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2014年06月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
木蓮の仲間にタイサンボクというのがある。
明治6年 (1873)に渡来したとされ、明治12年に来日したアメリカのグラント夫妻によって、
上野公園に記念植樹されて有名になったという
第18代アメリカ合衆国大統領 グラント将軍は、大統領を二期務めた後に世界を周り、
その際、日本にも立ち寄って植樹となったそうである。
将軍がローソンヒノキ、夫人がタイサンボクを植えた由。
上野東照宮の参道入口脇という一等地に植えられたが、ヒノキは兎も角、
タイサンボクは元気だとのこと。但し、夫人植樹のは変種の細葉泰山木だったという。
50年もたった昭和4年に、渋沢栄一 と 益田 孝 が立派な記念碑を建てているというから
博物館に行った折にでも確認してこようと思う。

北アメリカ南部に分布する常緑樹 タイサンボクは自生地のミシシッピ州と
ルイジアナ州では州の花なのだそうな。    何しろ大きくなる。 
樹高は20mにはなるだろうか、枝を広げた姿は誠に雄大だが、ややもすると邪魔。
将軍お手植え当時は この木、渡来したばかりで現在の名はまだ付いておらず、
ハクモクレンの中国名「玉蘭」に グラントを付けて「グラントギョクラン」としたそうだ。
てなことが、記念碑には書いてあるのだろう。 ちなみにタイサンボクの中国名は「洋玉蘭」。

二階家の屋根を遥かにしのぐ 泰山木

濃緑色で光沢のある長楕円の葉は、20cmはある。葉裏は褐色の毛が密生してビロードのようだ。
今頃咲く花は これまた大きくて輝くような白さを見せる。直径は葉の丈はあるだろう。
丸い玉のような大きな蕾は 一瞬にして力強く開くのだろうか。
それとも 陽の光を浴びながら静かに、静かにほころんでいくのだろうか。
見上げるばかりの花は芳香を放つという。が、そんな近くに花を見ることはできない。

今年は すっかり選定されて花数も少ないが…  泰山木


タイサンボクは中国山東省にある『泰山』ノ木ということである。
世界遺産に指定されている道教の聖地 『泰山』とは直接関係ないようだが、その雄大さ故の命名か。
見解は色々のようだが、大きな葉の間に次々と大輪の花を咲かせ 学名のgrandiflora「大きな花」の
意は、まさに!と誰もが思いそうだ。 
初夏の朝陽に、孟夏の夕日に輝く花は三余堂への道に日陰を作る。



泰山木
ゆふぐれの 泰山木の 白花は われのなげきを おほふがごとし 斎藤茂吉












投稿日 2014年06月01日 22:11:40
最終更新日 2014年06月01日 22:12:26
修正
2014年05月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]


 もう三十年近くになろうか、 新緑の下を歩くと必ずさわやかな芳香を感じる道があった。
風に乗ってくる香りは 春を知らせる沈丁花の香気とは異なり むっとするような湿り気を
含みはじめた空気に混じりながら 追いかけてきた。 なんだろうかと思いながらも花の
香りとも知らず行き過ぎる。
つっかけたサンダルを引きずりながら 照り返すアスファルトに影を見て 『さっきの香りだ!』
手にセブンスターと釣銭を握りしめて、辺りを見回した。 この時期 植栽、プランターから、
道端の小さな草に至るまで美しく新しい緑は どれも勢いに満ちた顔をしてこちらを見ていた。
が、これといって己が鼻に薫りを感ずるものもなく、握られた釣銭が汗で湿って 早く解放しろ
と叫んでいるようだった。
孟夏の心地よい風が、肩越しにすっうと抜けるのを 『こんな季節を楽しめよ』 と、腹の中で
小銭に云いながら玄関へ向かった。

 次の年、煙草屋への道にある家の庭先に白やら藤色やらといやに豪勢な感じで花が咲く。
よくよく見ると 一本の木に濃い紫から白まで、漏斗状の五枚の花弁をつけて花の間に 光沢の
ある葉が陽を受けて輝いてる。 顔を寄せて もっとよく見たいと思った。
覗き込んだ鼻には突き刺すように強い芳香がして、『あの 香りだ!』
香りの主は 匂蕃茉莉とや。 三余堂初めて見知る。
 



花は咲き始めが濃い紫で、次に薄い紫色、最後は白色になって、強い芳香を放つという
ニオイバンマツリであった。 匂蕃茉莉、は、ナス科の常緑樹で原産は南米とのことだが、
日本でも充分に越冬する。その後 三余堂にも小さな鉢植えが嫁入りしてきた。 当時の
園芸の流行りだったのだろうか。 結構大きくなるもので 初夏の爽やかさを玄関先に振り
まいていたが、いつの間にやら なくなっている。 







      五月の花 匂蕃茉莉
投稿日 2014年05月02日 13:30:12
最終更新日 2014年05月02日 13:30:28
修正
2014年04月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
甲午孟春 花見の季節到来。

能に吉野天人という曲がある。
吉野山の桜見物で出会った不可思議な女が、実は天より降りてきた天人で、
美しい舞を舞い、花の雲に乗って消え失せるという話だ。
どうという、とり止めない話ではあるが、桜の花を愛でる人々それぞれの心の内を感じる

さくらの語源は諸説あるようだが、古事記の「木花開耶姫」 このはなさくやひめが、
転化したという説や「さ」が穀物の霊を表し、
「くら」は神霊が座する所で、穀霊の集まる處を表すという説もあるようだ。
その開花が農作業の目安の一つであることを考えれば、桜に実りの神が宿るのも至極当然。
庭仕事ばかりでなく、ベランダのプランターも桜の開花が仕事を急がせる。

その年で花の早い遅いは言うまでもないが、花色の美しさもまちまちである。
花色は咲初めてから散るまでの短い時を変化していく。
東京で一般的な染井吉野は 咲き始めは淡紅色から白くなり、
散る頃には花の付け根が紅色に染まる。
桜の色と言ったって、種類で白色の桜、.淡紅色の桜もあれば 緋寒桜の.紅色もある。
そうそう、.墨染の桜ってのもある。尤も、花が墨染めな訳ではないが…
同じ種類でも、東北や北海道の桜は関東の桜よりも花の色が濃いという。確かにそんな気がする。
海辺や平地の桜よりも山の桜の方が濃い色だともいう。 

桜の花びらの色素は薄いとはいえ、アントシアニンという、例のポリフェノールの構造の色素。
野菜や果実にも含まれる植物色素で、確か紅葉の赤色もこのお蔭さま。
シアニジン-3-グルコシドと呼ばれる色素が主だそうで、多量なら黒豆やらサクランボの赤い実の色
ということになるそうな。桜の若芽の赤い色もこのシアニジンなんじゃらの量ということ。
お天道様がよく当たるとか、雨が多いとか少ないとか、お若いとか、年増とか、
はたまた管理栄養士がついているとか、いないとか。
どちら様もお手入れひとつで様子が変わるのは当然のことであろう。

光の乱反射の影響で、花弁表面の細胞の形や、並び方が関係して濃淡は出来るようだが、
同じ程度の濃さの花を咲かせるにはそれなりの遺伝子制御という、科学的努力が必要らしい。

とはいえ、見た時の天候、あたりの様子、とりわけ、眺めるその時の心持。
濃きも薄きも気分次第の花の色〜 である。

早くも満開 花の色 ことしの色は〜











四月観世九皐会定例会にて 三余堂 能『吉野天人』を勤める



投稿日 2014年04月01日 17:22:41
最終更新日 2014年04月01日 17:22:57
修正
2014年03月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
三月になって春の香りが満ちる時期である。
四月からの消費税引き上げの為 今年は雛人形の販売と共に
五月の節句にも向けてせっせと準備が始まっていた。兜やら鯉幟やらの姿が消え しばらくすると
六月は梅雨で これからの季節を迎え討つ覚悟を強いられる。
七月の七夕は短冊に猛暑から救い給え!と願いを込め、スーパーの大きな笹にくくりつける。
八月はひたすら ガリガリ君の活躍。
九月は 菊見もさることながら 食用菊の“もってのほか”登場。
その後の街中はハロウィンだクリスマスだと 洋物節句商戦で忙しい… 。


日本の暦の一つである節句は宮中で節会と呼ばれる宴を催していた。
それを 江戸幕府が公的な行事としたということらしい。
人日の節句、上巳の節句、端午の節句、七夕の節句、重陽の節句の五節句である。
季節の節目となる日ということだ。
正月の“おせち料理” も季節の節目の節句料理からきていてるのだ。
ちなみに 一月七日 七草の節句で 『人日 ジンジツ』。
三月三日 桃の節句で 『上巳 ジョウシ』、つまり雛祭の日。
五月五日が 菖蒲の節句で 『端午 タンゴ』の節句である。
七月七日は たなばたで、『七夕 シチセキ』。
九月九日は 『重陽 チョウヨウ』の節句、菊の花で埋め尽くされる菊の節句となる。


今日あたりから大きな声で まつりだっ祭りだっ〜 ひなまつりだよぉ〜っと お兄さんが
叫びながら 蛤やら、タイの刺身やら菜の花を売りまくるのがスーパー。
それらをじぃっーと 見入って結局、綺麗に飾られた出来あいの五目寿司を手にする。
それはもっぱら年配の男性の姿である。 ひな祭りは ターゲットの広い商戦なのだ。



節句
こんな感じのお雛様も…











投稿日 2014年03月01日 10:37:35
最終更新日 2014年03月01日 10:37:47
修正
2014年01月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
恭頌新禧

本年も宜しく願い上げます

初詣
午前0時の元旦ミサに向けて灯りが燈る聖イグナチオ教会



年が明けて午前2時を過ぎて初詣参拝の列が続く本殿前の提灯に井草八幡宮
初詣

初詣の掛け持ちとは 忙しい甲午の元旦と来たもので…
とにかく午前零時から、二時の時間帯は若者ばかりが目につき、前途洋々の国に見える。
これが昼間になると、高齢化に押しつぶされんばかりの国に見えて来るのだろうなぁ、
                                             なんともはや…
などと思いつつ 八幡宮参道に並ぶイカ焼きの香りに引き寄せられて、若者の
集団に飲まれていく。
参拝はあまりの長蛇に 取敢えず揚拝にて。
干支の絵馬を頂いて、さぁ、並び直すのは本殿前の列やらイカ焼きの列やら〜

本年も変わらぬご厚誼賜りますよう存じ上げます!










投稿日 2014年01月01日 4:19:16
最終更新日 2014年01月01日 4:19:16
修正
2013年12月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
過去の能楽さんぽの月次記事は一部消滅している。
とは他人事な言いようだが、早い話が、編集中クリックひとつで ぱぁっ〜
保存の原稿をもとに、折にふれぼちぼちと記事として復活させている。

今回は2008年7月の月次の記事から。その月の案内望遠鏡 錦木塚伝説の続きで、 
錦木塚に立ち寄った折のものだった。
真紅の紅葉と割れ出る赤い実が 秋という印象を持つ錦木の話である。
この錦木は秋の季語になっている。

錦木に寄りそひ立てば我ゆかし  高浜 虚子


山野にも自生しているが 秋にならないと気付かずに見過す。
三余堂の小さな庭でもいつの間にか花が咲き、実がはじけ、いつの間にやら木そのものが朽ち果てた。

錦木伝説 その弐 
  
錦木伝説の 錦木はどうも燃えるような赤に変身する あのニシキギ とは限らないようである。
大辞林には 「五色に彩った三十センチメートルほどの長さの木で、男が恋する女の家の戸口に夜ごとに一本ずつ立ててゆき、女は同意するときこれを中にしまう。染め木。」  とある。  
もともと鹿角辺りでは、紫根染が欠かせないもので、それが年貢とされていたらしい。
それが狭布 せばぬの。 幅の狭い布だった。南部織りともいう、百姓の野良着である。

錦木も、狭布も鹿角の地名。
毛布 けふ は鹿角一帯の地名で、毛布の狭布は白鳥の羽を織り込んだものが上物とされた。
ニシキギ科の錦木は 真っ赤に染まるが 白鳥の羽を織り込んだ狭布を染められない。 
たぶん 別物だろう。 
で、この反物は幅が狭く 野良着として襟を合わせない仕立であった。
お互いの心がしっくりあわない意を けふの細布胸あはじ と、言い習わしたそうな。

能の錦木は 狭布(けふ・せばぬの)の里を訪れた僧の前に、
細布を持った女と錦木を持った男が現れてこの辺りの風習を話し
三年の間 錦木を立て続けた男の塚に僧を案内し消えていく。

錦木伝説 その弐 
    


そして 亡霊の姿で現れた男は機を織る女の家に錦木を持って行き、舞を舞い、姿を消す。
錦木伝説のかなわぬ恋の悲しさに絡めて、人の様を描く世阿弥作品となったのである。

錦木伝説 その弐 
  

 
平成25年の師走は 九皐会定例会で錦木の地頭を勤める。
投稿日 2013年12月01日 9:21:47
最終更新日 2013年12月01日 9:22:06
修正
2013年11月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
鋏の音が 冷たい朝に響く。あちこちで植木の手入れである。
温暖化で厳しい夏だった今年、小さな庭の木も枝が大きく張って
この時期になっても青々と葉を繁らせていた。
10月の末に 次々に発生する台風の心配をしながら 植木に鋏が入る。
あちらの家も、こちらの家も脚立の足を据えて 枝葉の中に植木職人の姿が
埋もれていた。 三余堂もしかり。 自慢のヤマボウシもすっかり枝が落ちた。
嵐の強い風にも負けず、公道に向かって好き放題に伸ばした枝がうち払われ
赤く染まった葉が 顔を出した。 ちら、ほら 。
これで サザンカでも咲き始めれば ザット 冬でござる〜

赤くなった葉が  霜月の朝顔 



霜月の朝顔  霜月のつぼみ


             まだまだ頑張る艶姿 霜月の朝顔 


いやぁっ〜 まだまだ…  木の下陰で息を潜めていた朝顔がつぼみをつけている。
恐れ入谷の鬼子母神からの嫁入り娘、本来なら往生の時をとっくに過ぎている
筈なのに 今や大年増となってご生息である。 
まさか あでやかな行燈づくりの姿に 雪が積もるなんてことはないと思うが。
江戸時代に観賞用植物となるまでは もっぱら百薬の長として珍重された朝顔。
一年、一年で命を終えるこの花は 夏ではなく秋の季語である。
が、霜月の朝顔につぼみがあっちゃぁ…
 “朝顔に つるべ取られて もらひ水” 
加賀千代女はなんと捻るか、霜月一日の朝。





投稿日 2013年11月01日 9:08:03
最終更新日 2013年11月01日 9:12:36
修正
2013年10月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
徳川家宣(とくがわいえのぶ)は、犬公方や暴れん坊将軍に挟まれた在職期間が三年余りの
江戸幕府第六代将軍だ。 五代将軍綱吉に世嗣がなく、後継候補だった綱吉の娘婿も亡くなり、
次期将軍ということで、家宣が甲府徳川家から江戸城西の丸に入ったのは1704年12月31日
だったという。 時に家宣43歳。 5年後の宝永6年、五代将軍綱吉の死去に伴い48歳で
第六代将軍に就任する。
悪評の生類憐れみの令や酒税を廃止するなどして、庶民の人気は結構高かったらしい。
赤穂浪士でおなじみの柳沢吉保を免職し、甲府徳川家旧臣である間部詮房、新井白石らを登用。
文治政治を推し進め、荻原重秀を使って財政改革と、なかなか張り切っていたようだ。
が、在職3年、正徳2年秋 1712年11月に満50歳で死去。
東京は芝の増上寺にねむっている。いわゆる 正徳の治という政治改革をした将軍である。

五代将軍綱吉の時 あの悪名高き側用人という役職を賜った柳沢吉保の後を継いで
家宣に側用人として将軍家宣に仕えたのは間部詮房。
この人 寛文6年(1666年)、甲府藩主 徳川綱豊の家臣の子として生まれる。
はじめは猿楽師喜多七太夫の弟子であったという。この喜多七太夫は当時の大スターであった。

詮房は貞享元年(1684年)に綱豊、後の6代将軍家宣の用人になる。
まっ、いろいろ事情があったであろうが、綱豊の命によって間部姓となった。
間部詮房は綱豊が家宣となり江戸城西の丸城入に伴って、従五位下越前守に叙任。
側衆として、とんとんと出世して、お大名となった。加増を重ねてその後は高崎藩5万石を得たし、
老中の次席を命じられるまでになったというから、家宣の思い入れを量り知る。
そもそもそ側用人の正式な名称は御側御用人(おそば ごようにん)。
将軍の命令を老中らに伝える役目を担った重職で、名称のごとく御側での御用をこなすのだから
趣味の御相手も重要要素であったろう。

先代の綱吉はたいそうな能好で、側用人柳沢は自邸で個人的な能の会を催したり、綱吉が舞う
能の相手をしたりと政治以外での苦労も多かったようだが…
次代将軍の家宣も負けず劣らずの能をご愛好。 
三日に一度は能や囃子を催す程だったそうな。将軍職に就いてからもその熱は冷めず、
おまけに、鑑賞が稀曲好みで、当時180曲ほどが常の上演曲目だったのが、それ以外のものを
何だかんだと 総計百曲近くも所望して、能楽師たちを悩ませた。
演能が三日に一度では 通常曲外の稀曲をこなして仕上げるのは如何ばかりか。
もっとも、その御蔭でそれまでに埋もれていた『 蝉丸、大原御幸、砧、弱法師 』など、
現在の人気曲が その折に陽の目を見て復活した。

能楽師上がりの間部詮房、儒学者の新井白石と 家宣はがっちりと三人体制で正徳の治を
行ったが、家宣のあまりの能愛好みを新井白石は
       “天下の主にふさわしからぬ事として”
と 諌めたという。 さもありなん… とも思えるし、
勤勉なる仕事中毒、ワーカーホリックであったろう 間部が相手をしていたなら… とも思う。

家宣死後 幼少の家継が将軍職を継ぎ、間もなく病死。
そして、八代将軍徳川吉宗となり、間部、新井の両人は失脚した。
間部はその後も5万石の大名として家が続き、明治維新を迎えたという。
『正徳の治』 もさることながら能『砧』 『弱法師』に間部の恩恵があるやもしれない。 しかし、
間部と言えば、思い浮かぶのは 石坂浩二が扮した大河ドラマでの間部詮房ばかりである。
 




投稿日 2013年10月01日 9:59:57
最終更新日 2013年10月01日 9:59:57
修正
2013年09月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
『 秋の野に 咲きたる花を 指折りかき数ふれば 七種の花 』 と山上憶良が詠んだという。
八月も半ばを過ぎると 高原は空高く 秋の様相を呈してくるものだが、昨今の陽気では如何なものか。
そうは云えども ススキの穂が出始めて 野の花が咲きだすのだから 不思議というか、有難い。
山上憶良は『 萩の花 尾花 葛花 瞿麦の花 姫部志また藤袴 朝貌の花 』と旋頭歌にも読み、
これが基となって秋の七草なのだと聞いたことがある。
春の七草は緑鮮やかに 健康食品そのもののような感がなくもない。
が、秋の七草は しっとりと歌の題材として構えている。 
萩の花(はぎのはな)  尾花(おばな) 葛花(くずばな) 瞿麦の花(なでしこのはな)
姫部志(をみなへし)  また藤袴(ふじばかま) 朝貌の花(あさがおのはな) 

萩はマメ科の薄紅色の花で 尾花はススキ。 葛は丈夫な蔓が籠にもなるし、その繊維は布にもなる。
なんといっても 根っこは葛粉になるマメ科の花。
普段 撫子と書いているなでしこは、夏から秋に渡って花が咲くこまかな黄色の花。
姫部志は女郎花のことで 藤袴はキク科で芳香がある。
8月三余堂月次で美しい〈玉鬘〉が登場したが、源氏物語で 夕霧は玉鬘に藤袴を差し出して
『 おなじ野の 露にやつるゝ藤袴 あはれはかけよ かことばかりも 』とか何とか言って… 
最後の朝貌の花。朝顔、木槿(むくげ)、桔梗、昼顔など諸説紛々。が、生薬の桔梗とのお説が有力。
所謂 本種という園芸用でないのは絶滅危惧に瀕しているというから めったにお目もじ叶わず。

三余堂の朝貌の花は 恐れ入谷の鬼子母神境内から嫁入りの花で 
                    厳選された花が種作りのためにこれから 最後のご奉公の由。

        秋の七草

   まだまだ蕾が 秋の七草
















投稿日 2013年09月01日 15:52:56
最終更新日 2013年09月01日 15:53:51
修正
2013年08月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
この三日は土用の丑の日にあたる。
ちなみに ことしの土用の丑の日は六回。
1月23日(水) 冬の土用の丑 寒の土用の丑、4月17日(水) 春の土用の丑
4月29日(月) 春の土用の丑、7月22日(月) 夏の土用の丑
8月3日(土) 夏の土用の丑 二の丑、10月26日(土) 秋の土用の丑。
土用は、五行に由来する暦だ。
暦には二十四節気だの、五節句などと色々あるが、季節の移り変りを知る手立てとして
今も生活の中に生きている。 

この土用という言葉の響きは 夏、暑さ、鰻、といったものを連想させて、
他の時季にあるとは考えもせず。 そもそも土用は、立夏、立秋、立冬、立春の前の期間で
本来季節ごとに土用があり、その最後の日が節分となるのだ。
もっとも、節分も 『こいつぁ 春から縁起が〜 』と見得をきって、春呼ぶ節分以外の節分は馴染み無。
今や生活に都合よきことばかりが暦となって…
『土用の丑の日はうなぎ!』は 徳川吉宗の時代に生まれた平賀源内が発案したという説がある。
夏に売れない鰻を何とか売るために 鰻屋が源内に相談したことが事の始まりという。 
苦肉の策だった。 企業努力の結果 21世紀に鰻は当たり前に 夏のものになった。

七月の丑の日の前に 土用餅、土用餅!と叫びながら “あんころもち” を売る姿を菓子屋で見た。
関西での風習らしいが、昔、お公家さんが暑気あたりしないと、食し始めた餅入りみそ汁が
徳川の中期頃から、土用の入りには餅を小豆あんに包んで食し…   
夏季の無病息災、無病息災、となったらしい。
300年たった平成の今、異常に減少した稚魚は 老舗の鰻屋の暖簾を下ろさせた。
一方で、土用の鰻も餅もこの暑い夏に 花を咲かせようと仕掛けている店もある。
勿論 滋養のある土用蜆も参戦している。
載せられてたまるかと 抵抗しながらも身体はしっかり受け止めて、暑苦しい土用を感じているのだ。
夏の土用の丑二の丑はやはり 鰻の香りを運ぶであろう。 あんころ餅に蜆は如何ばかり…

おまけに 土用の後は節分がやってくるのだから ちゃっかり恵方巻きの予約を取る店も出てきた。
きっと アイスクリーム巻きが出てくる。今年の恵方は南南東。




命の限りと暑さに頑張る姿 八朔の午後
  丑の日 

             丑の日 
                                                  八朔の昼下がりの陽にも負けずに頑張る姿






 
投稿日 2013年08月01日 15:52:50
最終更新日 2013年08月01日 15:52:50
修正
2013年07月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
もうすぐ下町の夏の風物詩 『朝顔市』である。
所は東京、JR山の線の鴬谷駅から歩いて5分ほど、入谷の鬼子母神周辺に朝顔がいっぱいに並ぶ。
現在は『朝顔まつり』と称して実行委員会なるものが運営しているらしいが、
浅草 浅草寺のほおずき市と並んで、夏を運んでくる。今年も7月6、7、8日と朝顔の市が立つ。

とうとう、お江戸にも夏がやってきた。
日の出とともに開く朝顔である。 早朝5時から市は 言問通り沿いにずらりと
100軒近くもあろうか、露店には色とりどりの朝顔の鉢。
夕は夕で、屋台も何も人で埋め尽くされた中、兎に角、明朝の花の色を楽しみに 
行燈造りの鉢を下げて帰途に就くという 背広姿も見かける。
そんな夕暮れ、私を見てとばかり、白く大きな花をつけたユウガオが鉢に納まって香りを放つ。
が、貴方の為にといくら丁寧に世話をしても、干瓢の実をつけたり、瓢箪がなることはない。
市で売られるのは、ヨルガオと呼ばれる“ナス目、ヒルガオ科、サツマイモ属、ヨルガオ種 ”
という代物のようで、最後に干瓢となるウリ科のユウガオの花ではない。似て非なるので念のため。
朝顔市では屋台のソースやら、醤油の芳しき香りに押され気味とはいえ、
暮れゆく喧噪のなかにその気高さを保っているユウガオ、いや、ヨルガオか…



   闇に浮かぶ夕顔夕顔の花 ヨルガオ?




『源氏物語』五十四帖の第四帖に『夕顔』が登場。
光源氏が17歳の夏。乳母を見舞う折の出来事だった。
垣根に咲くユウガオの花に目を留めた源氏と、邸の住人との逢瀬が物語になっている。
源融の旧邸六条河原院が舞台だとされる何某の院でのこと。
邸の住人、夕顔と共にいた光源氏は女の霊の恨み言に遭う。
そのまま人事不省になる夕顔。そして、明け方には息を引き取るという悲劇が起きた。
夕顔は頭中将の側室で、玉鬘という姫がいたが、源氏は知る由もなく
『帚木』巻で語られた“雨夜の品定め”で、“常夏の女”として登場するその人であった。
ユウガオは まさに佳人薄命な女性を表すにふさわしい一夜限りの花だ。 


能では『源氏物語』の「夕顔」の巻を題材にして『半蔀 』という曲がある。
源氏と夕顔との出会い、恋慕の情を美しく描く。
舞台上に蔓が絡み、瓢箪が下がる半蔀の作り物が登場。
小ぶりに白い花も付き、まさにそれはユウガオだ。
これに対して、『夕顔 』 という曲も在る。
荒れ果てた河原院での怖ろしげな夕顔の死を描き、旅の僧の弔いがそれを救うのである。
この世の苦悩から解放され 穏やかな喜びを得る夕顔の様を静かに見せる。

          迷いもなしや 東雲の道より 法に出づるぞと。
                         暁闇の空かけて 雲の紛れに 失せにけり。


明け方、白い花は静かに閉じていく 。








観世九皐会 7月定例会 『夕顔 』 のシテを 三余堂 勤める
投稿日 2013年07月01日 14:15:40
最終更新日 2013年07月01日 14:15:51
修正
2013年06月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
時は舒明天皇9年2月のこと。
都の空は耳をつんざき、身体を突き抜けるようなすさまじい音が鳴り響く。
東から西へ“何か” が流れていった。
「星だ!星だっ!大きな星がながれたぁ〜。いやぁっ???」

「弾よりも早く」「機関車よりも力は強く」
「ビルじィングなどは ひとっとび」
「なんだあれはっ」 「鳥だっ」 「ロケットよ」 「あっ、スーパーマンだっ!」

「いやいや、あれは天狗である。天狗の吠える声が雷のように響きわたっておるのだぁ!」
と、唐から帰国した僧の旻が言った。と、『日本書紀』にあるとかないとか…
スーパーマンの下りはともかく、飛鳥時代の日本書紀に天狗は流星として登場。

天狗は大陸において流星を意味した。
その猛烈な速さと力強さ、大地を震わす凄まじい音で落下する火の玉を
咆哮を上げて天を駆け降りる犬の姿に見立てたのであろう。
わが国でそれ以後、文書で流星を天狗と呼ぶ記録は無いという。
大陸で天狗は天から地上へと災禍をもたらす凶星として恐れられた。
時代が下り、平安の時代に登場した天狗は妖怪になっていた。

山伏の装束で赤ら顔、高い鼻を持ち、翼があって一本歯の高下駄を履き
葉団扇を持ち自在に空中を飛翔する。そして、悪巧みをする。
これが天狗ということになったのは中世以降のようだが、多くは僧侶の形で、
時として童子や鬼の形をとることもあったらしい。また、空飛ぶ天狗は鷹だの鳶だのにもなる。
その時々の 人の気持に沿って変幻自在。 伝説上の生き物といったところか。


能 善界にこんなくだりが描かれている。

唐の国に天狗の首領がいて、名を善界坊と言った。
さすがに首領、魔道へ慢心した多くの僧たちを引き入れたそうな。  さぁてお次は…
邪魔くさぃ!海の向こうの仏法をなんとかするかぁ〜 と海を渡る。
愛宕山の大天狗太郎坊の知恵で、比叡山の僧に目を付けた。
勅命によって都へ急ぐ僧の前に、雷鳴と共に現われる善界坊。
なんとか魔道に引き入れよう! と頑張った。
が、仏法を守護する不動明王はがんばった。諸神も皆々頑張った。
う〜む。 多勢に無勢、善界坊、とうとう退散の憂き目となる。
                         せっかく 海を越えて来たんだがなぁ。
愛宕の太郎坊の助言はどうもなぁ〜 と首を傾げたかどうか。 




能では「大ベシミ」という面が天狗を表す。
大きく目を見開き、口を真一文字に閉じた強い表情。力を内に秘めて強い 天狗を顕わしている。
あの 後白河法王と住吉大神との天狗問答に
    「もろもろの智者学匠の、無道心甚だしい者が、死んで天魔という鬼になり申す。
     その頭は狗、身体は人身にて翼が生えており、前後百年のことを予知する通力を有し、
     空を飛ぶこと隼のごとく、僧侶なれば地獄には堕ちず、無道心故往生もできず、魔界の
     天狗道に堕つ。無道心の僧、高慢の学匠は皆天魔となり、天狗と呼ぶ。」
とあり、大智の僧は大天狗、小智の僧は小天狗に成るという。
因みに 日本の八大天狗は 愛宕の山の太郎坊、比良の峰の次郎坊、飯綱三郎、鞍馬山僧正坊
大山伯耆坊、彦山豊前坊、大峰山前鬼坊、白峰相模坊。    其々が謡でも馴染みである。

数百年の前、天狗様は当時の流星ならぬ スターでもあったのだろう。







観世九皐会6月定例会にて三余堂 能 善界 地頭を勤める
投稿日 2013年06月02日 12:13:56
最終更新日 2013年06月02日 12:13:56
修正
2013年05月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
例年5月1日は若葉の香りが満ちみちて、夏への一歩がそこまでと感じるものだ。
不順な天候に幾分慣れてきた昨今、巣作りする野鳥より鳥インフルエンザ、
柔らかな新緑の椿より、それにつくチャドクガの方が気になるようで情けない。
過去に鵞毛庵で紹介されているが、フランスで 5月1日はスズランの日。
海流の関係で暖かいとはいえ、パリの緯度は北海道稚内よりかなり北であるかから
もっと 東京でも至る所に強く丈夫なにスズランを見かけてもよさそうだ。
最近でこそ おしゃれな花屋の店頭にスズランの切り花が並ぶことがあるが、それは
観賞用に栽培されているドイツスズランだろう。日本の野生種より大型で、良い香りがする。
鉢植えを放っておいても結構花をつけるが、群生させて花を観るには余程の条件が要りそうだ。

引き換えて、地面の近くから目を頭上に転じると そこには白い花が鈴なりに咲きだしている。
エゴノキである。 落葉の小高木で、雑木だ。 公園などでもよく見かける。
実を食べると喉や舌を刺激してえぐいので、転じてえごの木となったという。
毒だと教えられていたが、実の皮に含まれるサポニン成分の作用らしい。
水に溶かすと石鹸のように泡立つというし、その麻酔効果で魚取りに使ったりするそうだ。
ヤマガラの好物ということになっているが…  
もっとも、ヤマガラの御馳走になる秋には種子中のエゴサポニンは減少するそうである。


今年も開花 エゴノキ 三余堂のエゴノキ



チシャノキのほうが、耳馴染みのいい御仁もあろうと思うが、『伽羅先代萩』に登場する
ちさの木、“萵苣の木”のことである。
「知左(ちさ)の花咲ける盛りに愛(は)しきよしその妻の子と朝夕に 笑みみ笑まずも」
(知左=エゴノキ)
と 万葉集で大伴家持が詠っているのだから古くから親しみある木ということだ。

屋根ほどの高さで 今頃、横枝から出た小枝の先端に房状に白い花を下向きに多数つけるが、
沢山の落花に初めて花が咲いているのを知ることさえある。緑の中に芳香を放つ頭上の鈴蘭。
新梢にエゴの猫足油虫と呼ばれる「虫瘤(むしこぶ)」ができることがある。
6月を過ぎてエゴノキの枝の先の方を見入ると、花でも実でもないバナナの房の束のようなもの
を見ることがある。 アブラムシによって形成される黄緑色の虫こぶ。
枝先に産卵、寄生するので、その部分が肥大化するらしい。 
初めて見つけた時は正体不明の猫の足のような固まり、 決して気持ちは良くなかった。
この虫瘤、適度なおてんとうさまの陽を浴び、水分補給も充分、生き生きとした幹を持つ
環境の良い場所のエゴノキに発生。 少し日当たりが弱く、幹も力強さに負ける方の木には
養分が少ないと見たか、 何十年 一度も虫瘤をみない。
こぶの主、アブラムシは、8月には次の寄生先イネ科のアシボソに引っ越すと言う。

暑さの峠を越える頃、ふわふわと しろい綿が飛ぶように行くのを 見送りながら 
来年は御免蒙りたいがなぁ と。    しかしこのご時勢、共生ということなにるも致し方なし。







投稿日 2013年05月02日 8:18:14
最終更新日 2013年05月02日 9:45:21
修正
カテゴリ : [案内望遠鏡]
  編集中につき! 取敢えず今日の花を…



           今日は鈴蘭の日
投稿日 2013年05月01日 0:04:14
最終更新日 2013年05月01日 0:04:14
修正
2013年04月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
春霞か、花曇りか、黄砂か、PM2.5か。首都圏内のJRの車窓から見える景色はぼっーとしている。
車内に目を移すと、「まど上」という広告が目に入る。
手持無沙汰の折には恰好の読み物で、“へぇ〜 この駅で降りると そこへいけるのかぁ…” と、
その路線ならではの様子を強感じる。
「中づり」「まど上」「ステッカー」「ドア横新B」などと車内の広告にも種類があり、掲載期間も選べ、
企業や商品のニーズにあった媒体が利用できるというのが JR東日本のうたい文句である。
「まど上」は「中づり」と共に目につきやすい広告で、その路線利用者にターゲットを絞った効率的な
宣伝と云う次第だ。

東京メトロ東西線の車内。
『 国立公文書館 平成25年春の特別展   「近代国家日本の登場―公文書にみる明治―」』
 というのが 目に入った。
隣に 『 もらうと本が読みたくなる 』と、日本図書普及株式会社が図書カードの宣伝。
その隣は ECC外語学院が、『 いよいよ四月から!』 と、北野たけしセンセの顔で広告を打つ。
なんとも 春らしい爽やかな宣伝ばかりである。

春の特別展を入場無料ながら宣伝する国立公文書館は、独立行政法人で、国の行政機関などの
公文書を保存管理している。いわゆる 民間企業とは異なる。
例のワンクリックで削除となった三余堂月次で記事にしたことがあるので、何とか原稿を探り出して…
2009年の9月記事から一部を転載すると

       ………………………………………
《 内閣総理大臣が国の機関などから移管を受けた重要な公文書を、歴史資料として独立行政法人
国立公文書館が保存管理しています。》 と、ホームページにある国立公文書館。
資料の保存、データベース化、一般公開、インターネットの駆使と広く事業を行う。
重要な公文書の適切な保存と利用を図ることを目的とした施設。
公文書館は図書館、博物館と共に 文化施設として三本の柱の一つなのだそうだ。
                                                         ふぅ〜む

ヨーロッパでは、18世紀以来、近代的な公文書館制度が発達したという。
が、我国では戦後、その必要性の高い声に準備の末、 『公文書等の保存、閲覧・展示などへの利用、
公文書の調査研究を行う機関』 を目的として、昭和46年に国立公文書館が設置。   
40年になるとはいえ、結構 近年のことだ。

この設置に際して 重要な一部門となった内閣文庫。 
明治6年太政官に置かれた図書掛に始まり、明治18年内閣制度創始と同時に内閣文庫となる。
和漢の古典籍・古文書を所蔵する専門図書館となった。
その蔵書には、江戸幕府の記録等の公文書に類する資料も多いという。
平成10年にはつくば研究学園都市内に、つくば分館設置。
平成13年独立行政法人国立公文書館となる。
独立行政法人への移行後も 内閣文庫の所蔵資料は引き続き国立公文書館で保存されていて…
                                                      ふむ、 ふぅ〜む

この 国立公文書館のホームページ。時折 覗くと興味深いものを見つける。
今月のアーカイブを手繰っていくと 老人必要養草 ろうじんひつようやしないぐさ!に当たった。

ご存知、養生訓の著者貝原益軒、その弟子の 香月牛山 かつきぎゅうざん(1656-1740)の著。
対象は高齢者限定ときた。もっとも この時代 いくつが高齢者だろうか。
正徳6年(1716)に 出版された書で 高齢者がいる家庭のための家庭医学事典と…
三余堂 必携の書のような気がしてくる。
養老の総論、飲食やら何やらと続き、鬱屈した心を癒す工夫や高齢者特有の心理を具体的に
解説しているのが、本書の特徴。と、ある。
老人性のうつ病ということか。現代ならではの状況ではなさそうだ。
形体保養の説という項には 手足の屈伸やマッサージが血流を促し卒中風の患いなしと ある。
                                           ふむ、ふむ、 ふぅ〜む …
         ………………………………………




なんとも 車内広告に経費をかけさせては申し訳ないような性格の国立公文書館。
かといって、車内広告でこそ 知り得た国立公文書館。
が、この「まど上」広告、思わず車内掲載料の零の数を繰り返して数えてみた。
たいそうな宣伝費に応えて、たまには足を運びたい国立公文書館。
我、矢来能楽堂から東京メトロ東西線で三駅先下車となる。







投稿日 2013年04月01日 14:30:21
最終更新日 2013年04月01日 14:30:21
修正
2013年03月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
“いよいよ ますます 生い茂る”季節となった。
陰暦三月は弥生。弥生と書いて いやよい。弥はいよいよで、生は草木が芽吹くこと。
三月の季語に炬燵塞、こたつふさぎ、というのがある。
まさにその通り、この時期は日の出も早くなり 明るい朝が春の息吹を感じさせる。
一方、大陸の砂漠やら、乾燥した地域の塵が飛んできて、辺りがいやに埃っぽい。
いわゆる黄砂である。
強風で上空に巻き上げられた砂塵の嵐は海を越えてやってくる。
空が黄褐色に煙り、うっすらと そこ、ここに積もり、
窓が少しでも空いていようものなら容赦なく 家中が赤土のほこりに塗れる。
気象台などでは、目視で確認した時を、黄砂とするという。
勿論、気象衛星などの観測装置で、科学的に黄砂の分布状況を観測、
光学的に厚さや粒径分布を観測したり、人工衛星の画像を解析しているから
しっかりと 飛散地の元が何処だか判るというものだ。

黄砂情報提供ホームページというのを環境省と気象庁で開設しているから
季節の風物などと云っている場合でない状況を知らされる。
ことに 昨今の状態は他要因も加味されて深刻になった。 

日本では7万年前の最終氷期にはすでに 黄砂が飛来していたらしい。
7万年前から6万年前頃、風によって運ばれたことが、堆積した砂や塵から分かる
とのこと。最終氷期の初め頃は現在の3、4倍も砂塵が多かったと推定されるそうで、
とてもじゃぁないが、マスクをしたぐらいでは外に出られない。
更に堆積物を分析すると、約7000万年前から、黄砂が発生していたという。
あまりの数字の大きさだが、人がいない頃から砂塵は飛んできていたという事だ。

殷代の甲骨文字には「霾」と云う字が発見されていて、黄砂の事だとされている。
大陸ではその昔々、「塵雨」とか「雨土」「雨砂」「土霾」「黄霧」などと、
呼ばれていたらしい。  まさに読んで字の如し。
日本では、「泥雨」「紅雪」「黄雪」などの記述が江戸期あたりから見られるように
なったという。 霾(つちふる)、霾曇(よなぐもり)、などの季語で示される黄砂は
なんとも趣ある言葉に衣替えしているが、砂塵に変わりはない。
春によく見られる霞や、夜の月を霞ませての朧月夜だって、多分に黄砂の影響。

とはいえ、なんとも どんよりと靄った空が 弥生の空で
見わたす限り かすみか雲か ということだ。
奇しくも今日、関東は春一番となり、砂塵も舞っている。


弥生の空は

©La plume d'oie 鵞毛庵 2007 能「大原御幸」より
Ne sont-ils pas un dernier souvenir des fleurs éffeuillées ?
遠山にかかる白雲は 散りにし花の形見かや

ギャラリーUSHINにて 3月6日〜17日 
桜 KAWAII Craft exhibition に 上記作品展示いたします。
投稿日 2013年03月01日 19:09:40
最終更新日 2013年03月01日 19:09:58
修正
カテゴリ : [案内望遠鏡]
只今 編集中!

 大原御幸 no subject(C) 五木田三郎
投稿日 2013年03月01日 0:30:38
最終更新日 2013年03月01日 0:30:38
修正
2013年02月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
『贈与の歴史学』という新書を手にした。
中世日本史、流通経済史の研究者である桜井英治博士の著書である。
わが国日本は 先進諸国の中でも贈答儀礼をよく保存している社会として
注目を集めてきたそうだ。
人の営みの中で贈答、贈与は古今東西の文化である。
が、ややもすると 義理や儀礼であったり、賄賂になったり。 やれ、贈らねば、受ねばと。
挙句に、返礼で気が重くなり…
とはいえ やめられない、止まらないとばかり、 昨今は企業戦略にも乗せられて
チョコの準備に、そのお返しに勤しむし、その姿をバカバカしいと思いつつも
ゴディバの限定品を横目でしっかりチェックしていたり。

そもそも円滑な人間関係を築く贈り物。これが、中世日本での贈与慣行は
世界にも類を見ないような、ちゃっかりとしたものだったようだ。
中世は年貢が塩や鮭、鮑といった水産物から林産物、鉄や金やら工芸品に
至るまで種々を極めたそうで、それらを物々交換や、換金の為に、市場が生まれる
と云う訳である。 市場経済といっては大袈裟か、なかなかであったらしい。
13世紀後半に 年貢が物でなく銭で、ということになったと云うから 物の売り買いは
当然盛んになる。当時の資料となる日記類には毎日のように、膨大な量の贈答を
繰り返していたことが書かれていたようだ。
そもそも日記は、公家が儀式のためにメモしたものが家記となり、その家の後継者が
引き継ぐという重みのあるものであった。時代を経て、寺社の日記、武家の日記と出現
するが、それなりの身分や立場の者の間でのやり取りが記されていたことになる。
と、いうことは…  それらの贈答品がどこから来て、何処へゆく。
多少のチョコレートなら 何時の間にやら消えゆくが 当時の贈答品はどのように 
消費されたのか、他人事だからこそ興味津々。

食べ物などはそこそこ自家で消費するにしても、美術工芸の品々はどうしたのか。
第一に 売却。 
第二に 贈り物としてよそ様へ再利用。
同じものばかりが 大量に集まれば当然のことになろうが、神社などには奉納される
神馬が集中して、そこは馬取引の市場となった。
多く一般の人々に馬入手の機会が与えられたという。
いわゆるオークションも行われていたようで、品物が換金されると云う訳だ。

次に 贈答品の再利用。
これについては本願寺の第10世法主 証如上人の日記にこまめな記載が残っているそうで、
誰々から贈られた物を 誰々に贈ったとか、贈られてきた物が以前、自分が贈ったもので
廻り巡って戻ってきたとか…      証如上人は呵々と大笑いしたという。
漫画のような話だが、まぁ、驚くほどの事ではなかったのだろう。 16世紀前半の事である。

これらはある程度の立場での話だが、案外割り切った功利的な社会の一面を見た。
一方、庶民には売却するほど物も集まらなかったろうし、
                               流用するほど贈答先があっただろうか。

ヴィザージュダムールなる今年の限定チョコ。三余堂、一応 確認だけはしておく。


         中公新書 贈与の歴史学 中央公論社







投稿日 2013年02月01日 2:57:30
最終更新日 2013年02月01日 2:57:43
修正
2013年01月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
新年のご挨拶  本年も宜しく願い上げます 

謹賀新年

午前零時。平成25年は美しい輝く月を愛でながら、新しい歳を迎えることになった。
元旦の午前中は何やかにやと気忙しく過ぎるものであるが、常々三余堂には賀状も
早々に届き、引き締まる思いで新春のご挨拶を手にする。
ワープロが家庭に普及始めた頃から 郵便局の仕分けを悩ませる宛名が減ったかと
思いきや、相変わらずの行き先定まらぬ年賀葉書はあるようだ。
“腕を振るうのは 文面の方で、宛名書きは誰にも読めるようにお願いしまぁ〜す”
と、年末のラジオの声が耳に残っている。
まぁ、読む力も落ちているのは事実で、漢字の書体は楷書、行書、草書、
篆書(てんしょ)に、隷書(れいしょ)とあるのだから、せめて、書き文字としての
行書、慣習的に使いならされた簡易な草書ぐらいは学び、識るべきなのだろう。

法隆寺の五重塔の落書きは 手習いの手慰みだったという。
読み書きが出来るのは当たり前のことのように思いがちだが、読むにも書くにも
文字を習い続けろよ、と、年賀葉書が心に呼びかける。
年初の思いが如何になるかは兎も角、東京国立博物館で特別展「書聖 王羲之」が
1月22日から始まる。  この王羲之先生の文字が、大切なのだそうで…

しかし乍、しっかり学べと云われても、まず読めネェ〜 と、何処かで声がする。
一方、明日は書き初めだとの耳元での囁きもある。






投稿日 2013年01月01日 3:04:31
最終更新日 2013年01月01日 3:06:36
修正
2012年12月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
最古級ひらがな


先月末、最古級ひらがな!と 新聞紙上が飾られた。
平安の御代に右大臣を務めた 藤原良相(ふじわらよしみ 813〜867年)の邸宅跡から 一年ほど前に
出土した土器片に仮名文字があったというのである。

現場は京都の中京区で、出土した9世紀後半の土器片の中に“かつらきへ” 
葛城へということだろう、和歌とみられる平仮名が書かれていた。
平安京でのまとまった土器の出土で、10世紀と言われていた平仮名の確立が 
半世紀も遡ることになった、というから 大変なことなのだ。
なんといっても 我らが意思伝達の重要手段、平仮名の誕生の話である。
漢字の一字一字を、その漢字本来の意味に拘わらず、日本語の音の表記に
用いたのが、万葉仮名で、万葉集がこの手法で著されているのだ。
仮名は、1音に1字を当てる万葉仮名、万葉仮名の草書体を用いた草仮名、そして
平仮名の順に移行したと謂われるが…
かの空海が平仮名を創作したという話もあるという程だから 平仮名の誕生秘話は
興味津々というところである。


最澄や空海が帰朝して、仏教が新たな息吹をわが国にもたらした時代に
弁舌は才気に溢れていた新進気鋭の 藤原良相君、承和元年(834年)仁明天皇に
召し出されて順調にご昇進。長兄をも越えて権中納言になり、権大納言 右近衛大将と ぐんぐん
御出世。 857年には右大臣 左近衛大将に就任。周囲からの人望も厚く、貞観6年(864年)清和天皇に娘を入内させたりと、なかなかのご人物だった様子。
当然 文学への造詣は深く、仏教への信仰には篤く、陰陽道にも通じていた。
と、まるで見たかのような人物説明だが、1200年以上も前のことである。 

この藤原良相邸宅跡で出土した土器に 墨で文字が記されていた。
その文字が 万葉仮名でもなく、草仮名でもない平仮名だというのである。 
9世紀後半の平安貴族が 宴の席で器に歌を書きつけて交わし合ったのだろうか。
その器に酒を満たしたのか。 邸宅跡の池から皿などの土器破片90点もの中の、
20点に墨の文字が記されていたという。文字が判別できた“かつらきへ”は 当時の 御所での神楽歌一節に出てくるそうだ。 邸で神楽が行われたのだろうか。
 
周辺が桜の名所という 藤原良相邸は「百花亭」と呼ばれ、天皇の行幸をはじめとし、
公家方が歌会を催したというから 季節の花の下で、紅葉する木々を愛でながら…
当時の一流文化人が集い交流した場と想定される良相邸。その邸跡での墨書土器。
9世紀後半、京洛の貴族階級での平仮名の広まりを示しているということか。

一方、9世紀前半の井戸跡で、檜扇(ひおうぎ)と木簡をも発見。
万葉仮名が記されていたそうだ。同じ遺跡で万葉仮名から平仮名までが見つかった。
仮名の誕生変遷を報せている訳である。


最古級ひらがな
  
出土品は京都市考古資料館で12月16日まで展示されるという。


 



投稿日 2012年12月01日 14:14:56
最終更新日 2012年12月01日 14:17:51
修正
2012年11月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
わが国では平安時代後期、大陸では宋代の話が続いた。 ついでに留めの話。
『日本刀歌 』の作者欧陽 脩が科挙の監督をして、蘇軾を見出だしたと記したが、
この蘇軾(1036〜1101 )は北宋代の政治家で、詩人、書家として高名である。
東坡居士と号したので、蘇東坡(そとうば)とも呼ばれ、その名に親しみを覚えるご仁もあろう。
黄庭堅(こうていけん)、米芾(べいふつ)と並ぶ 書に於ける宋の三大家だそうである。

地方官を歴任後、中央の官吏となるが、時の新法に反対して左遷されて、地方官へ逆戻り。
ついで、詩文で政治を誹謗したと、投獄され、黄州へ左遷。
左遷先の土地を東坡と名づけて、東坡居士と名乗ったそうな。
蘇軾は かの『赤壁賦』の作者で、この黄州時代に詠んだという。
が、この赤壁は自身も承知の上だったらしいが、三国時代の実際の古戦場ではなかった。
現在は、蘇軾が『赤壁賦』を詠んだ所は文赤壁、本物の戦場の方を武赤壁と呼んでいるそうだ。
蘇軾が、この黄州に流されている時に 悲運を嘆いたのが『黄州寒食詩巻』(こうしゅうかんしょくしかん)
という作品で、その書は多くの文字の頭が右に倒れている。文字が歪んでいるのだ。 
これが大家の字かぁ〜 と、ながめる。

蘇軾・蘇東坡


47歳のとき、自詠の詩2首を書いた快心の作だという。
唐代よりの伝統書法の上に独自の書風を表現したということなのだろう。
字形の変形、文字の大小、強弱、均衡があるのやらないのやら…   
何ともゆったりとしたものを伝える書は それまでの時代にはないものなのだという。

その後、旧法派が復権し、蘇軾も中央に復帰する。
師である欧陽 脩と同じく詔書の起草に当る翰林学士等要職を歴任した。
だが、またまた、再び新法派が力を持つと蘇軾は再び左遷。
現在の広東省に流され、さらに海南島にまで追いやられたのは62歳の時だった。
66歳の時、新法、旧法両派の融和が図られると、ようやく許されるが、都に向かう帰路で病死。
流され続ける蘇軾は、豪快な詩風で宋代最高の詩人とされるという。

宋代は、それまでに長らく権力を掌握してきた貴族が 唐の王朝から勢力を失い始め崩壊する。
新興地主が力を得て 政治や社会構造の変化が起きた。
貴族中心の優雅な文化へ新しい社会層の革新の風が吹き込み、書法も変えたのだろうか。
自由で動的な清新の気は わが国も貴族から兵の時代への過渡期であった。






投稿日 2012年11月01日 0:13:49
最終更新日 2012年11月01日 0:14:08
修正
2012年10月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
宋代の詩人に欧陽 脩という人がいた。
日本では、藤原道長全盛の時代から奥州辺りが不穏な状況になってきた 前九年の役のころに
生きたことになる。
焼物で有名な景徳鎮の置かれた 景徳の末年に生まれ、六十数年の生涯だった。
科挙に合格後、高官への道が開け、詔書の起草に当る翰林学士等要職を歴任。
科挙試験を監督していたので、詩人、書家として有名な蘇軾などを見出だした。
学者、詩人でもある。

その欧陽 脩の作品に 『日本刀歌 』 というのがある。
日本はすでに遣唐使が廃止されて、宋とは正式な国交もなく、一般人の渡航は
禁止されていたという。が、僧侶の入宋はもとより 両国の商船は行き来があった。
宋の商人は主に博多や越前敦賀へ来航していたという。
越前守であった清盛の父、平忠盛は日宋の私貿易で、舶来品を朝廷に献上して
お覚えめでたしとなった訳だ。
日本へは宋銭、陶磁器、絹織物、香料や薬品、書籍や文具、絵画、経典と
あらゆるものが輸入され、日本の貨幣文化は大いに影響を受けたという事である。
日本からは硫黄などの鉱物や、日本の刀などが輸出された。
硫黄の輸出が始まったのは 宋で火器が発展した為のようだが、
宋には火器に使用する火薬の原料、つまり、硫黄を産出する思わしい火山がなく
硫黄の国内自給ができないので、有力な輸入先として日本に目を付けた。
喜界島に流され、一人ぼっちになった俊寛は 九州からやってきた商人に
硫黄と食物を交換して貰い、飢えを凌いでいたようである。

さて、日本刀。
最初にこの呼称を用いたのは、欧陽 脩の詩という。
日本では 刀、太刀、剣であった。 蛇足ながら 日本で、日本刀と呼ぶようになったのは 幕末以降、
西洋の刀剣との区別のためだったとか…

宋の文人にとって 日本が如何に魅力的なところかを 『日本刀歌 』が示している。
先ず、当時すでに宝刀と呼ぶにふさわしい刀が日本にあることを知っており、
買い付けにいく様子や、刀の外装や容貌などの美術的価値の高さを歌い、
日本の国は豊かで気風が良いと言っている。
且つ、始皇帝の命で不老不死の薬を求めて日本に来たことになっている叙福が、
焚書前の書物を沢山日本にもたらしているはずで、日本はそれらを大切に保存し
外部流出を禁じていたと…
宋の知識人たちは当時、日本というと、『中国の古書のある国 』と連想したようで、
先王の大典に比べれば、どんなに素晴らしい宝刀も錆びた短刀のようなもので
云うに足りない、と。そんな風に うたっている。


 『日本刀歌 』 

昆夷(伝説の名刀の産地) 道遠くして 復た通ぜず,
世に玉を切ると傳ふるも 誰か能く 窮めん。
宝刀は近ごろ日本国より出で,
越賈(越の国の商人) 之を滄海の東に得たり
魚皮にて 裝貼す 香木の鞘
黄と白の閑雑する  鍮と銅
百金もて伝えて 好事の手に入る
佩服すれば以って  妖凶を禳う可し
伝聞するに其の国は 大島に居り
土壤 沃饒にして風俗 好しと
其の先(先祖)の徐福は 秦民を詐り
藥を採り淹留して  丱童 老ゆ (叙福は童男童女を数千伴ったと史記にある)
百工の五種 之とともに 居り
今に至るも 器玩は皆な 精巧
前朝()に 貢を献じてしばしば往来し
士人は 往々にして 詞藻に工なり
徐福行く時は書未だ焚かれず
逸書百篇 今 尚 存す
令(法律) 厳しく 中国に伝うるを許さず
世を挙げて 人の古文を識る無し
先王の大典は  夷貊に藏れ,
蒼波浩蕩として 津(渡し場)を通ずる無し
人をして 感激して 坐に流涕せしむ
渋たる 短刀 何ぞ云ふに足らん



思い込みとは云いながらも  宋の文化人にとって、あこがれの地 日本であった。
大海原の向こうに夢を見たのは 日本ばかりではない。







投稿日 2012年10月01日 3:18:52
最終更新日 2012年10月01日 3:19:04
修正
2012年09月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
伊豆の流人源頼朝 謀反! 
治承4年の9月5日、源頼朝ら源氏の挙兵に際しての征討軍総大将は平維盛(これもり)だった。
父は前年に亡くなった、小松内大臣 平重盛。 祖父は平清盛である。
この時維盛 23歳。 副将は清盛の末弟 薩摩守忠度。と、清盛の子 三河守知度。 
出発しようとする維盛と、侍大将の伊藤忠清で、今日は日が悪いとかなんとか、一悶着があった由。
結局出発は月末まで遅れたという。
出陣する23歳の武者姿は、絵にも描けぬ美しさで、光の君の再来かと…

この4年前、西暦でいうと1176年。
後白河法皇の五十の賀で、桜と梅の枝を烏帽子に挿して舞を披露した際、
 「おももち、けしき、あたり匂いみち、みる人ただならず、心にくくなつかしきさまは、
                                           かざしの桜にぞことならぬ」
と、藤原隆房がその日記 『安元御賀日記』に書いているという。
但し この隆房は叔母さんの夫ではあるが。
もっとも 九条兼実も「容顔美麗、尤も歎美するに足る」と云っているので、さぞ美しかったろう。

清盛の嫡孫で美貌の貴公子が颯爽と大将軍としてのご出陣。
が、富士川の戦いでも、倶利伽羅峠でも敗北して、平家は壊滅的なことになる。
なんたって 平家一門、すでに武門の風なぞあったものではなく、公卿の雅なさまにひたひたと
近づき、有り余る財が、それを凌駕する華美を身につけさせていたのだから。
平家の公家化は大成功、というわけであった。
この一門 笛の重衡(しげひら・清盛の五男)、琵琶の経正(つねまさ・清盛の弟経盛の子)
舞の維盛、歌の教盛(のりもり・清盛の弟)、忠度(ただのり・清盛の弟)等、雅な才能の持ち主
が多く排出している。

副大将の三河守知度は富士川の戦いの後、頑張って尾張、三河で挙兵して敵を打ち破る。
そして木曽義仲を迎撃すべく出陣、劇的なる討死。平家一門で初めての戦死だった。
そもそもそは兵の家である平氏。 
「いずれ、近隣の者共がうちこぼつであろう」 などと、のんびりと高を括っていなければ 
それなりの働きをする闘将もいたわけで…、

大将維盛は平氏一門が都を落ちた後に戦線を離脱、那智の沖で入水した。享年27。
この維盛の弟に、笛の名手として聞こえた清経がいた。
平重盛の三男清経は、1183年に平家一門が都落ちした後、豊前国柳浦にて入水。弱冠21歳。
清経が入水したのは現在の大分県宇佐市柳ヶ浦地区・駅館川沖合といわれており、
父、重盛が小松殿と通称されたので、小松塚と呼ばれる五輪塔および慰霊碑が建てられている。 
四十の賀、五十の賀と長寿を祝う時代、武人としては決して二十代が若いということはなかろう。
が、重盛の子らはすでに武人ではなかった。

世阿弥は維盛の弟、清経の入水の様を能に書き上げた。
三余堂 長月朔 秋田唐松能舞台で能『清経』を勤める。



(c)La plume d'oie 鵞毛庵 2009 能「清経」 平維盛



投稿日 2012年09月01日 9:27:39
最終更新日 2012年09月01日 9:28:27
修正
2012年08月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
暑さによる体調不良とオリンピックでの寝不足、なかなか厄介な八月朔日。
わが国では、今日は『水の日』とか…  
真夏のこの日、国土庁が水の有限性、水の貴重さを理解し、併せてダム等の水資源開発の
必要性を啓蒙するために制定したという。  ほぅ〜 1977年に制定した 『今日は何の日』 
ということになる。この年、キャンディーズが、暑中お見舞い申し上げますと歌い、
沢田研二が勝手にしやがれと歌った。
世紀の大事業、黒四ダムが完成してから十数年たった頃になる。
日本のダム技術が 開発途上の国々に貢献していた頃だろうか。 
一寸やそっと、朝夕に水打ちしたって、焼石に水の昨今、豪雨や水害で被害の地も少なくない。
水の利用が多くなる時節、改めて『水の日』 を考える。

遡るが1834年には イギリスで奴隷廃止法が発効し、1840年の今日、奴隷が解放されたという。
アヘン戦争が勃発し、わが国では大塩平八郎が乱を起こし、天保の改革へと向かう頃になる。
2012年の今夏、そのイギリスの首都 ロンドンがオリンピック開催国として多くの情報を発信。
この案内望遠鏡もすっかり気分はオリンピックで、 暑さに筆は棚上げ。
遅蒔きながら、三余堂に涼を呼ぶべく植えられたゴーヤが、大きく実るころには普段に戻るだろうか…

案内望遠鏡も夏休み 案内望遠鏡も夏休み
案内望遠鏡も夏休み













投稿日 2012年08月01日 0:38:00
最終更新日 2012年08月01日 0:49:13
修正
2012年07月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
唐へ行くつもりだったのに引き留められた明恵上人がいるかと思えば、
ドラマ“平清盛”では、大陸宋へ渡る算段に、にんまりとほくそ笑む信西入道がいた。
又、後白河が公家と手に手をとり今様に興じる場面もあった。
そこに当時の政治、経済、文化を垣間見た気がする。

たまにドラマを覗き見する程度では、寝ぼけた画面の中、薄汚れた武士が無精髭で昇殿し、
お公家さんたちもむらな白塗りで、誰がだれだか判別がつき難い。
後白河らしき風格の役者は見当たらないが、どうも、コロコロとした愛嬌のある顔立ちの人が
藤原信頼と判断。 後白河というともっとおじさん、と思い込んでいたのがそもそもの間違いで、
後白河は清盛より9年若く、信頼はさらに6年若い。

閑話休題 院の独裁だ、親政だと、白河上皇の時代から始まったごちゃごちゃは
遡ること、天武天皇の御代に。
天皇や皇族だけに権力を集中させた政治をしていた当時、法を整える中、実権が太政官へと移行。
つまり、藤原さんちやその摂関家に移った為に始まったのが
実権を取られたものと、取り返すものの攻防戦!
かの藤原道長は外戚の地位を、道長の嫡流だけにしようとがんばった。
妻は何人かいるし、それぞれに子はあるし、実子でなくても、猶子だ、養子だと世の中、藤原さん
ばかりになりそうな勢いだった。が、直系となるとその血は先細りするし、藤原腹の皇子も…  
「欠けることのない望月」と云ってたのになぁ〜

時代は下って、白河上皇の母君。
この君 藤原摂関家の出ではなかった。で、反撃開始!!
白河院政によって、摂関家は没落へ… となるが。 オッとどっこい、摂関家が巻き返しに出て
院と、藤原摂関家のせめぎ合い。
これは誰が天皇の皇子を生むかの重大事。
皇子の母になる人を御所に上げるべく、藤原さんちの御父さんの大仕事が… 
そんな中をすり抜けて 思いもよらず御はちの廻ってきたのが後白河天皇。

その後白河と仲良くしていた藤原信頼くん…
一族を国司派遣して武蔵国に布石を打つ。又、馬や武器を調達する為の陸奥国を押さえる。
当然、坂東支配を進めていた源義朝への影響も強まる。
それから、平清盛の娘と自分の嫡男との婚姻も成立させている。公卿の家柄とはいえ、
26歳で国政を担う最高幹部の公卿に列せられているし、姉妹は、関白藤原忠通の嫡子の
妻になっている。 しっかり後白河の恋人の座も得ていた。
「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、また芸もなし、ただ朝恩のみにほこりて」
と評されるとは… ちとお気の毒。 だったとしても、昇進は人事権を有していた信西の
了承があってこそだろうから なかなかの人物とみた。

平治元年1160年、時に27歳の信頼君。
清盛が熊野詣に出かけた留守に信頼は義朝らと京で挙兵なんぞする。
宋にいく行けると銭勘定をしていたあの、邪魔な信西を斬首して、朝廷の最大の実力者へ。

が、平清盛が帰京すれば あっという間に信頼は反乱者。
清盛の婿となっていた信頼の子は戻されて婚姻解消。
義朝ちゃぁん一緒に行こう!と東国へ落ちようとするも、拒絶に会い、
後白河院にすがるも、許されず、最後に天皇親政派と組みした清盛に敗北。

後白河の寵臣、平治の乱の首謀者は六条河原で斬首された。
                                     
ドラマはどう描くのか、名も判然としないままにコロコロした公家はどう消えるのだろうか…



コロコロした愛嬌ある人 藤原信頼 平治の乱でともに挙兵した「頼政」
能「頼政」より (c)La plume d'oie 2007

投稿日 2012年07月01日 10:37:56
最終更新日 2012年07月01日 10:38:12
修正
2012年06月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
平安時代の宮中行事から始まった衣替えの習慣。
一応今日から夏の設えということだが、昨今の陽気ではとっくに夏服、夏仕様。
 唐衣着つつ馴れにしつましあれば〜  と杜若を詠みこんだ季節から 
色づいた紫陽花が梅雨入りを待つばかりの有様となっている。
この、唐衣〜 で有名なのは五月の三余堂月次に登場の ご存知 在原業平。


この在原氏という姓。そもそも、業平時代までは見当たらず。
お父上は平城天皇の皇子 阿保親王、お母上は桓武天皇の皇女伊都内親王。
血筋からすると天皇家の嫡流だった、業平。
が、世に云う薬子の変だの、平成天皇の弟君 嵯峨天皇の方へ皇統が移ったこと
だのが要因で、お兄上の仲平、行平、守平らと共に臣籍に降下している。
時に、天長3年 西暦826年、在原氏を名乗った。

この業平についての史料は『日本三代実録』にあることが ほとんどだそうで
「体貌閑麗、放縦不拘、略無才学、善作倭歌」 と記されているという。
「略無〜 」は 漢学の才はなかったけれど、和歌には秀でていたということだが、
前半の「体貌閑麗、放縦不拘、」によれば、美貌で放蕩。
                                気ままなイケ面というところか…  
故に、恋愛に憂き身をやつす貴公子、そんな姿が描かれることとなった訳だろう。
美男の代名詞のようにいわれて、『伊勢物語』の主人公の、昔男ということになり、
実像の業平と、つくられた業平は時代とともに次第に重なっていく。

室町時代になっても その業平は如何に好ましく、愛おしい男子とされていた。
「能 井筒」で世阿弥は、そのイケ面を前面に押し出す。
在原寺に立ち寄る僧が里の女との問答、後段で女は 実は井筒の霊だと名乗って
業平を偲んで舞う。その時、女は業平の形見の冠と直衣をまとう。
男装の麗人となる。  さながら見みえし昔男の冠直衣は女とも見えず男なりけり
なんとも妖しい香を放ちながら 業平を題材に描く。
そう、「能 杜若」でも精霊になって女の唐衣、男の冠姿で登場。 
交錯と具有の世界が広がる。  業平の 昔男の舞姿  これぞ即ち歌舞の菩薩
菩薩は本来 男でもなく女でもない。が、昔男の姿が重なって えも言われぬ気配を
辺りに伝える。


後世、江戸期 好き勝手に業平を作り上げたにせよ、ふたなりという俗語を掛けて
「ふたなりひらのこれぞ面影」などと云ったそうな…  
まっ、業平を和合神、男女を融和させる色道の神とみる風潮もあったとか。
いろいろに いろに登場の在原業平、享年56歳。
最終官位は蔵人頭従四位上行右近衛権中将兼美濃権守。
降下の経緯もあってか、家系にしては 華やかとは云い難い官位歴であったと思う。

在原業平
能「井筒」 (c)La plume d'oie 2010




投稿日 2012年06月01日 1:21:01
最終更新日 2012年06月01日 1:21:28
修正
2012年05月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
洋の東西の写本の話が続いた。
そもそも、字が読めなくては写本もへったくれもないのだが、読むとは…
文字になった言葉を正しく発音して、理解出来る事を云う。
だから、いくら大声で読めても文字を正しく記さなくちゃぁ駄目である。

読んで、書いて、意味が判ることを識字という。 
この識字能力は、現代社会では最も基本的な教養だが、全世界の識字率は、およそ75%だそうな。
識字率というのは一般に15歳以上の人口に対して定義されるそうである。
江戸時代の日本は、庶民の就学率、識字率はともに世界一だったというからすごい。
1850年頃、嘉永年間の江戸の就学率は、70〜80%もあり、いわゆる寺子屋で読書き算盤を学んだ。
これは、武家や豪商の子弟ばかりでなく、裏長屋の子たちも学んだということで、安定した社会に
育った文化の力であり、文字を介して物を識り、伝達することの意義を理解していればこその
親の涙ぐましい教育熱の賜物だ。
 
伝達手段の文字。いくら識字の力があっても、読める体裁になって初めて役に立つってもんで、
正しく、美しく書くことを求められる。
求められた文字は多くの人が読みやすく、書きやすい形を生む。そしてその形が指標となって
定着していくことになる。文字が何に書かれるか、どんな道具で書くか、目的は何かによって
威厳も、風格も生まれるし、装飾的にもなっていく。
一方、実用的な文字は速く書くことも要求される。
時間をかけて石に刻したり、大きく板に書いたりする文字でなく、手書きで速く書き留めなければ
ならない役人や商人の事務用の文字。
速さを求めれば、字の形は崩れ、省略が生まれ、省略化されれば新しい形へと変化していく。

遣唐使が大陸に渡って文化を掴み取ろうしていた頃、唐は楷書の時代だった。
その頃文字は結構乱れていたそうな。それだけ 実用化していたということでもある。
近年の我国だって、丸文字がどうの、こうのと云っている間に、若者の書体の変化はどんどん進む。 
どの字が正しいのか、訳が判らない状態は多分、古今東西同じだろう。
唐の太宗皇帝は、氾濫する文字の正誤を 顔師古(581年 - 645年)と云う学者に命じて整えさせた。 
唐代初期の欧陽詢、虞世南といった人の書は、すっきりと簡潔な字体で読み易い文字である。
その文字の正しさ、根拠を追求していくと はてさて、切りなくどんどんと時代を遡り象形文字の
ように魚のヒレまで書くことになっては…
まっ、少々、複雑な形が復活しながらも そこそこに整理整頓。
10世紀以降、宋の時代になると、木版印刷が生まれる。当時の印刷文字が誕生。
それは木を彫るとはいえ、見栄えのよい木版文字を求めて、却って画数が増えたという。
この印刷の文字が字典に使われて、字典体と云われるようになった。
18世紀になって清の康熙帝が作らせた康煕字典の書体のことである。
漢代以降の歴代の字書の集大成として編纂したという大事業。
全42巻に収録文字数49,030の字典は、部首別漢字辞典の規範となっている。
現代はコンピュータの標準漢字コードの配列順にも使われているという。
よく分からんがあの、ユニコードってやつである。

書体も常に、往き過ぎれば戻り、また先へ進みと状況に応じて動き続ける。そんな流れができている。








投稿日 2012年05月11日 13:20:52
最終更新日 2012年05月11日 13:24:46
修正
2012年04月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
唐の詩人李白が生まれた701年、我国では大宝律令が完成した。
630年に第一回遣唐使が派遣されて以来、大陸文化の摂取を意欲的に進めて
律令文化というものを根付かせて行ったのである。
船舶技術の進歩が進むと黄海から江蘇へ一気に行かれるようになる。
そして、隋の煬帝によって完成された大運河で洛陽へ。長安までは陸路。という南路になる。
が、そうそう簡単には運ばない。二隻から四隻の船団で、どれかが無事に到着すれば…

そんな折、都では本格的な律令国家建設のため 全国から多数の労働者がかり集められた。
   “ 青丹よし奈良の都は咲く花の 匂うがごとくいまさかりなり ”
平城京は唐の長安を模して碁盤の目のように造られ、国家の体制も倣うものとなった。
<お雛様の装束>でも触れているが、服装までも唐風に倣った。
なんたって、大陸風がもっとも文化的で、お洒落とばかりに憧れだったのだろう。
玄宗皇帝時代、唐代絶頂の時に、遣唐使として唐へ渡った人の中には、李白や王維などの詩人とも
交遊があり、そのまま唐朝に仕えた阿倍仲麻呂のような有能な人もいた。
おおいに我が国の位置を高めたという訳である。

命を懸けて渡海した人々は、再び命を張って智慧と文化を運んでくる。
遣唐使の持ち帰ったあらゆる物の中に 王羲之(おうぎし)の搨模本(とうもほん)があった。
この搨模本、東晋時代の書家であった書聖、王羲之の文字を学ぶ為の必需品。
王羲之やその流れの書を学ぶには、何といっても手本が欲しい。で、複製が出来る。
搨模本とは書の複製で、その作成技術の一つに双鉤填墨(そうこうてんぼく)というのがある。
要は、文字の上に紙を置き、極細の筆で文字の輪郭を写しとって中を塗りつぶすのだが、
唐時代後半には石や木に書蹟を模写し彫りつけ、拓本を採るという模刻の手法も出た。
どの道、専門の職人によって築きあげられた技術である。何たって、筆と見紛うほどの中国の技。
当時の公的文書の文字は王羲之書法で、書き手の文字はその人品骨柄を表すとばかりに
役人は良い字が書けないと話にならなかったようだ。
唐玄宗はたいそう、王羲之の書がお気に入りで、欧陽詢、虞世南、褚遂良などの書法はすべて
王羲之の書法を深く学んだものという。


喪乱帖 唐代書法 東晋時代 王羲之
      精密な双鉤填墨の聖作品で 墨の濃淡、かすれなども真筆さながらである (御物)


この時に艱難辛苦の末、我国にもたらされた王羲之の搨模本は聖武天皇、光明皇后の関心を
強く引いたし、平安の世になってからは貴族に広く流布。皆がこぞって学んだ訳である。
王羲之の書は当時の我国ではまだまだ理解が不充分で、他の人の手になる書も混ざっていた
ようだが、兎にも角にも搨模本は全六十巻の巻物にまとめられたという。
律令制による中央集権国家が確立すると、文字、漢字が機能を始める。
戸籍、計帳などの作成や記録をするようになり、文字を書く能力、つまり王羲之書法を身につける
ことが官吏への道となったってことだ。

李白が玄宗皇帝に仕えて、「清平調詞」を作った頃、我国ではせっせと東大寺の大仏鋳造中。
751年東大寺大仏開眼となり、仏教による鎮護国家の体が成ると、経典の書写も盛んになる。
その時代が日本の書の歴史を通じてもっとも楷書が充実した時期なのだそうだ。
唐代の書法が浸透して、大陸に追いつけ、追いつけと学んだ時代から1300年。
漢字の歴史はそれをまたどれだけ遡ることか。





褚遂良 http://nogakusanpo.maya-g.com/displog/221.html


投稿日 2012年04月01日 10:08:37
最終更新日 2012年04月01日 10:08:47
修正
2012年03月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
花屋の店先に桃の花が並ぶと、今年も冬は終いだと思う。
雛祭りのしつらえは春の扉をそっと押しやって、芳しい香りをあたりに振り撒く。
道具箱に入れられた沈香の香りが、雛人形様の装束に移って、花の桃色と
ともに活けられた菜の花の黄色を一層華やいだものにしている。
今年も 雛祭りの季節になった。
能の雲林院で在原業平が身に纏った装束は単衣の狩衣、冠は武官仕様の巻纓に緌。
さて、三余堂に飾られた立ち雛の装束は如何に。

公家装束は十二世紀に大変化が起こったそうな。大河ドラマの平清盛の時代である。
それまでは曲線的な柔らかい装束であったものが、厚織や糊でピンとさせた生地を
多く使うようになり、強装束 (こわしょうぞく) と言うようになった。
昇殿する武士の時代になると、身体の線が出る、くたくたっとした柔らかな着物より、
身体を大きく威風堂々とみせるピンとした装束に人気が出たということか。
ともかく、この強装束、一人ではとても着装不能。
装束を着せる人を衣紋方 (えもんかた) という。それは、装束の着装法のお流儀を生むこととなり、
山科家、高倉家などという家が故実の装束部門を承っていた。
季節も位も、時も目的も、事細かに決りを守って、万事作法通りにするためには不可欠な衣紋方。

飾られた木目込みの雛人形は十二世紀以降の強装束の着用とみた。
で、着装順にまずは肌小袖。 
もともと防寒用として、随時着用していたというもので、現在の和服の原型である。
肌襦袢といったところだろうか、白の袷の平絹。
次が、大口。 袴である。 これは肌小袖の上にはいて、肌小袖を束ねる紐付トランクス。
これは下着なので見えない。
次は上着に単衣。これは結構幅広で、装着時に前後でたっぷりひだをとる。
これは見えるのは襟のみ。
それから指貫(さしぬき)。だぶだぶの袴で裾を均一にして、括る。
もっとも本来は、中に大口袴が隠れているので、決して、ゆったりとは…
そして、上着の袍(ほう)。 これも御身分でいろいろと決っている。
お内裏様は天皇様ということなので、縫腋袍、桐竹鳳凰文様の青色と行きたいところだが、
そうは問屋がおろさぬ木目込み装束。
おっと、大切な被り物、冠。 これは最後に載せるお飾りなんぞではない。肌小袖の次に着用をする。

この冠、被り物には大切な役割があった。
その頃、それまで伸ばしていた髪を元服時に、紐で束ねて頭上に立たせた。
要するに髻(もとどり)を作った訳で、これこそが、成人男性の象徴であったと。
そもそもは律令制導入とともに大陸から取り入れた風習だが、被り物はこの髻の保護の為のもの。
無帽の状態は露頂といって恥辱とする概念が生まれたというから、お大切なのである。
風呂も、就寝時も脱がず、笠や冑も被り物の上から被ったのだそうだ。
冠は束帯、布袴(ほうこ)、衣冠といった装束で被り、私服の時は烏帽子。 
大人の男に被り物がないのは 丸裸ということで、肌着の次に着用するというのも頷ける。

冠も、強装束以後に変化があり、漆の加工で透けなくなったり、纓が冠から取り外せるようになった
という。そこで、纓を二枚重ねてピンとなるようにする。
纓の根元を冠に作られたソケットに差し込むのだから、根元が上がる。 
という訳で、時代とともに 纓の根は上昇。
巻いている卷纓に対して、先端が垂れ下がるものを垂纓といった。
垂纓は天皇、皇太子、皇族、文官用であったが、江戸時代以降の天皇の冠は纓の先端が下がらず
立ったままで、現在に至るという。 これを御立纓 (ごりゅうえい) という。 
そもそも、被り物はかんざしで髪に止めていて、紐で結んではいなかったものが、
江戸時代以後、顎で結ぶ懸緒となったということで、御立纓のお内裏様の冠に紐が
掛っているのも道理ということか。と、納得して雛飾りを眺め入る。

やっぁ〜  御立纓、纓がっ。 
纓を挿す壺が壊れてテープで張り付けられ、それも剥がれて…
                          まぁまぁ、今年もお勤めを果たされ、ご苦労なことである。



改めて眺めると人形装束はなんともはや… お内裏様の装束   腰帯なんぞが前に下がり、 笏もあんな持ち方で〜
 この内裏雛、能での遊士の出立。さしずめ、光源氏のことと言われる 能≪融≫の大臣というところか。
                          色形ともみばえが重視のあくまで創作着装 





投稿日 2012年03月01日 0:24:54
最終更新日 2012年03月01日 0:25:09
修正
2012年02月05日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
本日の放送をご清聴頂きました皆さま、有難うございました。
 
                                三余堂
投稿日 2012年02月05日 8:24:51
最終更新日 2012年02月05日 8:24:51
修正
2012年02月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
辺り一面 厚い雲に覆い尽くされた新宿ホテルの最上階。
窓の向こう、雲の中に点滅する塔は完成間近の スカイツリー。
こんなにも近くに見えるのかと改めてその高さに驚く。
隅田川にかかる業平橋付近に間もなく開業の東京スカイツリーが建つ。
「おしなりくん」と云う人形が地元の宣伝のために作られて活躍している。
所謂 ゆるキャラというもので、その名は地元、押上と業平橋からとったものだそうで、
平安貴族の格好に烏帽子が東京スカイツリーをかたどっている。
つまり、押し上げ近辺の在原業平がのっぽの烏帽子を被っているということだ。
伊勢物語で在原業平が都を思う歌を詠んだ事にちなんでの御縁である。

名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと”  
古今和歌集に収められたこの歌は在原業平のもので、 能 隅田川 でも耳慣れている。
父方をたどれば桓武天皇の曾孫、母方をたどれば桓武天皇の孫にあたるという、業平。
皇統が嵯峨天皇の子孫へ移り、826年に臣籍降下して、兄の行平らとともに在原姓となったそうな。
業平は美男。 ということになっている。
二条后や、高貴な女性たちとの禁忌の恋が語られている『伊勢物語』の主人公である。
いわゆる「昔男」とされてきた。
古今和歌集などの歌集で知られた歌人で、兄の行平をはじめ子や孫も歌人。
多くの歌を残している一方、兄の在原行平、共々鷹狩の名手であったというから、当時の貴族の
身につけるべき事柄は何か、ということを垣間見る。
因みに “立ち別れ いなばの山の みねにおふる まつとし聞かば 今帰り来む” というのが
在原行平の歌で、百人一首で十八番にしている御仁も多かろう。
これは 昔からの能の人気曲、 松風の題材となっている和歌である。


    “ 世の中に たえて櫻の なかりせば 春の心は のどけからまし ” 
    “ から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ”
    “ ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くゝるとは ”


これら古今和歌集の歌は伊勢物語やら、百人一首やらで 耳になじんだ弟在原業平のものである。
業平の没後、時が経ち、世阿弥の時代。 当然のように能に数多く業平の影は登場してくる。 

世阿弥作と謂われる 能の雲林院は業平と二条后の恋物語が素材。
美しい業平の霊の遊舞が、平安の貴族の優雅さを漂わせる能である。
雲林院は世阿弥自筆の能の本が残っていて、その自筆本では現行と異なり、後段、
二条后の兄である藤原基経の霊が鬼、怨霊のような姿で登場する 妄執の能だったとか。
花の舞い散る月夜に 殿上人の装いで現れて昔を偲んで舞い、幻と消えゆく業平だった 〜  とは
行かなかったようである。

花の名所、雲林院は応仁の乱で廃絶してしまった。
淳和天皇の離宮が造られたという紫野一帯は野の広がる狩猟地で、桜の名所だったという。
そこに雲林院はあった。色々な変遷の後に官寺となった雲林院。 
在原業平が伊勢物語の筋を夢で語る処。能 雲林院 の舞台となったが、 今昔物語集や大鏡の
舞台ともなり、源氏物語にも登場する。
現在の雲林院は、1707年にかつての寺名を踏襲して、大徳寺の塔頭として建てられたものだそうで、
往時のものではない。


もっと、もっと、時代は下って、江戸の世。 落語でご存じ、花魁千早太夫と相撲取り龍田川のお話。
“千早ふる”は 隠居が “ ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くゝるとは ”
いい加減な解釈をする話だが、「千早振る神代にもない いい男」 「冬枯れに無地に流るる龍田川」
などの狂歌が基にある。 
この当時も 美男で様子のいい男業平は勿論のこと、その歌の知名度の高さを示しているわけだ。 

如月壱弐日 三余堂は初冠に緌、狩衣指貫の出立で在原業平の霊となる
はてさて 伊勢物語の往時が蘇えるか。


雲林院  在原業平

能「雲林院」 (c)La plume d'oie 2012



投稿日 2012年02月11日 19:07:50
最終更新日 2012年02月11日 19:08:28
修正
2012年01月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
恭頌新禧


壬辰の春に


2011の大晦日の東京はこの季節らしい一日であった。
おテント様が真っ青な空に輝いて、乾いた冷たい空気に街路樹のイチョウが舞っていた。
四人の童子が、“おっと うつむきゃ涙がこぼれる いつでも楽観 上向き童子 ”と、空を仰ぎ
今日のこの日を待っていた。

2012年 1月1 日。壬辰の元旦を迎えた。

正月の能の初会には 『翁』が演じられる。 
これは能の成立に先行して行われていた、猿楽の本来の役目のものであった。 
役者が翁面をつけ、天下泰平を寿ぎ、国土安穏を祈って翁の舞を舞う。
現行の形は世阿弥時代の形態を伝えていると云われ、今も、上演前は精進潔斎、別火をする。
『べっか』と読む別火は、日常用いる火による穢れを忌んで、炊事の火を別にすることだ。
翁に際しては、神職が神事などに際して行う別火を行い、開始直前に鏡の間での杯事をする。
翁は舞台上でも、正面に深々と拝礼をし、所定の場所に着座すると おもむろに 
 “とうとうたらりたらりら。たらりあがりららりとう。” と発声。
 “ちりやたらりたらりら。 たらりあがりららりとう。”と、地謡が答える。
判らんような、判らんような… が、わかったような 翁の初頭の詞章である。
これは神事なのである。
“およそ千年の鶴は。万歳楽と謳うたり。また萬代の池の亀は〜
                     天下泰平。国土安穏。今日の御祈祷なり〜 ” と 翁が謡う。

陽を仰ぐ童子も、地を舞う翁も届けとばかりに思う願いは同じ。


    薮内佐斗司 作 上向き童子 壬辰の春に 於西荻地域区民センター



投稿日 2012年01月01日 0:00:20
最終更新日 2012年01月01日 0:00:20
修正
2011年12月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
  歌舞伎十八番の内に 外郎売というのがある。
「外郎売 実ハ 曾我五郎」という設定の話で、享保三年、二代目市川団十郎が勤めたのが
初めという。  外郎売の口上で “ 拙者親方と申すは〜 ” と始まり、

  “ 〜武具、馬具、武具、馬具、三武具馬具、合せて武具馬具 六武具馬具 〜 
煮ても焼いても喰われぬものは、五徳、鉄灸、金熊童子に、石熊、石持、虎熊、虎鱚。 
中にも、東寺の羅生門には茨城童子が腕栗五合掴んでおむしゃる。
かの頼光の膝元去らず、鮒、金柑、椎茸、後段な、蕎麦切り、素麺、饂飩か愚鈍な 小新発知〜 ”
  


と、訳のわかったような、判らんような 調子のいいセリフが続く。早口言葉や滑舌の稽古に
使うことで知られているから、何処かで耳にした記憶があると思う。

“かの頼光(らいこう)の膝元去らず” と、ここに登場の頼光。
平安は中頃の武将。 父は鎮守府将軍の源満仲。 その長子で、清和源氏の3代目というから、
結構な御家柄である。 成人して出仕し、藤原氏の下で官職を得たらしい。
関白兼家の葬儀でのこと。藤原道長の振る舞いに、“うぅ〜む”と 思うところあって、側近として
従うようになったとか。 それまでにしっかり受領として蓄えた財で、道長にしばしば御進物。
 “道長さまぁ〜 ファンなんですぅ〜”と、道長に一所懸命お尽くしして、道長権勢と共にご発展。
しかるに頼光。 武門の名将「朝家の守護」と呼ばれた、と!
この頼光、玄孫、即ちやしゃごに宇治平等院で自刃した源頼政がいる。

寛仁元年 (1018年)、大江山夷賊追討の勅命で 頼光は頼光四天王らと共に鬼退治を行った。
京都の成相寺に頼光が自らしたためた追討祈願文書があるという。
 “どうぞ、鬼退治が上手くいきますように”っていうことである。
酒呑童子が、茨木童子をはじめとする多くの鬼を従えて、大江山から、しばしば京都に出没し、
高貴な若い姫をさらったり、生のまま喰ったりの、ぞぉっとする悪行の数々。
帝の勅命で、源頼光と頼光四天王が討伐したという、お話は夢か現か…
酒盛りの最中に、酒を酒呑童子に飲ませて寝首を掻き成敗したが、そこは酒呑童子。
首を切られた後でも頼光の兜に噛み付いていたそうな。
討伐祈願の成相寺には、酒盛りの時の酒徳利と杯が所蔵されているというから、こりゃぁ現かな…。

この四天王、渡辺綱を筆頭として坂田金時、卜部季武、碓井貞光 のご面々。
渡辺 綱(わたなべのつな)は、大江山の酒呑童子退治は勿論、京都の一条戻り橋の上で鬼の腕を
源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落としたってお話でも有名。
能『羅生門』は舞台を一条戻り橋から羅生門に置き換えたもので、この綱さん、源融(みなもとのとおる)の御子孫で、かの頼光さんの御親戚なんですねぇ。 故に正式な名乗りは源綱(みなもとのつな)。 
源融は陸奥国塩釜の風景を模して六条河原院を造営したとかいう 嵯峨天皇の子。
臣下に下り 源姓を賜って… 光源氏のことだなんて、謂われたり。百人一首の河原左大臣である。
要は綱さんも、頼光さんもなかなかのご出自ということ。

坂田金時(さかたのきんとき)は、まさかり担いだ金太郎さん。
きんたろさんが「金時豆」の由来なら、息子の坂田金平は「きんぴらゴボウ」の由来とな…。
卜部 季武(うらべのすえたけ)は知る人ぞ知る、知らない人はてんで存じ寄らない
                                            酒呑童子退治の人!
碓井貞光(うすいさだみつ)は、童話の『金太郎さん』では、樵に身をやつして、旅をする最中の足柄山で金太郎を見つけて、源頼光のもとへ連れて行くということになっている、碓氷峠のおっさん。


ここまでに出てきた『融、頼政、満仲、頼光、大江山、羅生門』。
それぞれ流儀によって多少の違いはあれど皆、能の曲になっている。
所縁の曲には渡辺綱をはじめ酒呑童子等々が、ご登場。当時としては誰でも知っていたお話。
外郎売りが実は…と、歌舞伎でいう曽我兄弟のお話も 能には『小袖曽我』をはじめとする
曽我物ってものがある。これらが作られた室町期の あの時代 みんなが大好きだった物語。
能の中で今に伝えられているってことで、当時の趣味なんぞを垣間見て
                  へぇーとか、ほぉーとか 突っ込みながらのご鑑賞もこれまた 一興。





三余堂12月観世九皐会で能 『頼政』 の地頭を 勤める。



投稿日 2011年12月01日 0:05:01
最終更新日 2011年12月01日 0:05:01
修正
2011年11月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
そろそろ花時も終盤の、青味がかった黄色い花。粟粒のようにぎっしり花がついている。
日当たりのいい場所に草丈を一メートル程にまで伸ばして 風になびく。
そこで まいまいしている蝶はベニシジミだろう、朱赤の小さなのが飛び交う。 
日の出時刻が午前六時を過ぎた東京の秋はだいぶ深かまった。
この時期 虫の声が最後のコンカツとばかりに 陽が高くなっても必死に声を上げてもがいている
ように思える。  もっとも、昼にしか鳴かないのもいるが… 
秋の七草の仲間、黄色い花は 「女郎花しほるゝ野辺をいづことて一夜ばかりの宿を借りけむ」 と 
源氏物語に登場する。   その花は 「をみなへし」 。 「女郎花」 と書く。

この漢字を宛てるのは平安の延喜年間以後だという。
女郎花の、『をみな』 は若い女性、女性、佳人のことで、当時の貴族の令嬢や夫人を指していた。 
『えし』は粟に例えて『飯』に通じるとか、あまりに花が美しいので、女性の美しさが減す、減し、だとか 
諸説粉粉。 それ以前の万葉では何と書いたか。首を捻ったままになりそうな 「娘子部四」「姫押」
「佳人部為」「美人部師」などの字を宛てたという。 三余堂判読不可。

女郎花より全体的に大きく、少し早い時期に白い花をつける 「をとこへし」 というのもある。
黄色いオミナエシを粟花 あわばな、白い花の オトコエシを米花 こめばな、女郎花、男郎花と書いた。
古の風を感じる。もっとも、三余堂亭主が近隣で見かけるのは 野生種ではなかろうから どこまで
それに近づけるか、どうか。
秋の七草 女郎花、尾花、撫子、桔梗、藤袴、葛、萩は 今や園芸種に頼らざる負えないようで。

能に 『女郎花』 という曲がある。これを「をみなめし」と読ませる。
九州から都に上った僧が、山城の国で、道端の女郎花を手折ろうとすると、老人が現れてそれを
止めた。老人は石清水八幡宮の近くの男塚、女塚が並ぶ山陰に僧を連れて行いくと、塚に葬られて
いるのは小野頼風でこの自分であると言い残し秋風に消える。
さて、ここからがナンダカンダと、僧の読経のうちに男女の霊が身の上を語り始める。
大した愛憎物語である。この先は能をご観覧のご仁がそれぞれに 感慨にふけって頂くこととして。


現在、京都と大阪から約30分ほどのところに京都府の八幡市があるが、其処で平安初期の叶わぬ
恋物語を今に伝えている。
男の名は、小野頼風。 京で深い契りを結んでいた女がいた。
国元の八幡へ戻った頼風を京の女は思いあまって訪ねると、男が他の女と暮らしていることを知り、
悲嘆のあまり泪川に身を投げて死んだ。
やがて、女が脱ぎ捨てた山吹重ねの衣が朽ちて、そこから女郎花が咲いた。
頼風が花に近づくと、まるで頼風を嫌うようになびく。 頼風は「こんなにも私を恨んで死んだのか」と 
自責の念にかられ、放生川に身を投げた。人々はこれを哀れんで、男塚、女塚を築いた。 
男塚の頼風の塚の周りに茂っている葦は 「片葉の葦」 と呼ばれて、女塚の女郎花塚の方向にだけ
葉がついて、その葉が、女郎花塚に向かい今も 「恋しい、恋しい」 となびいているのだという。

京都府八幡市の図書館くに「頼風塚」または「男塚」といっている 小さな五輪石塔がある。
これに対して、少し離れた松花堂庭園の西隅にある小さな五輪石塔を 
                               「女郎花塚」「女塚」といっている。

今月5日には 観世九皐会で能 『女郎花 おみなめし』 演能。







投稿日 2011年11月01日 0:31:49
最終更新日 2011年11月01日 0:31:49
修正
2011年10月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
今夏は六月末からけっこうな暑さだった。
三余堂では例年になく、蝉の抜殻をあちこちで発見。空っぽになった揚羽蝶の蛹もすっかり色あせたが
まだしっかりと壁に固定されて、ひとつ、ふたつと 数えられる。

千草に集く虫の音 (ちぐさにすだくむしのね) 

千草に集く虫の音 (ちぐさにすだくむしのね) 
千草に集く虫の音 (ちぐさにすだくむしのね) 



飛蝗や揚羽の幼虫に、さんざん大そう贅沢な食の饗応をした夏でもあった。
このひと月は秋の虫がその御礼にと毎夜美声を披露してくれている。 
なんとも賑やかなこって…と思いつつも有り難いことだ。
今年は特に 手を入れず鬱蒼とさせた庭をすぐそばに配することとなり、あらゆる虫の声を楽しむ。
藪蚊に悩まされても、これほど色々の色音が車の騒音に負けずに耳に入ってくるのは なかなかで、
蟋蟀はもとより、鈴虫、松虫、ツヅレサセ蟋蟀にヤブキリに、日が高くなってきてからはキリギリスと
さも聞分けが出来ているようだが、スーイッチョがいないことだけが判る程度のこと。

松虫は、昔はスズムシと呼び、鈴虫のことはマツムシと呼んだバッタ目コオロギ科の虫だ。
                                                  あぁ ややこしや 。
主に生きた植物の上にいるというが、フレッシュから枯葉まで食すと云うし、虫の死骸などなんでも
ござれの食いっぷりという。 「チンチロ、チンチロ、チンチロリン」 てな具合に鳴くことになっている。
鈴虫も同じく、バッタ目コオロギ科。 触角がえらく長いので見つかれば判りそうなものだが、夜目が
利かないと無理。 「リィーン・リーーン…」と繰り返した後 「リィィィッ、リィィィィッ…」と高く、美しく、
鳴くのが鈴虫だと教えられた。 九月も半ばになり、松虫も鈴虫も、はたまた蟋蟀も一斉に鳴き叫ぶと 
「リィッリィリリッ!! リィッリィリリッ!!」「ピッピッリリッー!!」と鋭く神経を刺すような大音量となり  
  『うるせぇ〜』と叫びたくなる。  千草にすだく虫どもは必至なのだ。

神様が出雲にお集りになる頃は、虫どもは力も尽きたのか、穏やかなその音に『聞分けをしようか』
という気にもなる。 明け方、耳をそばだてるともなく聞こえてくるのは 「リィィィィッ、リィィィィッ…」と
物憂げに謳う鈴虫や、「リ゛ッ、リ゛ッ、リ゛ィッ、リ゛ィーッ…」となく ツヅレサセコオロギだ。
                                                    と、勝手に思う。
ツヅレサセが鳴き出すと寒い季節が近づくので 『そろそろ冬着の繕い物を』 と思ったことから
「綴刺せ」と呼んだとか。 「針刺せ、糸刺せ、綴刺せ」と聞こえるからだという。 聞こえるかぁ〜 。
この虫、単にコオロギと呼んでいたこともあるようだが、コオロギは昔のキリギリスで、
今のキリギリスは昔はハタオリで…、と、ごちゃごちゃとなる。
お古い時代の話の時は心積もりがご肝心でございますな。

キリギリスは、昼間、キリギーリスというか、ギスギスギー、ギィッギーとやや騒がしいので気づく。
 『 きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣かたしき独りかもねむ 』 と百人一首で馴染みだが、
キリギリスは夜は鳴かないので、これはコオロギの「コロコロ、コロコロコロッ」 というわけだ。
因みに 今のキリギリス、ハタオリは「きり、はたり、ちょう」と機織る音に聞きなされたのだろう。
機織りの音はギィッーというばかりではなく、横糸を通す音、それを打ち込む音と様々である。
虫の音の様を表すのに使われる「きり、はたり、ちょう」は 生活の音である。


「面白や 千草にすだく虫の音の機織る音は きりはたりちょう 
   きりはたりちょう 綴刺せちょう きりぎりすひぐらし いろいろの色音の中に 
別きて我が忍ぶ 松虫の声りんりんりんりんとして夜の声 冥々たり」
「草茫々たる朝の原に 虫の音ばかりや残るらん
                  虫の音ばかりや残るらん」
と 能 『松虫』で謡う。









投稿日 2011年10月01日 11:13:18
最終更新日 2011年10月01日 11:13:33
修正
2011年09月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
さすが 夜ともなると秋の虫の大合唱で、蟋蟀、鈴虫、轡虫、と賑やかになった。
昼は昼で、蝉の声が響き渡る中、最後の産卵のためのアゲハやちょろちょろ出てきたコオロギと
季節の移り変わりを垣間見る。

玄関先の鉢にチョンチョンと動くものを見つけた。 どうも おんぶバッタらしい。
バッタというと ツンツンとしたイネ科の植物について 跳ねまわるような気がしていたが…
ちいさな 美しい黄緑の身体は鉢のバジルの葉を食料にしているようで、食卓に上がった気配のない
このハーブは 日に日に葉数を減らしている。

おんぶバッタは、シソ科もキク科も何でも食すというから、摂りつかれたら諦めて、食いっぷりを看る。
すぐ傍の柑橘類の葉が、これまた無残な姿を曝け出して、アゲハチョウの幼虫を飼育している。
今年何度目の産卵かと思いつつ、まぁ、住宅、食料ともに難儀なのであろうと、今回も提供。
これでは いつまでたっても、花も実もつくことはあるまい。 多分、来年も散々食い散らしに来て大きな
いも虫になり、どこかで 蛹から蝶になる。
バッタもバッタで “有難うござんす!お世話になりやした!” と、仁義を切ったって罰は当たらないものを。
食いつくせば さっさと移動であろう。
どうも、キチキチキチッと音をさせて飛ぶ細長いバッタは 所謂ショウジョウバッタというやつらしい。
これがイネの大敵。別名 ショウリョウバッタとも。
旧盆の時季になると姿を見せ、精霊流しの船に似ているので精霊バッタと言われるとか。
まぁ、三余堂で蝶や飛蝗に多少の宿を貸したからとて…  安穏なものである。


世の中安穏なれ 食いも食ったり 飛蝗にいも虫 世の中安穏なれ



今、「世の中安穏なれ」のテーマで鵞毛庵が小作品を発表している。
平安時代末期に頻発した災害や戦乱は終末的な想いを世の中に広げ、多くの人々が救いを求めていた。 
この「世の中 安穏なれ」は、親鸞聖人が、不安と争いの時代に、人のめざす道を示した言葉だった。
  仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために、御念仏こころにいれて申して、 世のなか安穏なれ、
  仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ。 

仏のご恩を思って、心を込めて念仏し、世の中が安穏であるように 仏法が広まるようにと 思われよ!
と、親鸞は述べている。
宗祖の750回大遠忌を迎える 浄土真宗西本願寺派が掲げたスローガンが、この「世の中安穏なれ」。


浄土宗宗祖法然上人は800回忌、浄土真宗宗祖親鸞聖人は750回忌 とのことで、昨年あたりから
関連事業が盛んである。 それぞれの宗派は勿論、出版界、演劇界など、各所で大遠忌、大遠忌と
目にすることが多い。 世情が混迷した時代に求められた万人の救済は 法然、親鸞の教えが 
多くの人々に受入れられ、今日に至っている。   
来月は国立博物館で<法然上人800回忌・親鸞聖人750回忌特別展
「法然と親鸞 ゆかりの名宝」
が開催される。
今の社会事情を想うと より深く感じ、学ぶところも多い両上人の大遠忌だ。

地球規模の天変地異を感じ、世界中で社会情勢の不安に慄く日々。
                            世の中が安穏であって欲しいと 願わぬ者はあるまい。










投稿日 2011年09月01日 5:31:43
最終更新日 2011年09月01日 5:31:43
修正
2011年08月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
今日から八月だが、梅雨のような陽気に障子は波を打っている。
紙の文化だなぁと その強さを確認するかのように触れてみる。子供なら指を無理やりに押し込むのだが。

中国史上まれにみる名君といわれる光武帝が開いた後漢王朝。
                                       というキャッチフレーズはいつも同じような気がするが … 
この後漢の、明帝の御代に登用された蔡倫という宦官がいた。 この人、皇帝三代ぐらいに仕えたようだが、何しろその頃のお家事情が複雑のようで、皇帝は成人するのかしないのか、君主交代劇が盛。
ざっと200年も続いたこの御代は、諸葛孔明なんぞで馴染の三国志の前の時代になる。
で、ご存知福岡県は志賀島で発見された あの「漢委奴国王」金印の漢がこの時代。
時代の要請だったのか、科学技術の進歩というか、紙というものを開発したという。

それまでは 物を書くって言ったって、木や竹を一定の大きさに切って束ねたものに書き付ける木簡や
竹簡、又は絹布を使用していた。 かさばるワ、重いワ、持ち運びには不向きだワ … で、そのうちには
朽果てるし、絹は絹で非常に高価。 とてもとても 大量に書写材として使うのは不向き。
記録が仕事の役人にとっては実に不合理だった。 孔子様の教えを書き付けて置かないと忘れてしまうし、
文化を担う坊様だって お経の一つも したためなきゃぁならない。

そこで、蔡倫という有能な官吏が御指名に与った。   『 かみぃ つくれぇ〜 !』
樹皮や、麻などの植物繊維を原料として それまでの製法技術を改良したのが「蔡侯紙」と呼ばれる紙。
切り刻んだ樹皮などを水で洗い、草木を燃した、灰でぼろを煮たりして、石臼で砕き、陶土や滑石粉などを
混ぜて水の中に入れ簀の上で漉いたそうだ。

雪のちらつく冷たい朝、水の中の入れ簀を前後にゆする名人。
繊細な紙漉き職人の工房の一角には蔡倫を祭り、精進潔斎して仕事に臨む職人の姿がある。
                                             これはあくまでも我国の和紙製作の話だか゛…  


なんたって 蔡倫は紙の神様。
紙は木と水を繋ぐ神聖なもので、中国でも仕事前に香を焚いて祈る姿が ヒストリーチャンネル
『絹の道、紙の道−文明の礎二千年− MBC+MEDIA製作  』で画面に映し出していた。
軽く小さくなる紙は文化の伝達速度を格段に上げていった。
後漢代のみならず全ての時代と、すべての地域に多大な影響を与える2000年に及ぶ紙の旅路だ。
製紙の技術は大陸から、アジア諸国へ 言葉や仏教、儒教を広める原動力になったし、
西方への文化の橋渡しを担った。 そして、電子化がいくら進もうとも、今の私たちは享受している。


有難くも、障子に指でそっと穴をあけたり出来るのは紙なればこそ。
                                       化学繊維を漉きこんだもので穴はあかねぇ…



かみの神様


古代エジプトではパピルス(カヤツリグサ科)からパピルス紙を作って文字を書いており、輸出品としても重要だった。しかし、政治的な事情からペルガモン王国への輸出を禁じたため、ペルガモンでは動物の皮から作る羊皮紙が発展、やがてパピルスの衰退を招き、ヨーロッパは羊皮紙が主流に。 ヨーロッパで紙が製造されるようになったのは12〜3世紀からで、イタリアが中心となった。

中国からイスラム圏に紙が伝来するのは8世紀になってからで、それによりパピルスの製造や使用が完全に衰退。
近年ではエジプト土産のひとつとして製造されている。このパピルスは鵞毛庵がお世話になっている日本橋の小津和紙の玄関の鉢植え。


                         かみの神様

画像は現代のパピルスに鵞毛庵がブルトン語の歌をケルト文字で書いてみた作品。その詳細はいつかどこかで....

                                
投稿日 2011年08月01日 12:09:14
最終更新日 2011年08月01日 12:11:29
修正
2011年07月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
小説の神様 志賀直哉が書いた小僧の神様は
  『仙吉は神田のある秤屋の店に奉公している。』 で始まる。
屋台の鮨屋で一度手に持った鮨の値段を言われて、それを置いて出ていく小僧。
それを見ていた男が後日、小僧に鮨を御馳走してやる。
男と小僧の気持ちを綴った短編 「小僧の神様」 だ。

秤屋の店頭で、大番頭と若い番頭がする鮨屋の噂話に小僧仙吉は
『 「しかし旨いというと全体どういう具合に旨いのだろう」そう思いながら口の中に
たまってくる唾を音のしないように用心しいしいのみ込んだ 』 とある。
大正九年に書かれたこの小説の頃は 屋台の鮨屋が専らだった。
翌年生まれの親父殿の話にも屋台の鮨屋がよく登場するから、屋台の時代は長い。

綱紀がゆるみ、財政窮迫、賄賂横行、奢侈淫逸の文化期(1804〜1817)の始め、
深川六軒掘りに、松がすしという鮨屋が出来たそうである。
押しずしのような、上方風のすしが中心だった江戸市中のすし屋に、にぎりずし登場。
世上、にぎりずし一色に一変したとも言われたそうな。
この鮨屋本来の屋号は「砂子鮨(いさごずし)」といったそうで、それまでと違って
結構な値段で、よその鮨屋も右へ習えとばかり、という話もあるが…
ともあれ、お江戸を中心に爛熟した町人文化を生んだ文政期(1818〜1831)に
握りずしは完成をみたようで、瞬く間に拡がったという。 屋台料理として。

広重の描いた浮世絵の寿司を見ると、細工された葉蘭を敷いた皿に、こはだに海老、干瓢海苔巻、
たまごの太巻きなどがのっている。
江戸前、すなわち東京湾でとれる素材を使うので江戸前寿司とも呼ばれるが、
何れも、酢〆、醤油漬け、火を通す、などの下処理をしている。
だいたい、すしの起源は、紀元前4世紀頃の東南アジアというから古い話だ。
米の中に塩と魚を漬けて発酵させた保存食。
所謂、米飯に漬けて、自然発酵させた「なれずし」だ。
天保期の末に下魚とされていた鮪が豊漁となって、湯引きして、醤油に漬けて提供。
大いに評判となり、江戸前ずしを代表することに。
当時のファーストフード、廉価なすしを売る「屋台店」が市中に溢れたというのだから、 
冷蔵庫のない時代のすしは、保存の工夫が勝負だったろう。
固定の店をかまえる「松之鮨」なんていう鮨屋では、比較的高価な鮨で勝負したという。
そういうところではマグロなんて下種なものは出さなかったようで…
ちなみに 贅沢を禁じた天保の改革では、200軒あまりの寿司屋が手鎖の刑に
なったとか… 高級店がそんなにもあった、ということだ。

明治30年代になると、鮨屋でも氷が手に入りやすくなり、明治末あたりからは
その供給が気になるが、電気冷蔵庫を備える店も出てきたというから驚きだ。
当然、江戸前握りずしは、酢〆、醤油漬け、火を通していた素材も、良くなった環境のおかげで
生で扱うことが多くなってきたし、種類も増えた。
小ぶりの握り飯ほどもあったにぎり寿司は 次第に小さくなってきた。
大正12年 関東大震災で被災した東京の鮨職人達が故郷に戻り、日本全国に
江戸前の寿司が広がっていったという話もある。

その後、戦後は衛生上の理由から屋台店が無くなって、小僧の仙吉でなくても
気楽な感じのものではなくなった。
現在、当たり前になった回転寿司。昭和33年に大阪で始まったというから 結構な
歴史になるし、スーパーは勿論、コンビニにも江戸前にぎり鮨がパックで並ぶ。
屋台のすしがコンビニの鮨へと庶民性を取り戻していった。

はてさて、その味は。小説のタネになるものだろうか。
                         くれぐれも この季節生モノには御用心!







投稿日 2011年07月01日 8:01:40
最終更新日 2011年07月01日 8:01:40
修正
カテゴリ : [案内望遠鏡]
只今 編集中!

    お世話になります。
             只今 編集中
投稿日 2011年07月01日 0:24:09
最終更新日 2011年07月01日 0:24:09
修正
2011年06月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]

 えーっ 何事についても、なにか自分の意見を言わないと気のすまない人を一言居士と申しまして、
この 『こじ』という響きがなんともお固そうで、おまけに意固地なんていう言葉が浮かんでくるから
がちがちの『文句言い』のような人を想像いたします。
お勉強なすった ご僧侶ほどに学識はお有りだが、出家はされていない。
そんな坊さまを『居士』と呼ぶようでして〜、 まぁ そんなところから、一原因ガチガチ居士、
なんていう具合に戒名でのご尊称となったらしゅうございます。


  鎌倉時代も終わりの頃、あの訳のわからない、お経の文句や意味をやさしく話してくれる人が
居りまして、世にいう 説教師。 ンまぁ、これがよく判るんでございますよ。
          今なら ナントカ彰さん でございましょうかぁ。
ありがた〜い教えも 聞いて貰わなきゃぁ仕方がない。ただ話したって、面白くもおかしくもない。
人さまの集まりそうな所で、鳴り物で集めようか、身振り、手振りで見せようか、
それとも唄おうかっ、てんで簓を摺り、舞い歌いながらのお説教。 
人呼んで ささらたろう。  簓太郎のご誕生でございます。

  この簓太郎が自然居士と謂われる人でして、《しぜんこじ》 じゃぁございません。 《じねんこじ》。
他に三人の御同業、歌舞説教のご面々が 『天狗草紙』 というものに書かれているんだそうで
ございます。みなさん、なかなかの芸達者。 まぁ、人気が出ればやっかみもあるし、足も引っ張られる。
なんと申しましょうかぁ、正当なお説教とも、ちょいと 違って居りましたんでしょうなぁ〜
なんだかんだで、えら〜い、お坊様方の会議でその四人組、京の都からオン出されちまったそうで。
まぁ そうは言っても、簓太郎さんは 御人気物。
近江の観音寺城で、佐々木頼綱さんのご依頼で額の裏書、奈良の新薬師寺では庇(ひさし)勧進のご説法。  その新薬師寺さんの庇。明治の末に取り外されたようではございますが、それを造ったのが
自然居士さんなんでございますねぇ。
あちら、こちら、とお出向きになったんでしょうなぁ、説教者の祖ってなことで 日本各地に墓があるそうで。
おまけに、子供の頃、青年、壮年と シャレコウベもご点在 …  それはさておきまして、
 この方、お能の主役にまでなったんでございますよ。
説教者の祖を、能の祖、観阿弥って方が作られたんだそうで。
えぇ、えぇ、「自然居士」ってお能でございます。祖が祖を描くってんだから、
古い、古い、お能の形ってことでございましょうかねぇ…


  本物の自然居士さんに、お目もじしたこたぁございませんが。 
観阿弥さん、御自身で「自然居士」をお演じなすったそうで。
喝食(かっしき)という、お若い御在俗の僧を示すっていう面(おもて)をかけて舞台へご登場。
それがねぇ、とっても物まねが御上手だったようで  自然居士が十二三ばかりに見えたって
ものの御本、『申楽談儀』ってのに あるんだそうでございます。
観阿弥さん、結構大柄だったとかで、いくらなんでも十二三とはねぇ。
いえいえ、女になれば細々と見えたんだそうでございますから大したもので。
  この観阿弥って方は、芸もたちますが、作者としても相当なものだったんでございましょう。
「自然居士」じゃぁ 人買いから娘を取り返す ってな、人情味たっぷりのお話を筋立てにして、
ことばの遣り取り丁々発止、ささらに鞨鼓に 舞うは謡うは 見せるわみせるわ。で、ございますよ。
その頃、流行りの曲舞 (くせまい)ってのを お能に取り入れなすったんだそうで、それがまた大当たり!
お勉強も熱心で、あっちで人気と聞けば、教わり、こっちでいけると思えばやってみる。
都も田舎も、上つ方から下々までの 評判のお人気役者。
  座頭としてもご立派だったんでしょうなぁ〜、営業活動も怠りなくなすって、
なんたって、将軍義満さまの御寵愛を一身に受けた世阿弥さんのお父上でございます。
ところが まぁ、お能をなすった旅先の駿河で52のお歳で亡くなったんだそうで、
世阿弥さんが 21か22の時だってぇことで、今から 何年前になるんでしょうねぇ〜
今年は2011年ですから、627年前ってことに…
それより前にできた 「自然居士」 のお能ってものを 今でも見られるってんだから
なにがなんだか 判りませんが、兎にも角にも、有難いことでございます。はい。


2011年6月19日  能を知る会にて 三余堂「自然居士」を勤める



投稿日 2011年06月01日 0:43:06
最終更新日 2011年06月01日 7:28:18
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