平安中期には、革足袋の原型となるものが用いられ始めていたということで、
鎌倉期の宇治拾遺物語の中に、「猿の皮の足袋に沓きりはなして」 と、すでに足袋という言葉が
出てくる。
もっとも 今のような形かどうか。
近世以前、武士は足袋や襪などの履物は履かないものとされていた。
合戦の武装には毛履などの沓、革足袋、革製の襪のような物が用いられた。
鎌倉、室町初期は、足袋を鹿皮や猿皮をなめした革で作っていた。   
武士の間で革足袋が普及すると、白の革足袋や、小桜などの模様の小紋足袋を履く習慣が生まれ、
その後、戦乱が広がるにつれ、軍装として革足袋の使用が一般化したということらしい。
武家の間では、足袋の使用については規定があった。
礼装の際や主君の前では素足であるのが正当とされたということで、
三余堂もこれに倣っている訳である。


江戸時代初期は革足袋が専らであった。主に輸入の鹿革が多く使用されていた。が、
鎖国の為に鹿革の輸入量が激減、明暦の江戸大火で防火用として革の羽織が流行し、
革の値段が高騰した という事が影響して、木綿足袋の普及に至ったということだ。
初期は晒木綿の布を重ね、補強に太い糸で田畑の畝のように縫ったそうだ。
当時の足袋はまだ革足袋の名残で 鞐(こはぜ) ではなく紐で止めていた。

江戸時代も足袋の使用に関する厳しい規定があった。
足袋の着用は50歳以上、10月1日から2月20日の間のみ。
病気等での足袋の着用は主君の許可にて 足袋御免 となる。
大奥も、足袋着用の期間が厳格に定められていたそうだ。 武家の男女礼装は素足である。
武家の間では人前で足袋を用いるのは無礼ということか。
もっとも 木綿足袋が普及すると共にし、有名無実化していったらしい。 さもありなん。

誰しも 麗しきおみあしとはいかんじゃろぅ! 冷えもよろしくない

が、足袋御免の制度自体は文久2年(1862)年の武家服制改革まで存在していた。
公家にも指貫には勅許がないと襪を履くことはできないという制度も残っていたというが。

さてさて 一般庶民は如何に。

江戸初期、農民や町民にとって足の保護の為に使われる、作業用の履物、祭礼の衣装であった。 
中期、商人などの町人の台頭で、日常生活にも足袋が取り入れられるようになっていった。
その習慣はやがて武士階級に取り入られるようになり、一般的な習慣になっていった。
日常生活で、武家階級は白足袋、町人の男は紺足袋や黒足袋、女は白足袋を用いたという。
もっとも それも立場や階級で紺足袋も白足袋もある。 
必殺仕掛人の早乙女主水は紺足袋である。
橋蔵の平次は白足袋で、下っぴきの八五郎は紺足袋 … 。
まぁ テレビや映画のチャンバラを鵜呑みにしてはいけない。映像の演出というものがある。
農民はというと、それまでと同じく専ら作業用の履物であって、普段は素足。                  


紺足袋と白足袋 足袋

能や狂言が確立した頃、能は白に晒された鹿皮の革足袋が用いられ、
狂言は生成りの革足袋が用いられていたようである。
現在 狂言足袋は流儀などで多少違いがあるが、細かい黄色の縞のものや薄い黄色で
鹿革の足袋の名残をここにみる。


装束を付ける時、初めに着け、最後に脱ぐのが足袋である。
舞台で使用する足袋は 神田駿河台の店で誂る。足にしっくりと沿った足袋の提供あってこその舞台。
どちらも違わず高齢化が物作りに押し寄せて 老舗の足袋店も呑込もうとしている。




今日も足袋は舞台で三余堂を支える。足袋







投稿日 2008年02月02日 10:10:30
最終更新日 2008年02月02日 10:10:47
修正
2008年02月20日
 足袋、たび、旅で、まめたび煎餅を食べながら旅ィゆけェばぁ〜〜、てなわけないですが、能ではよく旅の僧が何かに出会って話が展開することがしばしば。今月取り上げる作品の「石橋」はまさに旅の僧の展開です。どうして「石橋」かというと、 先日、庵主が見た春節の獅子舞がいとめでたしというのが理由。

 能「石橋」は寂昭法師が入唐し各地を巡り、清涼山で文殊菩薩のお使いとされる獅子が、咲き乱れる牡丹の花の間に勇ましく舞う姿に出会うという、千秋万歳を寿ぐおめでたい曲目。
 

                 石橋
                   La plume d’oie©鵞毛庵 2007

 この石橋は苔むして滑りやすく、狭いし長いし、谷の深さは千丈もあってそう簡単に渡れるものではないと寂昭が樵から聞かされることから着想しての作品。そんな所は自分じゃ絶対渡れやしない!と思いながらカラス口を使っての自由書体です。カラス口は製図用の線引きの道具ですが、今はコンピューターの時代となり、殆どお蔵入りにちかいもの。製造中止したメーカーもあるそうですが、それをフランスはじめ、あちこちのカリグラファー達は文字を書く道具として多いに利用しています。

 パリの中華街界隈に住む庵主は、先日2月7日の春節では例年の如くたっぷりと中国の獅子舞を
満喫!


石橋 
パリ13区にある中華大手スーパーの陳氏兄弟公司にて

 画像をご覧になって随分カラフルだなぁと思うかもしれません。これは清朝の乾隆皇帝が夢に五色の色彩豊かな聖獣を見たのが始まりだとか。 
中国にしろ日本にしろ、実際に獅子、つまりライオンが生息していたわけではないので、それぞれ文献などからの想像した姿。ライオンといっても、ジャングル大帝レオのようなタテガミふっさふさのアフリカ系ではなく、お獅子の元祖はタテガミが地味なインドライオンです。それが日本の庶民的な獅子舞の獅子頭にもみられるけど、能の「石橋」や歌舞伎の毛振りが有名な「連獅子」や「鏡獅子」の獅子頭はタテガミたっぷりです。中国も北方系のお獅子はマルチーズの親玉のような体中フサフサ。このように種類はいろいろですが、昔の情報源としてはイランあたりからシルクロード経由だと想像されますので、やはり元祖はインドライオンなのでしょう。

  このインドライオンは18世紀頃までは西アジア(インドやイラン一帯)に広く生息していたそうですが、人口増加や狩猟の対象になったりして、20世紀始めには生息数が20頭ぐらいまで減ってしまったとか。現在は絶滅寸前ながらもインドの北西にあるギルの森の自然保護区域に絶滅危機保護種として2〜300頭ぐらい生息しているそうです。検索したら上野動物園などにもいることが判明。こちらを参考までに

もし実際にご覧になる機会があれば、ははぁ〜〜ん、こいつがお獅子の元祖か、と観察してみるのも楽しいかもしれません。

 余談ですが、中国の揚州名物には豚の肉団子「獅子頭(しずとう)」というのがあります。大きな肉団子です。ご利益丸かじりで霊獣の頭をがぶりッ。

 「石橋」といえば、もうひとつ。ラジオフランスから出しているOCORAという世界の民俗音楽のアルバムがあるのですが、その日本のシリーズの中に「石橋」があります。1983年、今は亡き観世元昭師のフランス公演の際にスタジオ録音されたものです。もう25年経つのですねぇ。なんか昨日のことのよう....。


   
石橋なのになんで翁なの?と、硬いこと言わずに。                                                    石橋
この他に、雅楽、声明、薩摩琵琶、長唄などなど数枚でています。
投稿日 2008年03月14日 8:45:55
最終更新日 2008年03月14日 8:46:11
修正