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2014年12月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
仮名の誕生変遷を報せたのは、藤原良相邸跡からの土器片の出土。
我々の世代は 初めて触れる文字が平仮名、少し前の世代は、カタカナ。
覚えるべくして 学んだというより、気づいたら当たり前に使っているのが
いろは 四十八文字、というより、あいうえ 五十音。
戦後 旧かなづかいは なんじゃらかんじゃら… となり、文部省の指導もあって
現在に至っているが、謡本は当然、旧仮名遣いで 変体仮名の表記もあれば
カタカナ表記もふんだんに登場。
しかるに、慣れ親しめばさほど気にせずに読めるし、解することが出来るというものだ。 
能の所作の書きつけやら囃子の記譜などは 旧仮名遣い、カタカナ表記で
書き付ける時には 今も二刀流をこなす。

奈良から平安にかけて 大陸に学び文字、書法、漢文と自国の物にした我国。
役所での公文書は漢文であったし、学問しかり、文芸しかり。
漢文、漢詩が出来なければ話が始まらないのである。
一方、私的な文書は漢文に翻訳することなく 話し言葉をそのまま漢字の音に当て
はめて 表記する方法を編み出した。  これが “万葉仮名”という訳だ。
当時の官吏は 公文書は 漢文、私文書は話し言葉、つまり日本語との、二刀流。
まっ、バイリンガルってところか。
この 万葉仮名も字音を借りてきた 伊、呂、波 のような“音仮名”と、
一字一音とは限っていない字訓を借りてきた 鶴(つる)、鴨(かも)のような
“訓仮名”もある。

法隆寺の五重塔や、正倉院の文書 などに早期の万葉仮名を見ることが出来る。
法隆寺五重塔初層天井組木落書(ほうりゅうじ ごじゅうのとう しょそうてんじょうくみき らくがき)。
通称 法隆寺五重塔落書については、ちと、蘊蓄。
今は聖徳太子と教えないのだそうだが、その厩戸皇子と推古天皇が用明天皇の
病気平癒祈願で建立したといわれる 法隆寺。
この大修復で みつかったものに墨書きの文字があった。
法隆寺は飛鳥時代の様式を伝える最古の木造建築。
その五重塔を解体修復中のこと。 時は昭和22年5月14日。
天井板の組木を外したところ なんとぎゅんぎゅんに詰めて書かれた 墨跡。
どうも 文字のようでもあり、絵のようでもあり。
“奈尓”??? “奈尓波都尓佐久夜己”と 判読。
“なにはづにさくや〜”とは いろは歌のようなもので、手習いに用いられたらしい。
今でいえば宮大工の若い衆が 休憩の時にでも 一寸手遊びか。

  やっと赤外線で判読したというが…   

それにしても そんなところへ書くほど 万葉仮名が普及していたということだし、
なにはづの歌も広く親しまれていたということなのだろう。 
落書きされた材木は天井の組木となり 千年以上解体修理するまで 人の目に
触れなかったのだ。 

法隆寺は607年に創建された。が、天智天皇の御代670年に焼失したという。
その後708年、または711年に再建されたらしい。
年輪から推し量って、五重塔の屋根材は673年のものと判明。
創建時のものではなく、再建されたことが実証されている。
この、一般庶民の筆跡である万葉仮名の落書は8世紀初めのものということだ。



消えた2012年師走の月次記事起こしで
その年その月の案内望遠鏡に続いての雑感。
落書きのあった法隆寺は 因みに1993年に世界遺産となり今日に至っている。
これだけのものになれば 落書きも大した文化遺産で、
落書きの為の手習いをしてからでないと おいそれとは… 





投稿日 2014年12月12日 0:03:09
最終更新日 2014年12月12日 0:03:09
修正
2014年11月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
奈良から平安の御代にかけて行われた宮中の行事に相撲節会(すまひのせちえ)があった。
相撲節会の最古の記録は『宮中行事秘事』などにあり、聖武天皇の頃と考えられている。

文官の人事や、叙位や任官、礼のしきたりやら作法などを統括する式部省という役所があり、
この傘下に相撲司(すまうのつかさ)というところがあったという。
奈良時代は抜出司(ぬきでし)と呼ばれていたというが、その役所はどうも相撲節会に合せた
時季的な臨時の役所であったらしい。
その役所は、左近衛府と右近衛府のそれぞれ12名を人選。
この人々が相撲人と呼ばれた。 何をするかというと、残った 残ったのお相撲である…
 
彼らは近衛府や兵衛府の役人やその見習いが中心で、他に諸国から推薦された者もいた。
後に諸国からの推挙者となり、優勝者は近衛府や兵衛府などで採用されたり、
国元で役人などに採りたてられたらしい。
この相撲節会は、楽人の演奏やら 入場行進やらとなかなかの華やかな式典があったようだ。
毎年7月の行事だったようだが、桓武天皇の次代の平城上皇が崩御したのを機に
だんだんと衰微し、承安4年(1174年)を最後に廃絶となったという。
この相撲節会が、日本相撲協会の主催する大相撲の基、というわけである。

相撲節会で左右に分かれ相撲を取り、勝った方の立会役が矢を背負って
勝者の舞を演じたのが 弓取式の始まりだそうだ。
現在は作法に従って、下位の力士が大相撲の本場所で、結びの一番の勝者に
代わって、土俵上で弓取り式としておこなっている。
相撲のテレビ中継華やかな時代、 弓取りでの “よいしょっ〜ォ” という場内観客の
掛け声に合わせ、子供は茶の間で大声を出したものだった。

今日の原型は横綱2代谷風梶之助が徳川家斉の上覧相撲で、土俵上で弓を受け
“敬い奉げて四方に振り回した”ことからだとか。 時に1791年、寛政3年。
元来、千秋楽にその場所最後の勝者を称えてのものだったという。
毎日行なわれるようになったのは1952年からで 今年でちょうど60年になる。(2012年時点)

弓取は幕下力士が行うが、特別に十両以上の関取の大銀杏を結い、化粧廻しを締める。
横綱がいる部屋の力士が勤めるものなのだそうだ。結びの一番の勝者の代理なのだから
当然、といえば当然。 相当以前になるが、弓を落としたのを見たことがある。
足の甲に弓を乗せ、弓をチョンと上に跳ね上げて掴み取った。それが作法だそうで、
手を土俵につくと負けとなるからとか。これもしかり。

栃錦の引退相撲では、出羽錦が弓取りをしたという。  
朋友だったからなぁ〜 あの二人、しょっきりも上手かったしなぁ。
今年も1年を締めくくる九州場所が 始まった。 
栃若時代を相撲と思うと 何日観戦するだろうか。



といったことを、2012.11.12.の 三余堂月次に書いた。それから二年。
まぁ、是非とも現在の “公益財団法人 日本相撲協会のホームページ” を御覧ぜよ。
最近再び活況を呈してきた“お相撲”の様子が窺える。
協会各位の奮励努力、やっと髷の結えるようになったお相撲さんたちの活躍、等々。
諸々の改革努力が伝わる公式サイトである。
このサイト、テレビばかりでなく、パソコン、タブレット、はたまた スマホと
選り取り見取りの観戦提供。 
とは言え、昔ながらのラジオ放送もなかなかで ご贔屓健在!



相撲  2012.11.12. 三余堂月次から消えたアーカイヴ とその二年後





投稿日 2014年11月12日 0:03:51
最終更新日 2014年11月12日 0:03:51
修正
2014年10月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
宋の文人が抱く 日本像は自国で亡佚した古書が保存されている国であったと
案内望遠鏡 『日本刀の歌』 で記した。
それは秦の始皇帝による 焚書前に叙福が、持ち出したと考えられていたからだが、
この叙福なる人物、たいした食わせ者。
始皇帝に、「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と云って、三千人もの若い男女と
多くの技術者を従えて、東方に船出したという。
彼は多額の資金を始皇帝から巻き上げて、派手な一行を組み、日本へ渡ったと信じられていた。
叙福が東方への出立を願い出たのは始皇帝28年で、焚書は始皇帝34年。
故に焚書で消えていった書経・詩経・諸子百家などが生き延びていると想像されていた。
しかし実際に、叙福はしばらく日本へ出発せず 焚書後の始皇帝37年に出掛けたようだが…
叙福の末路は不明なるも、始皇帝がしてやられたことは確かだ。

日本に中国の古書があるのは 叙福が焚書前に持ち出したからではない。
それまでに 日本にもたらされた書籍をはじめとする宝物類は、天皇家が天皇家として
脈々と存続した日本の場合、戦乱といっても徹底的な壊滅に至らずに済んだので、
さほど 不思議なことでは無かった。勿論 御扱がお大切であったことは言うまでもない。

『日本刀の歌』 の欧陽 脩が生まれる前、宋の太宗の時代984年のこと。
日本から入宋した然(ちょうねん)という坊さんがいた。
その折、中国ではすでに亡佚していた 後漢の鄭玄の注釈による『孝経』を
水晶の軸に金縷紅羅の表装という豪華版の仕立てで 携えていったらしい。
『孝経』というのは 孔子さまの教えだが、子供の頃は何かと耳タコであった、
 『身体髪膚(はっぷ)これを父母に受く あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり』  の基である。

この鄭玄の注釈による孝経は 玄宗皇帝が 新しい注釈を作らせたら 無くなってしまった。
その新しい注釈 『始注』の次に 『重注』というのが作られたら  『始注』が無くなってしまった。
でも、日本には ちゃぁんと『始注』があった。
 儒学書も仏典も どっかにやっちゃった! さぁ大変。 でも、でも、きっと日本にあるさ?!

西暦1000年頃 日本から僧寂昭入宋。
この時、中国の目録に名前があるだけで亡佚していた小難しい 『大乗止観』、『方等三昧行法』
を携えて行き、宋ではこれを基に新たに製作。 宋にしてみれば大変な賓客であったろう。
時の皇帝真宗から紫衣と円通大師の号を賜った寂昭は結局 、日本に帰国する事がないまま
杭州で没したという。
この人、結構な有名人。
    「これは大江の定基と言はれし寂昭法師にて候、我、入唐渡天 し。
                    はじめて彼方此方を拝み巡り。只今 清涼山に参りて候〜  」
とか云って 橋の向こうが文殊菩薩の浄土だという石橋に辿り着く。
ご存知 能「石橋」に登場のワキの僧、寂昭のことである。

深い谷に掛かる狭く長い橋は人が渡れたものではない。 やがて、橋の向こうから
文殊の使いの獅子が現われ、牡丹の花に戯れて、飛んだり跳ねたり。
紅白の大きな牡丹の花に埋もれんばかりの絢爛豪華な舞台。
そこで 白い獅子、赤い獅子が獅子の舞を舞う。時には、何頭もの子獅子が橋懸、本舞台と
行き交い、もとの獅子の座に戻っていく。 



無事に基の座に戻った、中国亡佚古書。
前述の『鄭注の孝経』と 『侃(おうかん)の論語義疏 』が日本で発見された物の代表だとか。



消えたアーカイヴ  2012.10.12. 三余堂月次から











投稿日 2014年10月12日 0:06:17
最終更新日 2014年10月12日 0:06:17
修正
2014年09月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
今月の三余堂月次アーカイヴは2009の9月  老人必要養草 から
敬老の日も近いが、希少価値からすると こどもの日に次いで、青年の日、
壮年の日が祭日として登場しそうな昨今である。
まっ、老いも若きも必要養草…ということで


                                           
《 内閣総理大臣が国の機関などから移管を受けた重要な公文書を、歴史資料として独立行政法人国立公文書館が
保存管理しています。》 と、ホームページにある国立公文書館。
資料の保存、データベース化、一般公開、インターネットの駆使と広く事業を行う。
重要な公文書の適切な保存と利用を図ることを目的とした施設。
公文書館は図書館、博物館と共に 文化施設として三本の柱の一つなのだそうだ。
ふぅ〜む

ヨーロッパでは、18世紀以来、近代的な公文書館制度が発達したという。
が、我国では 戦後、その必要性の高い声に 準備の末 
   『公文書等の保存、閲覧・展示などへの利用、公文書の調査研究を行う機関』 を
目的として、昭和46年に国立公文書館が設置。   結構 近年のことだ。

この設置に際して 重要な一部門となった内閣文庫。 
明治6年太政官に置かれた図書掛に始まり、明治18年内閣制度創始と同時に内閣文庫となる。
和漢の古典籍・古文書を所蔵する専門図書館となった。
その蔵書には、江戸幕府の記録等の公文書に類する資料も多いという。
平成10年にはつくば研究学園都市内に、つくば分館設置。
平成13年独立行政法人国立公文書館となる。
独立行政法人への移行後も 内閣文庫の所蔵資料は引き続き国立公文書館で保存されていて…
   ふむ、 ふぅ〜む



この 国立公文書館のホームページ。時折 覗くと興味深いものを見つける。
今月のアーカイブを手繰っていくと 老人必要養草 ろうじんひつようやしないぐさ!に当たった。

ご存知、養生訓の著者貝原益軒、その弟子の 香月牛山 かつきぎゅうざん(1656-1740)の著。
対象は高齢者限定ときた。もっとも この時代 いくつが高齢者だろうか。
正徳6年(1716)に 出版された書で 高齢者がいる家庭のための家庭医学事典と…
三余堂 必携の書のような気がしてくる。
養老の総論、飲食やら何やらと続き、鬱屈した心を癒す工夫や高齢者特有の心理を具体的に
解説しているのが、本書の特徴。と、ある。
老人性のうつ病ということか。現代ならではの状況ではなさそうだ。
形体保養の説という項には 手足の屈伸やマッサージが血流を促し卒中風の患いなしと ある。
    ふむ、ふむ、 ふぅ〜む



今月の展示を確認すべく覗いたところが とんだ 敬老の日を前にして心の準備となった。
東京、北の丸公園、近代美術館へ御用の向きは ちょっと 一足!
展示会は入場無料、
   地下鉄東西線竹橋駅下車[1b出口]徒歩5分。
矢来能楽堂の地下鉄東西線神楽坂駅から 三つめの駅。 ついでにも便利なところである。
そこには文化の必要養草を実践する国立公文書館がある。



国立公文書館  

   老人必要養草 ろうじんひつようやしないぐさ




投稿日 2014年09月13日 9:18:54
最終更新日 2014年09月13日 9:18:54
修正
2014年08月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
消えた記事の掘り起しシリーズは 『扇』。
2009年の八月の記事である。五年前はまだ扇に関して考えるゆとりのある暑さであった。
今は温度計もすっかりデジタル化となり、30という数字を切っていると誠に涼しいような気がしてくる。
平成26年の夏は立秋を過ぎたが 空調のない部屋は夜もなかなか30の数字は切れないでいる。


ボルサリーノのパナマの帽子に ローンのハンカチ。
颯爽とした白いスーツ姿の紳士は、 むっとする 重苦しい空気を追いやるために 胸のポケット
から扇子を出してパタパタと首筋に風を運ぶ。
百貨店の一階で 花が閉じ込められた氷柱を 子供たちが取り囲む。
氷に手を当てて騒ぐ子らを見守るように、薄物に身を包む和装の婦人が 白檀の扇子を
ハンドバックから取り出して そっと胸元へ風をおくる。
映画や、小説でなくとも 昭和30年代までは そんな姿を見かけた。
今、この様相を銀座のデパートでみたら 何とも風変りな姿に映るだろう。

洋装の男性も 和服の女性も その手にする扇子。
開閉自在で場所を取らず 涼を呼ぶばかりでなく、孫の手代わりも務め、護身用も果たす
すぐれものは 日本で生まれた。


摺畳扇、しょうじょうせんと云われる 開閉式の団扇。 これが扇、扇子である。
平安の初期 京の都で生まれた。 木札に文字を記した 木簡から派生したとされている。
檜の薄皮を重ねて束ねた 檜扇、ひおうぎは、女雛が手にしている。 檜片の枚数は身分で
決められていたという。 当初は 公家、僧侶などの儀式用の持ち物だった。
平安中期になると 紙製も登場。 いわゆる 蝙蝠扇、かわほり。
「ほほほっ ほっ ……でおじゃりまする。」 と、口元をそっと隠す、あの扇。
片面のみ紙が貼られている。その後 両面貼りとなる。
扇の先が閉じずに開いている 中啓、ちゅうけい。これは 能で使う扇の形。
で、僧侶の手にする扇の形でもある。 歌舞伎の河内山では 宗俊がほくろに中啓を持っていく。
そして 鎮折、しずめおりという 現在の一般的な形状へと変化を遂げた。

武士が登場すると 骨が竹でなく鉄で出来た鉄扇は、指揮ばかりでなく 護身用として活躍。
礼法が確立していく室町の時代には 庶民の間でも折節目に使われ、
祝儀、贈答として取り交わされていく。
室町の文化は扇をも育てた。
能の舞台では あらゆる表現に必携な扇、寸法、骨の装飾から絵柄も流儀によって
細かい決まりを持つ。 
扇を末広というのは 扇の骨の先がひらいた 能扇の中啓を指しているという。
能の一部分を舞う上演形式の仕舞、地謡、後見などは いわゆる先の閉じた鎮扇を使う。 
茶席で扇子は結界を示し、相手に対する礼を表す。
末広がりの形状が吉祥を現わし、扇面という画布が 名筆も名画も生み出した。
俵屋宗達は扇絵の絵師であった。

室町時代に摺畳扇は 盛んに輸出されたという。
それが 大陸へ、さらに西欧へ伝わる。絹や鳥の羽で作られ、貴婦人の間で大流行した
エバンタイユや、フラメンコのスペイン扇などは日本生まれだ。

作り上げるには 数十に及ぶ工程を 幾人もの職人の手が支える扇。
肝心かなめの要を中心に 末広がりに開く扇。
それは、扇面の下に 隠れる骨の確かな重なりの美しさに他ならない。
今日 幅広い種類をもつ扇子は 儀礼用、涼をとる夏扇から、飾り扇、 
どれもが 作り手と使い手の生活の中に生きている。













投稿日 2014年08月12日 13:56:17
最終更新日 2014年08月12日 13:56:33
修正
2014年07月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
消えた記事の掘り起しシリーズは 『鵺』。
近年の温暖化で異常な暑さも、空調の効いた能楽堂で、うとうとと過ごせる時代となった。
もっとも、この科学の力がなければ 暑い時に装束を付けて難行苦行を
演者、観客になす事は無かっただろう。
見所て゛揺らぐ扇子、絽や紗の涼しげな夏の装いこそが 清涼を呼び、夏の舞台を作ったが…



シリーズ 消えたアーカイヴ掘り起し 2012年7月の記事から

背が虎で足がタヌキ、尾はキツネだとか、サルの顔、タヌキの胴体、トラの手足で尾はヘビ、
または 頭がネコで胴はニワトリとか、諸説は紛々ながら 「ヒョーヒョー」という
気味の悪い声で鳴いたという生き物。 これが、伝説の妖怪、鵺(ぬえ) である
専ら、後白河さんの時代にご出現の もののけ。
元来、鵺とは夜に鳴く鳥のことで『古事記』や『万葉集』にも名が見られるというのだが…
鵺の正体は、現在ではトラツグミとするのが定説だ。
その寂しげな鳴き声は、当時の人々には不吉なもので、天皇をはじめ貴族たちは
鳴き声が聞こえるや、大事が起きないよう祈祷したという。




まだまだ 後白河さまが天皇になられるなど、考えも及ばない遠い頃のことでございます。
後白河さまの弟におわす近衛さまが、天皇となられたのは僅か2歳でございました。
崇徳さまは、その方々のお兄様で、天皇から、上皇となられ、政に関わることのない
閑職になられたのでごいます。これは御父 鳥羽法皇さまの御計らいでございました。
政のおもむき、ごちゃごちゃど真ん中!の様相でございます。
名誉職のような上皇はお若く、即位した天皇は御身お弱くて、15歳の頃には退位を
お申し出になられ、御所の中は大騒ぎでございました。
もちろん近衛天皇のご退位は許されず、お子も無いまま17歳の若さで亡くなられ
鳥羽院はその衝撃か、 間もなく崩御あそばす。 ここに皇位継承問題勃発!

と、歴史は展開する。
実は、あの若い天皇さんは愛宕山の天狗さんの像の目に釘を打ち付け呪詛されていたので、
眼病で目が見えなくなったとか…   死は呪詛によるものだとか…   
病気平癒の祈祷も、呪詛も、誰がだれを祈祷したやら、呪詛したやら。
その後、朝廷は後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂して、保元の乱になっていく。


うなされる夜が続き、病に摂りつかれていた近衛さまは ヒョーヒョーという音、
辺りを覆い尽くす黒雲の光景に ますますのご不怪。 
この時、鵺と思しきもののけ退治の白羽の矢が源頼政どのに。 
頼政どの、大願成就の祈願を行い、清涼殿を覆う黒雲の中で動く影に向かって、
「南無八幡大菩薩」と念じつつ、矢を放つと、頭は猿、胴体は狸、尻尾は蛇、
手足は虎という代物が、奇っ怪な声を上げて落ちて参りました。
摂関家ご兄弟仲はごたごた、兵の家の者が朝廷に根を張りだした頃の事でございます。
戦さならいざ知らず、得体の知れないもののけ退治に推挙された 頼政殿は如何ばかりか。
所謂これが、鵺退治の一度目。
次は 後白河さまが天皇をお子の二条さまに譲ってから。
二条さまを怯えさせ、ご病気にした怪鳥退治でございました。またまた、頼政どのの功で
天皇のご体調、たちまちにしてご回復。
ご褒美に獅子王という刀を頼政殿に貰賜したのだそうでございます。




鵺退治の話を晩年の世阿弥は能にしている。
能では、鵺の亡霊が主役で、源頼政に退治され、救いのない滅びへの姿を語る。
諸説ある物の化だが、その正体は頼政の母だという伝説までもある。
退治した頼政も不可思議なさだめを持っていた。退治された鵺に救いはあったのだろうか。
世阿弥は、中央での華やかな日々、頭領としての思い、佐渡での配流の暮らし、そして
研ぎ磨き上げていった幽玄の世界をすべて背中にして、晩年に 『鵺』のような曲を作り上げた。





鵺の季節到来!この時期の曲目である。
本年2014年7月観世九皐会にて上演。三余堂は仕舞 白楽天を勤める。


投稿日 2014年07月12日 12:43:03
最終更新日 2014年07月12日 12:43:16
修正
2014年06月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
シリーズ 消えたアーカイヴ掘り起し 2011年6月の記事から

物の怪にとりつかれた源氏の妻、葵の上。
その正体は如何にと思いきや、姿を表したのは六条御息所の怨霊。
御息所は このところすっかり足の遠いた源氏の姿を、一目見ようと加茂の祭りへ出かけた、そこで
妻の葵の上に車争いで敗れ、散々な想い。
御息所は葵の上にとりついて、その魂を抜き取ろう… とばかり、生霊に。
さぁ大変と、横川の小聖(よかわのこひじり)に祈祷をさせるも、御息所の嫉妬心が鬼女となって、
葵の上ばかりか、祈祷する小聖にも激しく襲いかかる。
が結局、御息所の怨霊は折り伏せられて、成仏するというのが 能 『葵上』の話。
能では舞台の上に置かれた一枚の小袖が、物の怪に取りつかれた葵の上として登場。
御息所の恋慕と嫉妬の情を描いている訳で、前半は『源氏物語』の巻名を散りばめ、
鬼に変貌しても高貴で、なお美しい御息所を描き出すのが後半。 という訳だ。

能 『葵上』は、賀茂の祭の車争いに破れたということで、御息所が破れ車に乗って登場する。
言わずと知れた賀茂の祭は、葵祭のことである。
567年、欽明天皇は、凶作と飢餓疫病の蔓延を振り払うため、4月の吉日を選び盛大な祭りを
行った。枕草子で祭の中の祭と言っているが、祭りといえば葵祭を指し見物場所の取り合いが、
車争いに見られるほど、人気だったということが良く判る。
祭に関わる人、社殿の御簾や牛車に至るまでフタバアオイを桂の小枝に挿して飾る為、
葵祭と謂われる。そもそも、この祭りの加茂社の神紋が葵。
加茂社の由来は諸説紛々。
雑駁で恐縮ながら、別雷神社(わけいかずち)と御祖神社(みおや)とに分かれ、
総称して加茂社。 これに関連しても、能に『加茂(賀茂)』という曲がある。
天女となって御祖神が舞い、勇ましい別雷神が舞台を駆け抜けて雷鳴を轟かす。夏の能である。

閑話休題、
神官や氏子に広まった葵の紋。
その意匠は二葉葵、三つ葉葵、立ち葵に三つ剣葵等といろいろある。
賀茂神社を氏神とする徳川家の家紋は、三つ葉葵。それが所謂、葵の御紋。 
本多忠勝も「神代以来、京都の賀茂神社に奉仕仕る賀茂族」ということで、立葵の紋を使用。
本当は、こっちの方が正統だと本多氏は言いたいのかもしれないが…


扨、加茂社の神紋葵はウマノスズクサ科カンアオイ属の多年生ツル草のフタバアオイ。
賀茂葵、日陰草、挿頭草、両葉草などと呼ばれる。
草丈もせいぜい5cmから10cmほどで、ハート型の葉が向かい合って2枚。
故に『ふたばあおい』と呼んでいる。
本州以南の山地の木陰に自生して、初春に薄い紅紫色の花をつける。誠に地味なものである。
ただ『葵』というと、立葵を示すアオイ科のタチアオイのこと。
葵紋の『双葉葵』とは別ものだ。
日を仰ぐという意味の「葵」は、美しい花で、人目も虫も寄せつける。
ハイビスカス、ムクゲに、フヨウ、オクラやワタもアオイ科で実に華やかだ。
 (葵、天竺葵の異名を持つゼラニウムは園芸種で、人為的に作った品種。念のため。)
密やかに花をつける双葉葵は、細やかな愛情という花言葉を持っているが、
葵の花言葉は平安、威厳、高貴だそうである。
能の題材となった源氏物語の葵の上。物語中で源氏の妻が葵の上とは謂っていない。
源氏の第九帖から後世、読者が勝手につけた呼び名「葵上」は 
 「はかなしや人のかざせるあふひゆえ神のゆるしのけふを待ちける」
     「かざしける心ぞあだに思ほゆる八十氏人になべてあふひを」 から来るというが。
双葉葵にしても立葵にしても、葵の上は縁のあることである。




消えた2011年6月の三余堂月次記事を改訂掲載




投稿日 2014年06月12日 14:46:29
最終更新日 2014年06月12日 14:46:29
修正
2014年05月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
シリーズ 消えたアーカイヴ掘り起し 2012年5月の記事から

三河の国に着いた旅のお坊様が、沢辺の杜若を愛でておられました。すると、ここは杜若の名所、
八橋だと教える女がいたんでございますよ。 在原業平さんが かきつばた の五文字を句の上に
置いて、
  「からころも(唐衣)き(着)つつ馴れにしつま(妻)しあればはるばる(遥々)きぬるたび(旅)     
             をしぞ思ふ」  と旅の心を詠んだお話、ご存じでしょうか。
女はそんな歌の話をした挙句、侘び住まいでございますが、一夜の宿をお貸ししましょうなんて、   
お坊様を自分の庵に案内するのです。
やがて、唐衣に冠を戴いた姿で女が現れて、杜若の精だと云い出すのでございますよ。
歌を詠んだ業平さんの冠に、和歌に詠まれた高子の后の唐衣をまとって、
『伊勢物語』の東下りの話や、業平さんの華麗な恋、そして仏さまの功徳なんぞを
謡い舞ったんでございます。杜若の美しい季節、雅な詞章や音楽、華やかな装束、しっとりした舞。
花の精とお坊様とだけが向かい合う舞台でございます。
悟りの境地をお坊様のお力で得たと、杜若の精は夜明けと共に姿を消したそうでございます。 
と、これがお能の杜若。


このカキツバタ、湿ったところがお好のみで、風薫る五月あたりから紫の花を咲かせ始めて。
水辺にひっそりと一輪… なんてことはなく、群をなすんですよ。そりゃぁ、みごとでございます。    

内側の花びらが細くまっすぐに立っていて、その周りに外側に垂れ下がった花びらのある大きな
お花でございます。
まぁ、みなさんその見事さに魅せられて改良に改良を重ねて江戸の徳川様の時代には沢山の
品種が出来上がったそうでございますよ。
「いずれがアヤメかカキツバタ」なんて申しますが、アヤメ(菖蒲)は外側の花びらに網目模様で
乾いた土で育つとか。白い花もございますし、花びらに黄色い筋があったりもするそうで。

カキツバタ(杜若)は外側の花びらに網目模様でなく白い斑紋、色も惹きこまれるような
紫やら純白やら。
ついでに、ハナショウブ(花菖蒲)。これは外側の花弁に黄色の斑紋があるんでございますよ。
それはそれは、華やかな色がさまざまで、絞りもある。カキツバタと一緒で、水辺なんぞの湿地に
育って。 どれも素晴らしく優劣はもとより、見分けも就き難しってところでございましょうねぇ。
但、キショウブという、明治の御代におよその国から来た黄色いお花のショウブがございまして、
要注意外来生物ってのになっているとか。  綺麗なお花ですけれど…
そうそう、カキツバタは三河の国 愛知の県花だそうでございます。

カキツバタと云えば尾形光琳さんのお作に「燕子花図屏風」っていう見事な屏風がございます。
そのお話は昨年の根津美術館の催しにお任せして。
今も国宝「燕子花図」とメトロポリタン美術館所蔵「八橋図」がご覧になれますが、
               あそこのお庭のカキツバタもなかなかよろしゅうございますので…





記事は2012年5月時点で、2011年5月の特別展を紹介。
今年の根津美術館は18日まで『燕子花図と藤花図』 と銘打った特別展で艶やかに 
光琳、応挙が美を競って 孟夏を味わえる。


根津美術館には尾形光琳筆による紙本金地着色 6曲1双の 国宝 燕子花図が所蔵されていて、この時期に特別展での公開がある。根津美術館




投稿日 2014年05月13日 17:52:29
最終更新日 2014年05月13日 17:52:46
修正
2014年04月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
シリーズ 消えたアーカイヴ掘り起し 2012年4月の記事から

遣唐使の持ち帰った物に 王羲之の搨模本があったと案内望遠鏡(2012-04)で書いた。
その頃は当然、複写機があるわけでなく、書き写すことによって文化を受け継いでいく。
人の手で 次から次へと書き写すのだから、当然、誤字、脱字、加筆もあれば、省略もある。
行を飛ばしたまま気づかないことだって、あったかもしれないし…
原型を如何に正確に伝えるかが勝負だ。

律令国家完成に貢献すべく遣唐使が頑張っていたころ、日本の歴史書も纏められる。
古事記の成立だ。
その序によれば和銅5年712年に太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ)、早い話が
太安万侶(おおのやすまろ)によって献上された日本最古の歴史書で、上・中・下の全3巻。
で、作成年代は後世の写本で確認されているそうだ。
現存する『古事記』の写本は、大きく、「伊勢本系統」と「卜部本系統」に分かれ、
最古のものは、「伊勢本系統」の1371年から翌1372年にかけて真福寺の僧 賢瑜によって
書写された。南北朝の頃の写本で、 真福寺本古事記三帖というもの。
原型の面影を伝えていると、評価されて国宝に指定されている。

原型の面影とは…  それはさて置いて、この真福寺、名古屋は中区大須にある。
寺宝に鬼の面が伝わるので、「福は内、福は内!」と 鬼を締め出すことを遠慮して 
「鬼は外」と云わない節分会。 名古屋では有名な通称、大須観音のこと。
そこの文庫、真福寺文庫が全国屈指の古典籍の宝庫なのだそうだ。

この寺は 鎌倉時代末期の創建。
江戸時代初め現地に移転するまでは 現在の岐阜羽島大須にあった為、木曽川と
長良川の合流地点で、洪水に幾度となく襲われた。
木曽川の東にあった寺は洪水で川の西側になったり、蔵書は常に水に浸り、流出の
危険との戦いだったということである。
そんな折、徳川家康は蔵書保全を考えて、名古屋城下へ寺の移転を命じたといことだ。
さすが、能の伝書だって抱えた蔵書家の家康。
真福寺文庫には一万点を超える蔵書が、百二十もの木箱に納められて現存し、
その中に古事記の写本があるという訳だ。

古事記の研究者といえば、国学者、本居宣長先生。
一生をその研究に捧げた先生、1787年にその写本を見たという。
が、書写の年代はわからなかった。
その後1797年、本居宣長の門弟、尾張藩士 稲葉通邦が藩主の命で、古事校訂本
作成中に粘葉装(でっちょうそう)の紙の合わせ目の内側に 「賢瑜」 という文字を発見!
これで 書写年代が確定か。

真福寺蔵書は初代、二代住職によって形成されたという。
ことに二代住職の信瑜は東大寺東南院の門跡聖珍の弟子で、その関連の書籍も多く、
現在の国宝になる物も伝わっている。
国宝の古事記は そんな信瑜の命で、真福寺の賢瑜が書写し、信瑜へ上程したのでは… と。
その経緯を詳らかにした、尾張藩士 稲葉通邦の発見は今一つ評価されることもなく、
                                               むにゃむにゃ…
真福寺本は明治30年の古社寺保存法で国宝に指定されということである。
今年は古事記1300年 (2012年当時) となにかと古事記が話題になるが、どれだけの人が
正面から古事記を読み込んでいるだろうか。
てんてるだいじんと読まないためにも、せめて自分の子供の為に書いたという 鈴木三重吉の
《古事記物語》ぐらいは 読みたいものだ。
それが 面倒なら手っ取り早く、古事記の電子版もいろいろあるので 検索を〜

                                               














投稿日 2014年04月12日 0:22:59
最終更新日 2014年04月12日 0:22:59
修正
2014年03月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
号を青蓮居士と云った詩人がいた。その名は李白。
出自は諸説紛々ながら、どうも御先祖は西域の人で、漢民族ではなかったらしい。
もっとも李白自身はパンダの故郷、四川、蜀で育った。
同時代の杜甫と共に最高の詩人とされ、後世には「詩仙」と称された人だが、
山に隠棲したり、道士の修行をしたり、25歳あたりからの10数年の間は長江下流域を中心に、
各地を放浪したそうである。
その後 家族を持ち、なんだかんだの末、42歳の時に李白は宮廷詩人として玄宗に仕える。
詩才を見込まれての3年間、李白は朝廷で詩歌を作り、詔勅の起草などをした。

盛唐以降、牡丹が花の王としてことに珍重されるようになったという。
もともと薬用として利用されていたようだが、その華やかさが玄宗のお気に召したのか、
宮廷としていた興慶宮にあった沈香亭の前には 種々、色とりどりの牡丹が植えられたそうだ。
勿論、ぼたんの鑑賞会、花見の宴開催は必須。
で、管弦にのせて、お気に入りの楊貴妃を称える歌を奏さなくてはなるまい。
李白はお召をうけて、ぱっぱっと三首。 楊貴妃の美しさを牡丹の花に例えた「清平調詞」を作る。
これを当時の名楽人、李亀年に歌わせたとか、奏させたとか。
この時、玄宗が玉笛で曲にあわせ、楊貴妃は葡萄酒を飲みながらそれに聞き入ったと…
さすが文化人の玄宗皇帝。後世の作り話にしても、さもありなん…

清平調詞 其の一
雲想衣裳花想容      雲には衣裳を想い 花には容を想う
春風拂檻露華濃      春風 檻を払って 露華濃やかなり
若非羣玉山頭見      もし群玉山頭に見るにあらずんば
會向瑤臺月下逢      かならず瑶台月下に向かって逢わん

清平調詞 其の二
一枝濃艷露凝香      一枝の濃艶 露 香りを凝らす
雲雨巫山枉斷腸      雲雨 巫山 枉げて断腸
借問漢宮誰得似      借問す 漢宮 誰か似るを得ん
可憐飛燕倚新粧      可憐の飛燕 新粧に倚る

清平調詞 其の三
名花傾國兩相歡      名花 傾国 ふたつながら相歓ぶ
常得君王帶笑看      常に得たり君王の笑いを帯びて看るを
解釋春風無限恨      解釈す 春風 無限の恨みを
沈香亭北倚闌干      沈香亭北 闌干に倚る

丹精込めて育てたのだろう、牡丹の花と自分好みの佳人。その姿を玄宗は満足に眺めて
春の風に季節を感じ、思い悩みも晴れるってわけか。

「清平調詞」 きよきひょうじょうのうた でなく、せいへいちょうしとルビが振られている。
清平調は今ではどのようなものだか不明だそうだ。
鉦鼓管弦が澄み渡るような平調の音律を奏で、歌ったのだろうか。
平調は唐楽での調べで、平調(ひょうじょう)という音を基としたものをいい、雅楽では秋の調子
とされているもので、ホ短調に当たる。 
牡丹の華やかさに相応しい調子とも思われない。尤も、花は秋にも咲くし、寒牡丹というのもある。
が、春を愛でているのだから別物だろうか…
蛇足ながら 能でも、盤渉調、黄鐘調、特別な物には平調と、雅楽の調子が登場。
兎も角、どんな調子であれ、春風の香りと想い、牡丹と楊貴妃の華やかさを
李白は七言絶句の言葉で伝えた。
同じ牡丹ながら、三余堂は彼岸の「牡丹餅」(ぼたもち)。  まもなく春の彼岸である。 







投稿日 2014年03月19日 12:59:58
最終更新日 2014年03月19日 13:00:36
修正
2014年02月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
 複雑に敵味方が入り乱れた大動乱の時代、 南北朝も、足利尊氏の孫である足利義満の
時代には終結に向けて動き出す。そんな時代に 世阿弥は生きていた。
1368年に11歳で征夷大将軍に就任した足利義満は、管領の細川頼之(1329〜92年)の
補佐を受けて政治を展開していく。 世阿弥が5歳か、6歳の頃であった。 
細川頼之は義満を助け、様々な政策で幕府権力を強化する。そして、成果を上げ、
武士の力をだんだんと大きなものにしていったという訳だ。 
明との貿易などで貨幣が流通し、手工業の目覚ましい発展もあった。 
美濃の紙、越前の鳥の子紙、近江の信楽焼や尾張の瀬戸焼、山城の製油、西陣の織物、
鋳物、蒔絵の技術も完成されていった時代である。
1378年、足利義満は京都室町に、四季折々の花を植え、花の御所と呼ばれた邸宅を建築した。
それは誠に華麗なものだったようで、世阿弥は この足利義満を通して、当時の最高の文化を
余すところなく享受した。連歌、立て花は勿論、禅僧からも多くを学び取った。
能の装束から面、小さな道具ひとつも こんな時代背景があっての充実である。

 杉本苑子著 『華の碑文』で 世阿弥の生涯を、平岩弓枝著 『獅子の座』で足利義満の生涯を 
それぞれ足利義満、世阿弥を絡めて描いている。
晩年の世阿弥は瀬戸内寂聴著 『秘花』で思いを馳せることが出来、三人の女流小説家によって、
世阿弥の生きた時代を読み比べるのも一興。
蛇足ながら 前述の室町時代に管領として活躍した細川頼之家は 戦国時代に消滅し、
細川頼之の弟である細川頼有が 江戸時代の大名、肥後熊本の細川家で、
細川護煕元首相はその子孫になる。 そう、東京都知事に立候補したあの細川氏である。

 東京都文京区目白台に細川家伝来の美術品、歴史資料などを収蔵した永青文庫がある。
細川家の屋敷跡になる永青文庫は「美術の殿様」と言われた、第16代細川護立氏(没1970年)に
よって設立され、収集品の収蔵、展示、研究をしている。
国宝保存会会長などを務めた護立氏は、美術品収集家としても著名であった。
勿論 家代々の能装束や面の収蔵もあり、展示の機会もある。

 現在の理事長は18代当主の あの細川護煕氏だ。



世阿弥の生きた時

La fleur varie selon les hommes et leur tournure d'esprit.
人人心心の花なり。  世阿弥「風姿花伝」より  (c)La plume d'oie  五木田摩耶 2013



投稿日 2014年02月12日 20:12:54
最終更新日 2014年02月12日 20:13:29
修正
2014年01月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
毎年この時期は日本上空に寒波襲来ということで、気象予報士は
あの手この手の解説で易しく、詳しく寒さを伝える。
要は 朝寝床から起き出しにくく、外は霜が降りて白くなり、貴重な土の部分に
霜柱が立ち、無理やり愛犬の散歩に引きずられる人の息は白くなる。
部屋が暖房で暖まると窓には結露が起こり、ややもすると 水道の出が悪くなる。
そう、水道管が凍る一歩手前…  
風が吹き抜ける北側の水溜りはしっかりと氷り、三余堂の睡蓮鉢にも氷が張る。

氷は固体状態の水、水が固まりになって、おお〜 さぶっ!
霜は0℃以下に冷えた物の表面に、空気中の水蒸気がついて固まったもの。
霜柱は地中の水分が凍って出来たもの。故に、乾燥が厳しいぱさぱさの土には柱は立たない
最近の東京ではとんと 御目にかからない代物だ。
人の息が白くなれば、犬の息だって白い。
勿論、早朝の新聞配達のバイクの排気も白いが …
20℃の部屋で湿度が50%、壁や窓などの表面が、9.6℃以下になると結露は発生するという。
暖房を切っても、湿度が低くて、窓の外が0℃なら当然結露に悩まされる。


これが 非常に珍しくなった、最近の東京の真冬日の朝だ。 
一番寒い夜明け前を、寝床でじっとやり過ごせばなんとかなる。
                                  これも 東京の真冬日の朝。


 日が高くなり氷の緩む睡蓮鉢 真冬日の朝










投稿日 2014年01月13日 0:28:01
最終更新日 2014年01月13日 0:28:01
修正
2013年12月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
花屋の店先は鉢植えが賑やかに並ぶ。
クリスマスに向けての華やかなシクラメンだのポインセチア。
一方街路樹の銀杏は黄葉の葉が落ちて寒々しくなっていく。
山茶花や椿、柚子の実の色を道々見ながら、緑を満々と湛えた
大きな木にぶつかる。 花は満開。 小さな白い花弁が重なり合って、
ぎっしりとつき、凝らした目には暖かそうな毛に包まれた蕾も見える。
バラ科の常緑高木。枇杷である。
20cmもある長楕円の厚く堅い葉が互生して、枝は年がら年中ぐんぐんと伸びる。
手の入らない枇杷の木は、家の塀を越えて、道を隔てたくましく生き、
花が咲き、実がなり、種が地に落ちれば容易く発芽する。

大きくなる枇杷の木枇杷

          枇杷 満開の花

中国南西部が原産だという。日本には古代に持ち込まれたらしい。
中大兄皇子や藤原鎌足、はたまた額田王も目にしたのか…
時代は下って、江戸の時代には「枇杷葉湯」として、庶民の夏の暑気払に
盛んに飲まれたそうな。てんびん棒を肩に売り歩いたという。
栽培種は江戸末期に導入され、明治から、茂木や田中などの名で今も知る。

ふっくらとした橙の実を掌に包み、みずみずしさと甘さを頬張る 初夏の枇杷の実。
師走の乾いた真っ青な空の下では その素が数で勝負を賭けてきている。 
今日も 東京は乾燥注意報が出た。



投稿日 2013年12月12日 14:14:03
最終更新日 2013年12月12日 14:14:03
修正
2013年11月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
10月の案内望遠鏡で 能好きの家宣、側用人の間部詮房にふれたが、
もう一方の新井白石にもちと目をむけて。

明暦の大火の翌日に、焼け出された先で生まれたというのが かの新井白石。
明暦3年(1657年)2月10日のことであった。 へぇ〜
祖先は上野国新田郡の土豪だったそうで、今で云う群馬県になる。

講釈師ならここいらで、張扇を “パンパ パンッパン” と打って 幼少の頃より〜と始まるのだが。
わずか3歳にして父の読む儒学の書物を そっくり書き写したという非凡の才であったらしい。 ふ〜む
そもそも、その父なる 新井正済は、上総久留里藩の藩主土屋利直に、目付として仕えていた。
白石君は新井正済の自慢の子であったろう。 お利口だが、感が強かったのか
藩主の土屋利直は幼い聡明な白石のことを 「火の子」 とよんで可愛がったという。

次代藩主、土屋直樹という人は狂気を理由に改易されたような人で、父の正済は “仕えるに足らず”
と一度も出仕せず、親子共々クビになったという。  ほほっ〜
延宝7年(1679年)に、直樹が改易されると、すっかり 自由の身となった白石は なんと
当時の大老、堀田正俊に仕えた。 えっ!あのっ?

そう、吉良さんと違って、しっかり殺されてしまった 殿中でござる!の堀田正俊である。
若年寄の稲葉正休に殿中で刺し殺されると、堀田家は古河、山形、福島と次々に国替させられ
藩財政は悪化の一途。 とうとう白石は堀田家を自ら退き、浪人となった。 致し方なし…
が、しかし、独学で儒学を学び続けた。 うむっ さすが〜

まぁ 御秀才はいろいろとお誘いがあったようだが、貞享3年(1686年)に朱子学者の
木下順庵に入門。 特待生ということであったらしく、束脩免除で、目にかけられた由。
師匠の順庵は白石の才能を見込んで、加賀藩への仕官を見つけてきてくれたというが、
これ又 いろいろあって、同門の岡島忠四郎に譲ってしまう。 岡島君の老母の為なんだと〜

その後、順庵先生は甲府藩への仕官を推挙した。
白石が37歳の時である。
これも 当時の学閥だか、派閥だか、ややこしいことがあるらしいが、それはすっとばして
後の将軍 家宣 となる甲府藩主徳川綱豊にやっと士官となった。
が、甲府藩提示の三十人扶持の俸禄を、順庵先生が、「それではねぇ… 白石より末の弟子でも
三十人扶持なんて薄給ではねぇ〜 」と、掛け合って四十人扶持の提示を受けた。
しかし、順庵先生まだまだ推挙を渋る。 ところが、白石は “かの藩邸のこと、他藩に準ずべからず” と 宜しく願いまぁ〜す!と 仕官した。
                将軍家の御連枝である甲府藩は他の大名家とは訳が異なるってことだな…  ふむふむ
この仕官で、間部詮房と出会う。 
藩主綱豊は名を家宣と改め、宝永6年(1710年)将軍となった。
これで将軍家宣、新井白石、間部詮房の三人組が正徳の治と云われる政治改革に挑む。
白石の身分は幕閣でもなし、一介の無役の旗本であった。故に 側用人間部が間に入って
取り次ぐという形での作業、間部詮房も新井白石もいかに将軍の御信用篤きことか…

吉宗将軍になると、白石も詮房とともに失脚、公的な政治活動から退いた。
晩年は幕府より与えられた千駄ヶ谷に隠棲し、学者らしく多くの著書を残している。  
宣教師シドッチの話をまとめた『西洋紀聞』、回想録『折たく柴の記』などは 岩波文庫でも手に出来る。
絶対に信念を曲げず、貫き通す理想主義者であったらしい新井白石。
一面に麦畑が広がるような処だった千駄ヶ谷の地で 288年前の享保10年(1725年)に69歳で
没したという。

首都高新宿線を挟んで 今年開場30周年記念 国立能楽堂のちょうど北に位置するあたりになる。
                               ほぅ〜 一方の間部詮房の出自は能楽師だった …









投稿日 2013年11月12日 0:15:17
最終更新日 2013年11月12日 0:15:17
修正
2013年10月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
いやにこのところ 黒田官兵衛関連の書籍の宣伝が多いと思ったら 
来年の大河ドラマが “軍師 官兵衛” だとのこと。
竹中半兵衛と双璧をなす秀吉の軍師で、両兵衛と称された武将の黒田如水のことだ。
九州征伐やら、文禄、慶長の役などで活躍した黒田長政の父である。
晩年は中央から退き隠居生活の様子で、結構な 爺さまと思っていたが、
還暦を目前の59歳で亡くなったというから 仙人のような爺さんという訳ではなかった。
慶長大地震の前年のことで、江戸幕府は歩み始めたばかり、そんな時代に世を去った。

官兵衛が仕えた豊臣秀吉は 今月、案内望遠鏡で登場の綱吉、家宣なぞ足元にも
及ばぬほどの能好きであったという。
世の中が落ち着いていたればこその趣味のようであるが、それが オットどっこい…
全国統一を果たした秀吉は、朝鮮出兵を控えて武家奉公人と、年貢を確保する為に
身分統制令を発するが、その頃に、自らが能を習い始めた。
朝鮮出兵の為の居城として肥前名護屋に築城を始めた秀吉は、一年以上の
肥前名護屋滞在中、稽古を始めたという。

文禄2年頃から 能に夢中になった様子が残っているというが、正月に二十名以上の
能役者を 中央から九州の地へ名指しで呼び寄せ、能を催しているし、その後も
なんだかんだと 出兵の為の居城での催しがあり、八月には数十人の能役者を
呼び寄せていたという。

勿論 稽古をしているのだから、秀吉は見るだけでは納まらない。
十数番の能を覚えた挙句、秀頼が誕生した時に大坂へ帰った秀吉は、
徳川家康、前田利家らの武将を伴って、前代未聞にも能を御所で三日催す。
徳川家康、前田利家、小早川秀秋、蒲生氏郷、細川忠興、浮田秀家、
織田秀信、徳川秀忠、細川幽斎、毛利輝元などの有力武将達は、所領の自治や
朝鮮出兵と多事多難の折に、お付合いをさせられ、なんと 玄人に混ざって
いろいろな役の担当を仰せつかる。 皆で舞ったり、鼓を打ったり…   
勿論、秀吉は何番も舞った。 
禁中御見物からは 『太閤御能神変奇毒特なり』 とのことで、どう解釈すれば良いやら…
浅い経験ながら、最高の秘曲なぞも舞った記録があるが、権力者ならではの所業で、
実力のほどは如何ばかりか。 まぁ 落語の寝床ってところか。

秀吉は当然の如く、自分を主題にした能を作らせている。
これが 『明智討ち』 『柴田』 『北条』 『吉野詣』 『高野参詣』 の五曲で 
ははぁ〜ん、と納得の首が振れる。
有力武将は付き合いの為だか、政治的意味合いの為だか、自領でも秀吉好みの能を
盛んにせざるを得ず、地方へも能が普及していく。

天正20年に唐入りと言われて、第一次遠征のため、ぞくぞくと 諸大名が名護屋へ。
その時小西行長、加藤清正ら 総計15万8700人が海を渡ったそうな。
1597年、慶長2年に第二次侵略が始まるまでの間、秀吉は名護屋で随分と能に
力を注いだようで、没する慶長3年の前年までの間に、制度として能の座を保護する
方策を打出し、能役者の生活の安定を図っている。
これが徳川政権にも引き継がれ 能が武家式楽という形になっていったのだから
権力者秀吉の愛好の“お陰さま”ということか。
                       能の何がそんなに 秀吉を惹きつけたのやら。










投稿日 2013年10月12日 20:58:03
最終更新日 2013年10月12日 20:58:03
修正
2013年09月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
九月案内望遠鏡は自生の桔梗に お目もじ叶わずと結んだが、 
この言葉 “ おめもじ ”はそもそも、女房言葉で御所に仕える女房が使い始めた
仲間内での言い回しである。 職業と結びついた業界用語とでも云おうか。
室町初期ごろから使われたようで、丁寧な言い方として言葉の頭に “お”をつけたり、
語末に“もじ”を付けて 物の言い方が穏やかで角が立たない様にしたわけである。
内裏の中で 挽き目鉤鼻女房たちが 袖口で口を覆いながら おほほほほ… と
優美で上品な言葉を 使ったということであろうか。
後には 将軍家に仕える侍女、大名、武家、町家の女性へ、さらには男性へもと広まった。

   『今日の御采はおかべにおかかをかけて、おみおつけの身はひともじか。

早い話が 今日のおかずは冷奴に削り節がかかって、長ネギの味噌汁ってこと。
おみ御付け、おみ足、おみ御手、おみ帯、と “おみ” も女房言葉で、
丁寧な接頭語 “お” のおなかも、おならもしかり。結構、普段の生活に馴染んでいる。

圧倒的に食に関しての言葉が今も生きていて、おしゃもじ、おすもじ、
おこわに おじやに おからに おでん。
まだ真夏日になる昨今ながら、コンビニでおでんのセールをしていた。
なかなかの人気で、レジ傍の鍋でいい匂いを放つ。で、ついで買いを誘う。
おでんは本来、串挿しにした豆腐などに味噌を付けて焼いたもの意で、田楽焼きを指す。
が、焼かずに煮て調理する煮込み田楽が普及。 今や煮込み田楽がおでんとなった。
美味しいおでんの季節は確実にそこまでやって来ている。
ところでこの “おいしい” も女房言葉。
“いし”という古語、好ましいとか、優れるという意味の形容詞に、接頭語の“お”が付いて
“おいし”となった。 味の良さを丁寧に言おうと、“おいしい”という言葉ができたと云われる。
       『 はい、このおでん、大変に おいしゅうございます〜 』
            『 おすもじも 結構な時季になりました… 』









 


投稿日 2013年09月13日 0:38:48
最終更新日 2013年09月13日 0:38:48
修正
2013年08月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
最低気温が 夜も30度を下回らない東京に秋が来るものやら…
しかし、立秋を過ぎたとたん 秋の虫の音がしたのには驚かされた。
尤も この虫は几帳面なのか、慌て者なのか。
さすがに 夜を徹して鳴く蝉には負けて 廻れ右をした感である。

せめて思いは涼しい季節へと 秋の寂しさを嘆きながら初瀬川に棹さす女の話を。
急流の初瀬川で 旅の僧が女に話かけるという 能お決まりの型であるが、
先の 夕顔と同様、源氏物語を題材とした 能 玉葛の冒頭である。
“波乱に満ちた人生の迷いを晴らしてね!”僧に頼み消え去る女。  女の跡を弔う僧。
すると、玉鬘内侍が在りし日の姿で現れ、“浮世の流れに流され浮き名ばかり立っちゃって…”
“自分で払えども払えども煩悩は 黒髪の結ぼうれる如く闇路へと入っていくしぃ〜
あぁ〜 お坊様っ。 お弔い頂き、真如の心で妄執を翻す事が出来ました〜  
                どうも、どうも めるしぃ!!”と去っていく。

舞台の初瀬川、奈良県桜井市の北東に位置する 貝ヶ平山という800m程の山近辺が源流で
現在は大阪市と堺市の間で大阪湾に流れ込む 大和川の上流。
現在、河川法上は出発から終点まで大和川である。

奈良盆地を西に向かって流れ、佐保川、曽我川、葛城川、高田川、竜田川、富雄川など
盆地内の大半の河川をまとめて、生駒山系と葛城山系の間を抜けて、大阪平野にでる。
そして、南河内を流れてきた石川と合流する一級河川が 大和川だ。
そんなこんなしている川は地滑り多発の 峡谷を抱えて難儀を経験しているし、
また流域の奈良県などは下水道普及が遅れていた為に 数年前まで水質の悪い一級河川とされた。
古くからシラスウナギの稚魚が採れることでも知られ、アユの産卵も確認され改善が進んでいるという。
よみがえれ! 大和川清流復活大作戦” と銘打って大和川清流復活ネットワークをはじめ
官民協働で 並々ならぬ努力を現在も続けている。

こんな 大和川の上流。泊瀬川とも書く 初瀬川は万葉集にもご登場の川で 奈良県の公式HPにも
大和の川 万葉歌碑をたずねて― という ぺージがあるのでご一読を。
 

初瀬川という詞は 初瀬川の流れが早いところから「早し」にかかる枕詞で、
「はつせがは早くのことは知らねども…」 とか言って 昔のことは知らないけどぉ〜。と、
源氏物語 玉鬘に出てくるし、憂かりける人を初瀬の山おろし… と百人一首でもお馴染。


あの夕顔の忘れ形見の玉鬘は 夕顔が雲隠れたかのように行方知れずで 乳母に4歳の
時から育てられていた。 乳母の夫が筑紫に赴任といえば 連れて行かれる。
勿論、乳母の息子も娘も一緒で転勤先で それぞれ所帯を構えさせたが、夫は 今一つ気合いが
掛からず、此処って 結構いけてるしぃ、京へ帰ってもぉ… と 筑紫で没す。
二十歳になった玉鬘はなんたって 眉目秀麗の母の娘。その美しさと都の貴人の血を引くのに
こんな田舎に埋もれさせてはなるものか!と 乳母“ 結婚できない体なんでございますよぉ〜 ”と
言いふらしながら ご近所さんの御世話の縁談は断り続けた。
が、肥後一円に広大な土地持ちのおっさんが、懸想して、乳母の息子たちを買収。
縁談成就の工作に出た。それにもめげない 乳母やら息子軍団。
結局 玉鬘ご一行 京へたどり着くも知り人なく、生活も困窮。清水八幡や初瀬の長谷寺へ観音参り。 
そんなこんなの挙句に、結局源氏の君のもとへ。 
なんたって お話しなので、光の君によって…   中略乍、
花散る里の邸で 玉鬘、最高の貴人生活を送る。 そして 婚活開始。
挙句の果て好きでもない 髭黒の右大将にゲットされ、色気のあった冷泉帝と 鳶に油揚げをさらわれた
源氏はあえなく 撃沈。   後略。
玉鬘 二人の息子と太政大臣にまで昇りつめた夫の北の方として 生涯を閉じる。
何処が妄執かとのご感想あろうかと思えども 玉鬘十帖のなが〜い 物語、
                                            ちょうど時間となりました!!


観世九皐会 9月定例会平成25年9月8日(日)  於:矢来能楽堂 三余堂  仕舞 玉葛 出勤 
投稿日 2013年08月12日 11:05:38
最終更新日 2013年08月12日 11:05:50
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2013年07月12日
カテゴリ : [三余堂月次]


今朝の朝顔 見事な団十郎 今朝の朝顔


今朝の朝顔 今朝は四つかな 五つかな…
投稿日 2013年07月12日 12:53:30
最終更新日 2013年07月12日 12:53:30
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2013年06月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
今月は旧暦で水無月、 みなづき と呼ぶ。
現在の暦でも6月の別名として用いるが、旧の暦とは時季がずれる。
水無月の由来には諸説あって、聴く度にこれがまた混乱の種だ。
旧暦では6月下旬から8月上旬頃が 水無月に当たるので、文字の通り、
梅雨が明けて水が涸れて無くなる月である。
しかし、田植が終わって田んぼに水が必要な月なので、「水張月(みづはりづき)」
「水月(みなづき)」で、水無月となったとする説も有力だそうな。
だんだんに 訳が判らなくなってくる。
田植を仕終えた月で「皆仕尽(みなしつき)」、又、水無月の「無」は「の」という意味の
連体助詞「な」で、「水の月」だという説やら…
「梅雨で天の水がなくなる月」だの、「田植で水が必要になる月」だのと 後付けで
勝手なことは言える。が、それぞれがアタラズトモトオカラズといったところのようだ。
兎にも角にも 六月が水無月。

一年の半分の水無月と、その一年の歳の終いの晦日に、罪や穢れを除く為の行事がある。
6月は夏越の祓 なごしのはらえ、12月は年越の祓 としこしのはらえ という。
701年、大宝律令によって宮中の正式年中行事に定められたというから 大神事であり、
単なる大掃除ではない。 この日には、朱雀門前の広場に親王、大臣ほか官僚が集って
大祓詞を読み上げ、国の民の罪や穢れを祓ったという。
当時は衛生意識が今のように高くはなく、環境も整わない状況だった。
易疫病流行などの予防に対処する啓蒙活動の一環として、季節的に必要に迫られた
意味の重い行事であったろう。 応仁の乱頃まで、百年ほどは盛大に行われたという。
その後衰退、江戸の元禄に再開して、裾野に広まったというから、社会背景を考えさせられる。
落ち着かない世の時こそ大祓いを願いたいものであるが…

時は下り、明治4年の太政官布告で、明治新政府は「大宝律令」の「大祓」の旧儀を再興し、
全国の神社で「大祓」が行われるようになったという。お上からのお達しであった。
ご維新後の日本の姿が垣間見え、これまた時代背景が感じられる。
戦後は祭政が切り離され、「夏越神事」「六月祓」などの称も復活して現在に至るという。
この時期、無病息災を願っての茅の輪くぐりが時折ニュースで流れる。これが夏越の祓である。
夏越祓には「水無月」という菓子を食す習慣があるという。
白のういろう生地に小豆を乗せた三角の生和菓子。
小豆は悪霊祓い、三角の形が暑気払いの氷を表しているのだそうだが
云われてみれば初夏の涼味として口にしていた甘味である。

この時季には上演の観世流の能に “水無月祓 ”という曲がある。
下鴨神社の夏越の祓で 恋慕いながらも別離した男女が再び会うという大団円の
作品として描かれているが、 賀茂神社の「夏越祓」が有名であったことは、    
 
    風そよぐ奈良の小川の夕暮れは 禊ぞ夏のしるしなりける
 
と 百人一首の藤原家隆の作からもよくわかる。
今年の“水無月祓”は 能として舞台で ご高覧願うも一興か。


水無月祓 鴨川の後瀬しづかに後も逢わん 妹には我よ今ならずとも  能 水無月祓 より   
                                                                  阿香 書く






 水無月祓 2013.08.11. 於  観世九皐会定例会

投稿日 2013年06月12日 14:55:58
最終更新日 2013年06月12日 14:56:23
修正
2013年05月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
責任や権威を証明するものに印がある。 
判、印判、印形、印顆、印信、判子に押印、捺印、押捺と、
聞いたような、耳慣れぬような言葉もあるが、“ここにハンコウお願いします!” のハンコである。
ちなみにこのハンコウは、版木に彫った文字や絵を刷り、発行するので、版行。
転じて認めはハンコで、判子。ハンコウと、厳密にはちと 意味合いが違う。

ハンコは、古代メソポタミアで使われるようになったというから 6、7千年もの歴史がある。
わが国で古いものと言えば 「漢委奴国王」の金印を思うが、大化の改新後、律令制定とともに
ハンコが使用されるようになったそうだ。
公文書に押されていたものが、中世には花押になる 。

これは所謂 個人のサインで今も閣僚署名は、花押で行なっている。
花押なぞ普段使用することがないので、閣僚就任とともにデザインを考えるとか。
大臣初就任の人にとっては重要優先事項ってところだろう。
昔ながらの免許状は発行者や、それを認めた責任者として、宗家、家元の花押が
印されるので、我々は 結構馴染深い。
江戸時代には何かと役所で書類にハンコを押すようになっていたようだ。 が、ご維新後、
明治政府は欧米諸国にならって署名制度の導入を試みたものの、ハンコに軍配。
その後印鑑で、個人や法人を証明する印鑑登録の制度も始まり、平成の御代も
                                      “ハンコお願いします!  ”である。


大陸で印鑑制度というか、印璽制度が確立したのは 秦の始皇帝の時代という。 
皇帝は天からの授かりものの“璽” じというものを持っていた。
恐れ多くも 『ギョメイギョジ』の 璽である。
官僚任命に当たっては 印と紐を授け、“印綬をもってす”という次第で、
皇帝は最高級の玉製印璽、官僚は官職に従って 金、銀、銅と区別。
名称も璽、印、章と異なり、当然大きさも変わってくる。
秦漢の時代は役人が印に紐を通して、腰に下げ、身分を表していた。
当時の政治文書は紙ではなく、木簡や竹間なので、それらを束ねて紐でくくり、
そこに粘土を塗って、押印した。押印された粘土を封泥という。むやみやたらの開封防止の策。
故に、この時代の印は文字が凹に彫られ、粘土上の文字がくっきりと凸に浮かぶように
鋳込まれていた。その後時代が下って、紙のご登場。

隋、唐代は紙に押印することが定着すると、印は官吏への支給品でなく、役所の常備品となる。
となると、印そのものはバッジや憲章の意味より、紙の印影のほうが 重要になってきた。
大きさと印影での勝負の始まり。
漢の時代の四倍もの大きさ、二寸四方になったそうだ。
秦漢の粘土に推すものは文字が凹み、陰の状態であったが、唐代になると、文字の部分が
凸となり、紙にはっきりと文字で見えるようになる。封泥に代わる認証の誕生であった。
物を閉じるのに使う具体的な仕事から、紙に押した形という 抽象的な性格をはらんでいく。
凹から凸へ、陰から陽への反転だ。

支給物でなくなった印は 個人的なしるしとしての 印を生む。
“これ、ぼくんちの!”“ 私のものだからっねっ。” と蔵書印や書斎の号印などと使われ始めて
官僚制度から解放されていく 。
もっと時代が下って、明、清の時代。 
材、装飾の彫りは勿論、その刻された文字の風雅、風化、風触を抱えて
芸術としてふるまう印が登場する。  篆刻である。

2008年、フランスのオークションで、清の第4代康熙帝のものが8億円近くで落札されたという。
凍石という石材で、重さ3キロ、縦14センチ、横10センチ。
皇帝を示す龍が彫られ、康煕帝が描いた絵画に使用されたらしい。

“ここにハンコお願いします! ”も 辿れば さまざまである。




 “ここに ハンコお願いします! ” 定武蘭亭序 王羲之
2006 東京国立博物館 書の至宝 日本と中国 図録より      歴代所有者による印が夥しく押されている




投稿日 2013年05月12日 14:46:13
最終更新日 2013年05月12日 19:38:01
修正
2013年04月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
あまりの早い桜に追いつけ、おいつけと頑張った木々。
小さな芽吹きの若葉が レースのカーテンのごとく 朝日を覆う。
柔らかで壊れそうな生まれたての葉は 甘い新緑の香りも運んでくる。 
遠くから静かに風の音をも伝える。
冷たく澄んだ空が青く輝き、 
常緑の枝には濃き淡きと緑の色が重なり合って 艶やかな装いを呈する。
その陰で役目を終えて枯茶になった落ち葉の季節でもある。

霞か雲か、海の向こうから黄砂が、若葉寒の空から光を奪う。 まだまだそんな時もある。
“春霞 たなびきにけり久方の 月の桂の花やさく ”
と 能 “羽衣” の一節でもこの季節の様子を知る。
能の謡ばかりでなく、囃子も初心の稽古で必ずお世話になる 一節だ。
必死で師について口をパクパクさせたり、手を動かしたりでは
意味なんぞどころでなく、かすみもへったくれもないだろうが 春らしい詞章である。


三保の松原に住む漁師。松の枝に掛かった美しい衣を発見。 うちへ持って帰ろうっと!
そこへ天女が現れて、『その羽衣を返してぇ。それがないと、天に帰れないの。』 とくる。
『?見つけたの僕だしぃ、名前も付いてないしぃ〜 』 
『え゛っ〜 でもぉ〜  それがないとぉ…』 てな次第で、天女の舞を見せて貰えれば
返してもいいかなぁ… と。 取引成立。
そこで天女、有難しとばかりのお喜びダンスご披露。
月宮の様子はこんなところなの、とやら、春の三保の松原ってとっても素敵なんて、
褒めてみたりしながらの舞いとなる。
そうこうしているうちに 彼方
の富士山へ舞い上がった天女。
あぁ〜  いつのまにやら霞にまぎれて 消えていっちゃった…



世界中何処にもあるという、所謂 羽衣伝説をもとにした能である。作者は判らない。
漁師は羽衣を返したら、舞を舞わずに帰ってしまうだろうなぁ、と、なんとも懐疑的であった。
すかさず天女に 『いや疑いは人間にあり、天に偽りなきものを』 と、切り返えされる。
深く意味蓄えられた言葉であった。
邪念なく美しい天女の舞がその意味をことさら深める。

若葉寒の冷え乾いた 大気に改めて思う。
    『疑いは人にあり、天に偽りなきものを』 を… 


(c)La plume d'oie 鵞毛庵 2003 春霞 たなびきにけり
能「羽衣」より
天津風雲の通い路ふきとじよ乙女の姿しばしとどまりて


投稿日 2013年04月13日 2:03:15
最終更新日 2013年04月13日 2:03:51
修正
カテゴリ : [三余堂月次]
桜が散り、若葉寒の東京で 只今 編集中!
投稿日 2013年04月12日 0:18:30
最終更新日 2013年04月12日 0:18:30
修正
2013年03月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
毎月12日には三余堂月次として記事を掲載していたこの能楽さんぽ。
2013年2月12日、 何を間違ったかこの項に記事掲載の折、開闢以来の三余堂月次の記事を
削除、紛失と相成る。
おまけに 画面上方の月次の項をクリックしても“該当する記事はありません。” ときたもんだ!
勿論 ゆったりと慌てて 復元に相務めたが そうそう簡単な次第とはならず…
追々 システムは復旧させるとして、 まっ、無くなったものは無くなったものとして致し方なし。
但し、案内望遠鏡、鵞毛庵と連動した続きものの記事になっているものは 
ぽちぽちと 戻していこうかと考えてみたりもする。
無くなったのを良いことに 素知らぬふりで 再掲載という手もある。

さしあたって、3年前の3月 12日 月次記事を。
新装成って、間もなくの開場待つ歌舞伎座の話であった。


木挽町の歌舞伎座
明治期に歌舞伎を近代社会にふさわしい内容のものに改めようという 演劇改良運動 
なるものがあった。
その熱心な唱導者福地源一郎等によって 日本一の大劇場を目指して
歌舞伎座は造られた。 明治22年11月の開場という。
洋風の外観で、内部は日本風の3階建て檜造り、客席定員1800人あまり。
明治44年には老朽化と帝国劇場の出現で純日本式の建物に大改築される。
その後 大正10年10月、漏電により焼失。

大正2年に松竹創業者の大谷竹次郎が、当時の歌舞伎座の経営に携わるようになっており、
ただちに再建が始まったものの 関東大震災で工事は中断。
大正13年の12月に完成となった。
鉄筋コンクリートを使用した耐震耐火の日本式大建築ということである。
歌舞伎座の100年史をみると これが現在の建物の原型で、外郭を残して昭和20年5月、
空襲で焼失した。
昭和24年11月歌舞伎座再建のため株式会社歌舞伎座が設立され、戦禍を受けた建物の
基礎や側壁の一部を利用して、昭和25年12月に現在の歌舞伎座が竣工した。
吉田五十八の設計である。 
客席数約2000席、直径約18mの廻り舞台、大小合わせて4ヵ所のセリを備えた劇場は
平成14年2月14日「登録有形文化財」に登録されたそうだ。

現在の建物はとっくの昔から 設備の老朽化などが問題になっていた。
浮かんでは消え、消えては浮かぶ立替えの話がやっと本格化して、
昨年から劇場前には立替までのカウントダウン電光板が設置されている。



銀座から、晴海通りを築地へ向かう。
やがて 昭和通りとの大きな交差点を渡ると、左手に大屋根の歌舞伎座が姿を見せる。
地下鉄日比谷線の東銀座駅の真上という表現が ぴったりの場所に劇場正面玄関がある。
中央区銀座四丁目という地番で、現在歌舞伎座は銀座だということであるが、
そもそも、東京都京橋区木挽町三丁目に創建されたものだ。
木挽町というのは名の通り、江戸城造営関係の鋸匠を住まわせた処というわけである。

あそこは 木挽町で 銀座じゃぁない、と宣う御仁も多い。
             だよなぁ 歌舞伎座なんぞよりずっーと前からの江戸のご住人にすれば なぁ…

その歌舞伎座前は常に内外の観光客が カメラや携帯を向けているし、
舞台のない時には 雑誌のグラビア撮影で、そそとした女優がポーズを取っていたりする。



ぐるりと裏へ廻る。 
と、舞台を支えていた飲食店も移転を始めて 歯抜けのような更地が出来た。
解体工事や建築計画の告知看板も掛けられている。
薄暮の中、汚れた白壁面一杯に室外機が何代も何代張り付いていた。
圧倒するほど大きな壁。
劇場2階3階廊下の赤い提灯に火が灯って 夜の部の上演がはじまった。

  歌舞伎座の裏三余堂月次削除の顛末記  
         黄昏の歌舞伎座三余堂月次削除の顛末記  
横町改築看板三余堂月次削除の顛末記




歌舞伎座東側には興行成功安全祈願のために 初日と千穐楽に 関係者一同
御祓いをするというお稲荷さんが勧請されている。
そして また、建築の告知。

そこに あと幾日もない劇場の姿を垣間見た。
   
                      2010年3月12日の三余堂月次から
  









投稿日 2013年03月12日 23:11:11
最終更新日 2013年03月12日 23:11:11
修正
カテゴリ : [三余堂月次]
只今編集中!

削除!あっ、三余堂月次記事 が消えた顛末…



2007.3.月次の記事から三余堂月次削除の顛末記
投稿日 2013年03月12日 0:33:46
最終更新日 2013年03月12日 0:33:46
修正
2013年02月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
神武天皇が即位したとされる日が、紀元前660年2月11日。
大日本帝国憲法の発布は1889年の2月11日だった。
1979年の2月11日は、イランは革命側が政権を掌握した日で、立派な髭の
ルーホッラー・ホメイニー師を中心とした革命勢力が、政権を奪取した。
現在イランは、この日がイスラム革命記念日で、いわゆる 建国の記念の日になっているそうだ。


神武天皇即位日とする2月11日は、“新暦だ、旧暦だ” その計算方法が “どうだのこうだの”と 
複雑怪奇を乗り越えて決まったようだ。
なんせ、伊邪那岐、伊邪那美の二柱の神が創り賜うた大倭豊秋津島。
二千年もたってから、日付を指定するということが そもそもそ恐れ多い。
とは云え、1872年12月15日、当時の暦で、明治5年11月15日に明治政府は
神武天皇の即位をもってこの国の「紀元」と定め、1月29日を神武天皇即位の相当日とし、
祝日にすることを定めたのだ。
この日は、明治6年 旧暦1月1日で、それを新暦に置き換えた日付。
この年の1月1日から、新暦が施行されることになっていた。なんともはや ややこし!
何をして建国とするのか色々な考えがある。国や時の政府によって異なって然る可し。


   建国記念の日となる日を定める政令をここに公布する!
御名 御璽     昭和四十一年十二月九日
と云う次第で、建国記念の日となる日を定める政令というのが出た。


戦後間もない1947年、片山内閣の祝日の法案では紀元節が「建国の日」となっていたという。
が、GHQに削除されたそうな。当然復活運動がおき、国会へ議案も出され、「紀元節」の復活は
如何なものか…、いやいや、やはり… と、賛否両論。
1966年に、「建国記念の日」を定める国民の祝日に関する法律の改正が成立。
佐藤栄作内閣は、政令で、「建国記念の日」を2月11日とした。
新たに国民の祝日に加えられたのである。 翌1967年2月11日から実施。 
昭和42年のことで、当時は喧々諤々であったが、 学校の休みは増えた。
かくして、「建国をしのび、国を愛する心を養う」という趣旨で、「建国記念の日」が祝日となる。
明治に定められ、戦後1948年に廃止された紀元節と同日の2月11日である。

明治の御代になった時、太政官布告で「年中祭日ノ休暇日ヲ定ム」として、紀元節や天長節などの祝日が定められた。
初代文部大臣 森有礼文部大臣の時に、祝祭日に学校で式典を試みたそうである。
その後、『小学校祝祭日儀式規定』なるものが制定され、文部省から校長訓話や唱歌合唱などの
式次第が事細かに規定されたという。
戦前、緊張の面持ちで正装の児童は学校での式典に参列。
 “くうもにそびゆるたかちほのぉ〜” と意味も事情も分からずに歌い、紅白の饅頭を手に下校。
とは、子供のころによく聞かされた。 戦後生まれながら三余堂も知る 『紀元節』の歌は、
現東京藝術大学音楽学部前身、音楽取調掛の長 伊沢修二先生作曲、
御歌所初代所長、初代國學院院長高崎正風先生作詞で1888年(明治21年)に発表された。


一、雲にそびゆるちほのねおろしに草も木も
  なびきふしけん大御世を仰ぐけふこそ樂しけれ

二、うなばらなせるはにやすの池のおもよりなほひろき
  めぐみのなみにあみし世を仰ぐけふこそたのしけれ

三、天つひつぎのみくら千代よろづに動きなき
  もとゐ定めしそのかみを仰ぐ今日こそたのしけれ

四、空にかがやく日の本の萬の國にたぐひなき
  國のみはしらたてし世を仰ぐけふこそ樂しけれ


興味のある御仁はYouTube でご鑑賞を! 紀元節の歌

戦後の昭和に 「国民の祝日に関する法律」がとって変わり、学校での儀式も無くなった。
平成の御代 それどころか、なんとかマンデーも加わわると、今やラッキー連休!である。
子供の頃に紅白饅頭を持ち帰った年寄りも、今日はなんで夕刊が休みなのか、と 
ボケてもいないのに言う。
「建国をしのび、国を愛する心を養う」ということが新聞紙面からは読み取りづらい今日。
夕刊もへったくれもない。

労働時間の辻褄合わせの休日となってしまったのだろうか。 
この 「国のできた日」。










投稿日 2013年02月14日 15:48:41
最終更新日 2013年02月14日 15:48:41
修正