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2014年10月20日
カテゴリ : [鵞毛庵能の花シリーズ]
世の中は「栗」の真っ最中と書いてからひと月。それが今では「カボチャ」にとって替わっています。なぜならば、ちょうど食べごろの時期であるのと、10月31日のハロウィンの影響。ハロウィンについてはご参考までに2010年10月のこちらの記事で触れています。
カボチャは漢字にすると南瓜、これは中国語に由来するのですが、ほかに、中国渡来のという意味で唐茄子とか南京とか言われてました。
唐茄子というと落語の「唐茄子屋政談」が有名。商家の御曹司が吉原に入りびたりで勘当され、路頭に迷って川に飛び込もうとしたところを、叔父さんに助けられて唐茄子の担ぎ売りを始めるという「唐茄子屋政談」。結末までここで書くと長くなるので、あらすじ等はお時間のある時に検索願います。あしからず。
また、井原西鶴の一節に「とかく女の好むもの 芝居浄瑠璃芋蛸南京」。かぼちゃは女性が好むものとされていた(いる?)わけです。でも「唐茄子屋政談」に出てくる「唐茄子のあべかわ」というのが大好物な人物は男性ですけどねェ。
言葉としては「カボチャ野郎!」なんてあまり良い意味に使われないことが多く、フランス語でもカボチャみたいな頭というのは頭が痛いことを指し、あいつはカボチャみたいに丸いというと、酩酊状態。でも、英語のスラングにはマイ・パンプキンというと愛しい彼氏のような意味にもなります。うっかり間違って訳すと愛しい彼氏は「カボチャ野郎」っていうことになりかねませんが...。(そういう場合もあり得るかも。)
でも実際はカボチャはカロテンやビタミン類を多く含んだ緑黄色野菜で私たちの健康を支え、種から実から皮までもすべて食することができるという優れもの。さらには、フランスの作家シャルル・ペローのシンデレラの物語に於いて、舞踏会に向かうために黄金の馬車に姿を変えるという素敵な一面もあるのです。
秋の夜長にカボチャあれこれ。今宵の夢に黄金の馬車とでるか、ジャック・オ・ランタンに脅かされるか、たらふく食べるか...。
(c)La plume d’oie 2014
カボチャは漢字にすると南瓜、これは中国語に由来するのですが、ほかに、中国渡来のという意味で唐茄子とか南京とか言われてました。
唐茄子というと落語の「唐茄子屋政談」が有名。商家の御曹司が吉原に入りびたりで勘当され、路頭に迷って川に飛び込もうとしたところを、叔父さんに助けられて唐茄子の担ぎ売りを始めるという「唐茄子屋政談」。結末までここで書くと長くなるので、あらすじ等はお時間のある時に検索願います。あしからず。
また、井原西鶴の一節に「とかく女の好むもの 芝居浄瑠璃芋蛸南京」。かぼちゃは女性が好むものとされていた(いる?)わけです。でも「唐茄子屋政談」に出てくる「唐茄子のあべかわ」というのが大好物な人物は男性ですけどねェ。
言葉としては「カボチャ野郎!」なんてあまり良い意味に使われないことが多く、フランス語でもカボチャみたいな頭というのは頭が痛いことを指し、あいつはカボチャみたいに丸いというと、酩酊状態。でも、英語のスラングにはマイ・パンプキンというと愛しい彼氏のような意味にもなります。うっかり間違って訳すと愛しい彼氏は「カボチャ野郎」っていうことになりかねませんが...。(そういう場合もあり得るかも。)
でも実際はカボチャはカロテンやビタミン類を多く含んだ緑黄色野菜で私たちの健康を支え、種から実から皮までもすべて食することができるという優れもの。さらには、フランスの作家シャルル・ペローのシンデレラの物語に於いて、舞踏会に向かうために黄金の馬車に姿を変えるという素敵な一面もあるのです。
秋の夜長にカボチャあれこれ。今宵の夢に黄金の馬車とでるか、ジャック・オ・ランタンに脅かされるか、たらふく食べるか...。
(c)La plume d’oie 2014
投稿日 2014年10月20日 17:02:17
最終更新日 2014年10月20日 17:11:43
【修正】
2014年10月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
宋の文人が抱く 日本像は自国で亡佚した古書が保存されている国であったと
案内望遠鏡 『日本刀の歌』 で記した。
それは秦の始皇帝による 焚書前に叙福が、持ち出したと考えられていたからだが、
この叙福なる人物、たいした食わせ者。
始皇帝に、「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と云って、三千人もの若い男女と
多くの技術者を従えて、東方に船出したという。
彼は多額の資金を始皇帝から巻き上げて、派手な一行を組み、日本へ渡ったと信じられていた。
叙福が東方への出立を願い出たのは始皇帝28年で、焚書は始皇帝34年。
故に焚書で消えていった書経・詩経・諸子百家などが生き延びていると想像されていた。
しかし実際に、叙福はしばらく日本へ出発せず 焚書後の始皇帝37年に出掛けたようだが…
叙福の末路は不明なるも、始皇帝がしてやられたことは確かだ。
日本に中国の古書があるのは 叙福が焚書前に持ち出したからではない。
それまでに 日本にもたらされた書籍をはじめとする宝物類は、天皇家が天皇家として
脈々と存続した日本の場合、戦乱といっても徹底的な壊滅に至らずに済んだので、
さほど 不思議なことでは無かった。勿論 御扱がお大切であったことは言うまでもない。
『日本刀の歌』 の欧陽 脩が生まれる前、宋の太宗の時代984年のこと。
日本から入宋した然(ちょうねん)という坊さんがいた。
その折、中国ではすでに亡佚していた 後漢の鄭玄の注釈による『孝経』を
水晶の軸に金縷紅羅の表装という豪華版の仕立てで 携えていったらしい。
『孝経』というのは 孔子さまの教えだが、子供の頃は何かと耳タコであった、
『身体髪膚(はっぷ)これを父母に受く あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり』 の基である。
この鄭玄の注釈による孝経は 玄宗皇帝が 新しい注釈を作らせたら 無くなってしまった。
その新しい注釈 『始注』の次に 『重注』というのが作られたら 『始注』が無くなってしまった。
でも、日本には ちゃぁんと『始注』があった。
儒学書も仏典も どっかにやっちゃった! さぁ大変。 でも、でも、きっと日本にあるさ?!
西暦1000年頃 日本から僧寂昭入宋。
この時、中国の目録に名前があるだけで亡佚していた小難しい 『大乗止観』、『方等三昧行法』
を携えて行き、宋ではこれを基に新たに製作。 宋にしてみれば大変な賓客であったろう。
時の皇帝真宗から紫衣と円通大師の号を賜った寂昭は結局 、日本に帰国する事がないまま
杭州で没したという。
この人、結構な有名人。
「これは大江の定基と言はれし寂昭法師にて候、我、入唐渡天 し。
はじめて彼方此方を拝み巡り。只今 清涼山に参りて候〜 」
とか云って 橋の向こうが文殊菩薩の浄土だという石橋に辿り着く。
ご存知 能「石橋」に登場のワキの僧、寂昭のことである。
深い谷に掛かる狭く長い橋は人が渡れたものではない。 やがて、橋の向こうから
文殊の使いの獅子が現われ、牡丹の花に戯れて、飛んだり跳ねたり。
紅白の大きな牡丹の花に埋もれんばかりの絢爛豪華な舞台。
そこで 白い獅子、赤い獅子が獅子の舞を舞う。時には、何頭もの子獅子が橋懸、本舞台と
行き交い、もとの獅子の座に戻っていく。
無事に基の座に戻った、中国亡佚古書。
前述の『鄭注の孝経』と 『侃(おうかん)の論語義疏 』が日本で発見された物の代表だとか。
消えたアーカイヴ 2012.10.12. 三余堂月次から
案内望遠鏡 『日本刀の歌』 で記した。
それは秦の始皇帝による 焚書前に叙福が、持ち出したと考えられていたからだが、
この叙福なる人物、たいした食わせ者。
始皇帝に、「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と云って、三千人もの若い男女と
多くの技術者を従えて、東方に船出したという。
彼は多額の資金を始皇帝から巻き上げて、派手な一行を組み、日本へ渡ったと信じられていた。
叙福が東方への出立を願い出たのは始皇帝28年で、焚書は始皇帝34年。
故に焚書で消えていった書経・詩経・諸子百家などが生き延びていると想像されていた。
しかし実際に、叙福はしばらく日本へ出発せず 焚書後の始皇帝37年に出掛けたようだが…
叙福の末路は不明なるも、始皇帝がしてやられたことは確かだ。
日本に中国の古書があるのは 叙福が焚書前に持ち出したからではない。
それまでに 日本にもたらされた書籍をはじめとする宝物類は、天皇家が天皇家として
脈々と存続した日本の場合、戦乱といっても徹底的な壊滅に至らずに済んだので、
さほど 不思議なことでは無かった。勿論 御扱がお大切であったことは言うまでもない。
『日本刀の歌』 の欧陽 脩が生まれる前、宋の太宗の時代984年のこと。
日本から入宋した然(ちょうねん)という坊さんがいた。
その折、中国ではすでに亡佚していた 後漢の鄭玄の注釈による『孝経』を
水晶の軸に金縷紅羅の表装という豪華版の仕立てで 携えていったらしい。
『孝経』というのは 孔子さまの教えだが、子供の頃は何かと耳タコであった、
『身体髪膚(はっぷ)これを父母に受く あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり』 の基である。
この鄭玄の注釈による孝経は 玄宗皇帝が 新しい注釈を作らせたら 無くなってしまった。
その新しい注釈 『始注』の次に 『重注』というのが作られたら 『始注』が無くなってしまった。
でも、日本には ちゃぁんと『始注』があった。
儒学書も仏典も どっかにやっちゃった! さぁ大変。 でも、でも、きっと日本にあるさ?!
西暦1000年頃 日本から僧寂昭入宋。
この時、中国の目録に名前があるだけで亡佚していた小難しい 『大乗止観』、『方等三昧行法』
を携えて行き、宋ではこれを基に新たに製作。 宋にしてみれば大変な賓客であったろう。
時の皇帝真宗から紫衣と円通大師の号を賜った寂昭は結局 、日本に帰国する事がないまま
杭州で没したという。
この人、結構な有名人。
「これは大江の定基と言はれし寂昭法師にて候、我、入唐渡天 し。
はじめて彼方此方を拝み巡り。只今 清涼山に参りて候〜 」
とか云って 橋の向こうが文殊菩薩の浄土だという石橋に辿り着く。
ご存知 能「石橋」に登場のワキの僧、寂昭のことである。
深い谷に掛かる狭く長い橋は人が渡れたものではない。 やがて、橋の向こうから
文殊の使いの獅子が現われ、牡丹の花に戯れて、飛んだり跳ねたり。
紅白の大きな牡丹の花に埋もれんばかりの絢爛豪華な舞台。
そこで 白い獅子、赤い獅子が獅子の舞を舞う。時には、何頭もの子獅子が橋懸、本舞台と
行き交い、もとの獅子の座に戻っていく。
無事に基の座に戻った、中国亡佚古書。
前述の『鄭注の孝経』と 『侃(おうかん)の論語義疏 』が日本で発見された物の代表だとか。
消えたアーカイヴ 2012.10.12. 三余堂月次から
投稿日 2014年10月12日 0:06:17
最終更新日 2014年10月12日 0:06:17
【修正】
2014年10月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
毎年10月初めは近隣の八幡宮 秋の例大祭である。
今年も 宵宮の日には昼から参道一杯に 屋台が立ち並んだ。
さて本番、抜けるような秋の高い空の下 威勢の良い神輿が…と行きたいものであるが
そうは問屋が卸さないのが この時期で、必ず雨模様の日が一日はある。
秋雨だの台風だのと文句を言ってはいけない、さて、お立合い!昔から 五穀豊穣国土安穏〜
雨が降ってこその… という次第で、今年は冷たい雨が子供神輿を中止にした。
丁度今頃、といっても四百年昔のことであるが、
徳川幕府は京都との情報のやり取りのために一里飛脚を置き、豊臣軍は戦法を籠城とした。
我が国は戦闘状態である。豊臣氏は公然と浪人を集め始め、何とも落ち着かない。
こんな時にキリシタン大名の高山右近は国外へ出た。日本からの追放である。
利休七哲の一人としても知られた高山右近は戦国時代から江戸時代初期にかけての武将である。
七哲といわれた 千利休の七高弟は 他に細川忠興(三斎)、古田重然(織部)、芝山宗綱(監物)
瀬田正忠(掃部)、牧村利貞(兵部)と、当時のそうそうたる 武将であった。
細川忠興夫人は かのガラシャ、牧村利貞は高山右近の勧めで切支丹となったというから
当時の切支丹の一端が垣間見える。
徳の人という高山右近であるが、あまりの熱心な信仰故か、領内の社寺の破壊や神官や僧侶への
迫害などで 領地付近の古い神社仏閣はほとんど残らないという事態に陥ったという。
右近はキリスト教入信の強制はしなかったが、その影響の大きさで、領民のほとんどが
キリスト教徒となったそうである。 蒲生氏郷や岡田君の演ずる黒田官兵衛なども高山右近の
影響を受けて切支丹になったらしい。
石山本願寺の件で 手痛い思いをしている為にキリスト教の拡大による、一向一揆のような
反乱を恐れたり、社寺への迫害を懸念したり、秀吉の気に染まぬことが政治外交上も
色々とあったようで、1587年に伴天連追放令が豊臣秀吉により出された。
高山右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てたが、小西行長に庇護されて
小豆島や肥後などに隠遁、その後1588年、加賀の前田利家に招かれ、扶持を受けて暮らしたという。
1614年、慶長19年の徳川家康によるキリシタン国外追放令により、加賀を退去した。
その数日後、家康はいよいよ駿府を出発し京へ向かう。
大坂冬の陣へ一月あまりといったところであった。
高山右近は長崎から他の切支丹と共に船でマニラに同年の12月に到着。
イエズス会などの報告で、既にマニラで知られていた高山右近は大歓迎を受けたが、
老齢の身に病を呼んだのか、翌年になると、間もなく亡くなったという。
徳川軍が大坂城の堀を完全に破壊し、徳川秀忠は江戸城に入り、
家康が駿府城に到着した頃になる。
いよいよ日本におけるキリスト教受難の時に入った。
それが400年前の秋の空の下ということだった。
今年も 宵宮の日には昼から参道一杯に 屋台が立ち並んだ。
さて本番、抜けるような秋の高い空の下 威勢の良い神輿が…と行きたいものであるが
そうは問屋が卸さないのが この時期で、必ず雨模様の日が一日はある。
秋雨だの台風だのと文句を言ってはいけない、さて、お立合い!昔から 五穀豊穣国土安穏〜
雨が降ってこその… という次第で、今年は冷たい雨が子供神輿を中止にした。
丁度今頃、といっても四百年昔のことであるが、
徳川幕府は京都との情報のやり取りのために一里飛脚を置き、豊臣軍は戦法を籠城とした。
我が国は戦闘状態である。豊臣氏は公然と浪人を集め始め、何とも落ち着かない。
こんな時にキリシタン大名の高山右近は国外へ出た。日本からの追放である。
利休七哲の一人としても知られた高山右近は戦国時代から江戸時代初期にかけての武将である。
七哲といわれた 千利休の七高弟は 他に細川忠興(三斎)、古田重然(織部)、芝山宗綱(監物)
瀬田正忠(掃部)、牧村利貞(兵部)と、当時のそうそうたる 武将であった。
細川忠興夫人は かのガラシャ、牧村利貞は高山右近の勧めで切支丹となったというから
当時の切支丹の一端が垣間見える。
徳の人という高山右近であるが、あまりの熱心な信仰故か、領内の社寺の破壊や神官や僧侶への
迫害などで 領地付近の古い神社仏閣はほとんど残らないという事態に陥ったという。
右近はキリスト教入信の強制はしなかったが、その影響の大きさで、領民のほとんどが
キリスト教徒となったそうである。 蒲生氏郷や岡田君の演ずる黒田官兵衛なども高山右近の
影響を受けて切支丹になったらしい。
石山本願寺の件で 手痛い思いをしている為にキリスト教の拡大による、一向一揆のような
反乱を恐れたり、社寺への迫害を懸念したり、秀吉の気に染まぬことが政治外交上も
色々とあったようで、1587年に伴天連追放令が豊臣秀吉により出された。
高山右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てたが、小西行長に庇護されて
小豆島や肥後などに隠遁、その後1588年、加賀の前田利家に招かれ、扶持を受けて暮らしたという。
1614年、慶長19年の徳川家康によるキリシタン国外追放令により、加賀を退去した。
その数日後、家康はいよいよ駿府を出発し京へ向かう。
大坂冬の陣へ一月あまりといったところであった。
高山右近は長崎から他の切支丹と共に船でマニラに同年の12月に到着。
イエズス会などの報告で、既にマニラで知られていた高山右近は大歓迎を受けたが、
老齢の身に病を呼んだのか、翌年になると、間もなく亡くなったという。
徳川軍が大坂城の堀を完全に破壊し、徳川秀忠は江戸城に入り、
家康が駿府城に到着した頃になる。
いよいよ日本におけるキリスト教受難の時に入った。
それが400年前の秋の空の下ということだった。
投稿日 2014年10月01日 22:57:16
最終更新日 2014年10月01日 22:57:16
【修正】