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2017年11月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
木枯らしが吹いた 

散歩の道で他所の庭に 
旨そうな柿

窓から見下ろした 
子供の頃の隣家を思い出す

二羽のヒヨドリが
狙いをつけている

相撲が始まり まもなく冬がやってくる


       他所の庭
投稿日 2017年11月30日 11:59:06
最終更新日 2017年11月30日 11:59:37
修正
2017年10月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
金木犀の香りは祭りの支度を知らせる。
夏はすっかり過去のこと。
間もなく金木犀の絨緞が敷き詰められた径を
行くことになる。

          祭りの香り


陽に輝く銀木犀も待っている。祭りの香り
投稿日 2017年11月20日 19:17:53
最終更新日 2017年11月20日 19:17:53
修正
2017年09月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
今年もこんな季節

   こんな季節






投稿日 2017年11月20日 14:34:51
最終更新日 2017年11月20日 14:34:51
修正
2017年08月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
休筆広告
   お休みを致します



          休筆致します


 春に芳香を放った茉莉花。
 熱帯原産だけに この暑さにも二度目のご奉公。
 蕾がしっかりと開花した。心なしか大きな花が。
投稿日 2017年08月12日 9:26:36
最終更新日 2017年08月12日 9:26:36
修正
2017年07月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
休筆にも夏休み?

休筆致します

投稿日 2017年07月12日 15:27:16
最終更新日 2017年07月12日 15:27:16
修正
2017年06月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
休筆致します!



放送ご案内



18日(日) NHK FM午前6:00〜午前6:55 FM能楽堂
三余堂シテによる《頼政》の放送ご案内まで


休筆広告とは言いながら…  放送ご案内


2007年5月鵞毛庵記事 頼政
投稿日 2017年06月16日 20:58:27
最終更新日 2017年06月16日 20:58:41
修正
2017年05月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
休筆致します!



休筆広告  今年のタカネエビネ

ひっそり咲くジエビネ  休筆広告


毎日が三十度近くもなると 大分草臥れてくる三余堂と庭の海老根たち








投稿日 2017年05月12日 0:33:12
最終更新日 2017年05月12日 0:33:12
修正
2017年04月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
メンテナンスの為休筆致します


 
東芝がアメリカの原発子会社で巨額損失
三余堂での東芝製品はこれのみとなった 
  休筆致します


投稿日 2017年04月12日 9:43:06
最終更新日 2017年04月12日 9:43:06
修正
2017年03月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
メンテナンスの為休筆致します


北窓を開けて春の息吹を部屋いっぱいにしたい弥生の半ば
似て非なるものが三余堂の庭に花をつけている。


休筆広告
この季節最期の一輪となった八重の山茶花
   相変わらずヒヨドリに啄まれ続けるのは2月三余堂月並の椿の花



     
投稿日 2017年03月12日 0:29:13
最終更新日 2017年03月12日 0:29:13
修正
2017年02月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
メンテナンスの為休筆致します。
   
   
鵯 ヒヨドリと読む。
けたたましい鳴き声で、花の蜜をつついて回る ツグミほどの大きさの鳥。
咲いた椿は端から落とされ、花弁は鋭い嘴跡が無残に残る。
が、美味い花にしか寄らないようだ。
薄暗く寒い朝、気配に窓からのぞくが早いか 姿はない。
また 花がくいちぎられている。

       休筆広告



投稿日 2017年02月12日 0:10:40
最終更新日 2017年02月12日 0:10:40
修正
2017年01月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
メンテナンスの為休筆致します。

     こんな睦月の朝もあったなぁと
          霜柱の庭を思い起こす


     休筆広告
投稿日 2017年01月12日 0:42:16
最終更新日 2017年01月12日 0:42:16
修正
2016年12月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
広告

管理担当等 メンテナンスの為休筆致します

        休筆広告
投稿日 2016年12月12日 0:41:04
最終更新日 2016年12月12日 0:41:04
修正
2016年11月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
広告

  管理担当等 メンテナンスの為休筆致します

         休筆広告
投稿日 2016年11月12日 0:32:06
最終更新日 2016年11月12日 0:32:06
修正
2016年08月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
酷暑お見舞い!!

     


    銘 団十郎 張猛龍碑のウラッカワ 暑い暑いと睨んで…



張猛龍の碑は 高さが約2メートル、幅90センチ厚さ20センチ余りで碑の表は46字ごとに改行。
24行に亘り“張猛龍”を褒め称えるという定番である。
お偉いさんなのか、ご寄付が多かったのか、碑の裏はこれを建てるにあたって関与した人の
役職と氏名が12列に及び刻されている。これが碑のウラッカワである。
勿論 序列の初めの方は大きな文字でご立派な肩書が付き、お末の方は名前のみで小さく
刻されている。要するにエンドロールである。
映画などで最後に流れるスタッフの名前や、協力会社のことだ。
ほとんどの人が本編完で、終わった終わった!と席を立つ。
が、最後の最後に演出で、ひねりを持ってくることもある。 
エンドロール終了までが作品だ。

この建碑もしかり。
本編終了とともに、エンディングテーマが頭の中を流れ、いよいよ最後のスタッフロールへ進行する。
一見、大小さまざま、バラバラではあるが、見ようによっては何だか型にはまらない妙を感じる。
この人は寄付多額かぁ、こいつは親類か?しゃれた名前だなぁ…と、思いは勝手なれど
ウラッカワの刻字までが張猛龍さんの人となりを示している。
                                       何とも しっかりと見たいものだ。

 

 









投稿日 2016年08月28日 9:52:56
最終更新日 2016年08月28日 9:53:10
修正
2016年07月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
あちこち散歩ばかりでなかなか本題に近づかないが、ここいらで本題へ。
中国大陸の話。北魏の時代は唐代と並ぶほどに仏教の隆盛期であったという。
国家の方針と後援で寺院の造営や、巨大な石窟寺院がつくられ、仏教美術が花開いた時期であった。
現存する物も仏教関連のものが多いそうで、当時は老荘思想を尊び道教が盛んであったというから、
孔子様の儒教思想は肩身を小さくしていたようだ。
とは言え、いつの世にも古びたものが新しく見え、何となく惹かれる人がいるもので、北魏の孝文帝
なんぞは儒教的な礼制を採用したという。 温故知新 孔子様もお喜びとは存ずれども…
メンドクセェオヤジが云うからさぁ〜 と従ったか、やりまっしょっ、それはいいっす!と
諸手を挙げて賛同したか。兎も角 儒学復興を志す者がいたのだ。それが脈々と続いて、隋や唐の
時代以降には各地に孔子廟が造られるようになったというから、何事も目の前のハヤリ、スタリに
惑わさちゃぁおしまいよ!

張猛龍の碑は北魏時代での儒教に関わる珍しいものということになる。
西暦522年、北魏の年号だと正光3年の正月に、魯群の長官であった張猛龍を讃える為に
建てた碑である。 山東省曲阜の孔子廟に保管されているという。
保管といっても手で触ったり、拓本を取ったりと、勝手し放題だったそうな。 
それはたまらん!と、現在はケース内に収まっている由。 ほぉ〜。





  張猛龍碑張猛龍碑 風化してボロボロに… 











投稿日 2016年07月12日 17:49:39
最終更新日 2016年07月12日 17:49:51
修正
2016年06月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
今世紀になっても古代史は大きく変化する。
至る所で遺跡、古墳が出土して今までの常識が覆されていったのである。
学者の年齢層も若くなり、研究対象としての見方も変化しているだろう。
教科書では聖徳太子が厩戸皇子となったというし、改めて日本史の教科書を手にしてみないと 
何が何やら判らなくなりそうである。

シリーズ累計100万部を売り上げたという 山川出版の“もういちど読む山川日本史”がある。
高校の日本史教科書を、一般読者のために書き改めた通史で、1冊で日本の歴史の
全体像をまとめている。学界の動向がわかるポイントが別項で書かれ、最近の日本史
に対する見方が分かる優れものだ。 所謂 社会人のための日本史教科書。
取敢えず これを繰れば何とか古めかしい日本史から今風な日本史へ。
とは謂うものの 新聞の三面記事に“あれが出てきた!これが出てきた!”と掲載され
文化欄には解説やら その後の状況が記事になるなどして忙しい限りである。
自分のご先祖様のことだから 多少は力を入れて紙面に目を通すが、原始や古代の
話となるとどうも掴みにくい。

兎も角 山川日本史は古代、大和王権の成立までの頁が盛沢山。
それまでの仮説が新発見により裏付けられ、解説されるからだ。
例えば、旧石器時代の無土器文化は 1949年、昭和24年に群馬県岩宿遺跡の
調査の結果、その存在が明らかになったのだが、1990年代以後にアジアに於いての
旧石器文化の研究が進み、この文化が世界史的に見て 「旧石器文化」であると認められる
ようになったという。 
1992年、平成4 年から本格化した青森の三内丸山遺跡の調査では、縄文時代中期の
大集落で巨大建造物があったことなどが判り、縄文時代のイメージが大きく変わったことも
活字になっている。そして、農耕社会に至って 佐賀県の吉野ケ里遺跡が弥生時代の
大きな集落を示す。この遺跡発掘は1986年、昭和61年から進められた。
今から30年以上も前の発掘、発見だが、学校の教科書には載っていなかった。
歴史はすっかり変わったと、初めの一歩から踏み出さなくてはならぬ。
その後の小国が多く存在したとされる時代にしても、1970年代になり、全国各地で様々な
墳丘墓が発見され、発掘調査が進んで分かった事が沢山ある。
我国の状況は大陸の史書からも知る。 
《漢書 地理志》では倭と呼ばれた紀元一世紀前後の様子、
《後漢書 東夷伝》には 後漢の光武帝に倭の奴国王が使者を送り、印綬を与えられた等が
書かれている。
弥生時代中期、多く存在した小国は大陸との交わり豊かと考えられ、
分かれていた100余の社会が纏まって行く中で、卑弥呼が登場し、大陸の魏と通交。 
三世紀後半から七世紀にかけて古墳文化の発展となるのだ。
新しい政治支配者の姿をその文化から測り知る。

山川日本史はここから蘇我氏が台頭して、飛鳥の宮廷が登場するまでにまだ10頁ほど必要だ。
学校での教科書には太字で書かれた 卑弥呼、邪馬台国、倭の奴国王、金印、前方後円墳、
高句麗、百済、新羅… こんな文字があったような気もするが。授業で学んだかなぁ。
誠に心もとない古代史の入り口であった。
はてさて、 “張猛龍さんの建碑は日本に置き換えるといつの頃かぁ〜” と
思いを馳せて、今さら乍ら中国四千年の大陸の時代、文化の厚みの差を思い知る。







ネット回線復調につき、遅ればせながら “もういちど読む 山川日本史” を再掲載。





投稿日 2016年06月29日 10:05:59
最終更新日 2016年06月29日 10:07:18
修正
2016年05月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
北魏の建碑にはなかなか話が及ばないが、急ぐ旅路でもないので寄り道しながらぽつぽつと。

北魏が建国された四世紀末は大陸の南方、江南は貴族的な文化の花咲き始める頃だった。 
まぁ、早い話が、北方の騎馬民族に追いやられた風雅な貴族たちが、難を逃れて南へ逃げた
という事なのだが…  後漢が滅亡してから、隋の統一まで、今の南京、当時の建業(建康)に
都を移した、呉、東晋、宋、斉、梁、陳の六王朝を総称して六朝と呼ぶ。 貴族的文化である。
南の方ではごちゃごちゃと王朝が出来ても、北の北魏は北魏。 なんとかしっかりとやっていた。
これを南北朝時代といっている。間違っても、後醍醐天皇は登場しないので、念のため。
東の方の半島は、高句麗、百済、新羅、任那と互いに牽制しあい乍ら、そして、ちょっかいを
出し乍ら、東の海の向こうに倭国があるなぁ〜 なんて承知しながら存立していた。

我が国、倭国は日本書紀や大陸や半島の文書、学者の推測、そして、ロマンと夢が導き出した
事によると、倭の奴国王が後漢に遣使を送ったり、卑弥呼が魏の明帝と遣り取りがあったりと、
所謂 三国志の時代には海外との交流があったようだ。
その後、四世紀になると百済からは使者が来たり、王族が人質になって来たり、こちらは
出兵したりと、忙しく交流した。
近年、日本の歴史研究の成果で、《鎖国の国》のイメージが払拭されつつあるが、どうも
学校で習った 江戸時代の鎖国の印象が強く、古代までも海の外とはご縁がないように
思い込んでいた節がある。その一方で、晴れた日に望める朝鮮半島の近さは知っていて
当時のことを考えると、そもそも国境という認識があったろうかと、思ったりもする。 
海は現実的な毎日の生活の中で、遠い向こう岸との行き交いの隔たりであったが、上手く
いけば交流の恵みでもあった。互いの中央にまでも、政治や文化が届いていたのだから
人の力は限りなくひろがる。

そんなものの一つに 仏教がある。物部さんと蘇我さんがやり合ったという外国の宗教。
朝鮮半島の百済から倭国に伝わったという事だが、朝鮮三国で一早く仏教が伝わったのが、
高句麗。 仏教は、中国へ後漢時代にインドから伝わり、南北朝時代に隆盛期を迎えた。
ここでも 北と南の気質が反映して、仏教の性格や仏教に対しての政策などが異なっていた。
北の北魏では あくまでも国家が主体で、仏教は従。その仏教も 孔子の教え、つまり儒教や
道教が入交り、混然としていたようである。張 猛龍碑も仏教盛んな北魏の時代に 内容は
孔子さまの教えを守った話が堂々と記されている。
で、まぁそんな仏教が、高句麗に伝えられ、当然道教の教えなんぞも、かなり入っていたと
考えられる訳だ。 
倭国で仏教を信奉し、政治に反映しようとしたとされる聖徳太子として馴染みの、厩戸皇子は
高句麗の僧、慧慈に師事した。これは、当然厩戸皇子の仏教思想に影響を与えているだろう。
倭国へは、西暦552年に百済から仏教伝来ということになっている。この百済へは東晋から
高僧の摩羅難陀が伝えたという。 
当時、国づくりの為に外国の先端文化、仏教を取り入れようとした政治家の蘇我さんと、
精神的に色々と考えて 国を作ろうとしていた厩戸さんとではどこかで行き違いがあったか、
又は根本でずれていたのかもしれない。

安田靫彦展の厩戸皇子描いた≪夢殿≫を見てそなんことを感じた孟夏の午後であった。








投稿日 2016年05月16日 11:23:58
最終更新日 2016年05月16日 11:24:39
修正
2016年04月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
鮮卑族北魏の時代 紀元522年に仏教隆盛の中、儒教に関わる碑が建てられた。
処は 孔子様の生まれた魯の国。そこの長官を務めた、張猛龍さんの碑である。
碑は、ほとんどが遺徳を称えるものだが、孔子の教えを守り貫いた魯国太守の徳は
誠に偉大で、張猛龍さん本人の生前に建てられた。
1500年もの時を超え、現存する原碑は山東省曲阜の孔子廟堂に保管されている。
高さ 約二メートル、幅一メートル弱、厚さ二十センチほどの石の板に 千文字以上が
刻まれ、裏側一面にはこの建碑に功労のあった人々の官位と氏名が刻まれている。
この国の正史には名前が見当たらないという 張猛龍さん。
だが、北方の騎馬民族 鮮卑族の血をひく北魏の文字が、国の統一と共に漢族の文化に
染まりながらもしっかり、がっちりとした力強さで、張猛龍さんを今に伝えている。


その頃わが国はどんなであったのだろうか。
張猛龍建碑、紀元522年の我が国は 日本書紀や古事記で知ることになる。
ちょうど継体天皇のころ。
第26代天皇である継体帝は、507年ころから531年ころまでの在位らしい。
即位19年後の526年、大倭、後の大和国に都を定めたという。
その直後、百済から請われてあちらのもめごとに援軍を送ろうとしていたようなので、
当時、大和はしっかりと半島との外交があったということだ。そして、大陸とも通じていた。
が、大和に都をおくまで約20年もかかったということは、地域の豪族やら係累やらの間で
天皇の位、当時は大王というのだろうが、その位をめぐる大混乱があったのだろう。
『古事記』では継体天皇の没年は527年で、都を立てた翌年に死去したことになり、
没年齢は約40歳だが、『日本書紀』だと80歳余りの長寿だったそうな。

兎も角余りに古い話なので 諸説紛々、資料僅少。
当時は大陸や、半島のように、現存での同時進行の明快な記録文書類はない。
そこはあちら様の文書から、適宜よろしく判断するとして、倭の国はまだまだ混沌。
文書といっても 紙ではなく 木簡類であったので念のため。
後の継体帝が治めていた越前は、湿原が広がり農耕や居住に適さなかった。
そこで先ず、足羽山に社殿を建て大宮地之霊(おおみやどころのみたま)を祀り、この地の
守護神とした。 次に地形調査。
大規模な治水工事、湿原の干拓。越前平野に人々が定住できるようにして、港を開き、
水運を発展させて産業を発達させたという。

有能な継体帝は武烈帝の後継者に選ばれた。 天皇即位のため越前を離れることになり、
寵愛した照日ちゃんに手紙と花篭を形見として贈って出発。
照日ちゃんは継体帝を慕い、侍女とともに狂女の姿となって後を追う。
紅葉見物の行幸の列の前に現われた照日ちゃんは、継体帝の従者に篭を打ち落されて狂い、
漢の武帝と李夫人の物語を舞った。 天皇は以前、照日ちゃんに渡した花篭であると気づき、
再び照日ちゃんを召された。 そして、後に二人の間の子が安閑天皇となった… とさ。
と、能《花筐》が描いている。


その後、紀元540年頃に、あの蘇我の入鹿のひいおじいさん 稲目が
大臣に就任したのではないか、と謂われる。 欽明天皇元年のことだ。
稲目爺さん、朝な、夕なに仏像礼拝していたというが、公式に仏教が伝来したのは552年。
もっとも その頃は稲目、まだ爺さんではなかったし、張り切って倭国を何とかしようと国造りを
始めたところだろう。 その後やっと入鹿の祖父さん《馬子》の登場だ。
海外の新しい文化の仏教だ、やれ違うだろう、我が国伝統文化だろう…と 
蘇我氏、物部氏がやりあう時代へと進む。

欽明帝の頃は北魏も東と西に分かれ、それも北斉、北周となり、江南の地も梁から陳へ。
まもなく 隋が大陸全土を統一しようとしていた。
  









投稿日 2016年04月12日 14:48:38
最終更新日 2016年04月12日 14:49:08
修正
2016年03月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
「張猛龍碑」誕生を探る為に北魏という国が華北を統一するまでを無謀にも
原稿用紙二枚程度で走り抜けた。中国数千年の歴史を思うと、余りにも雑駁過ぎ大反省。
大陸は広く果てしなく西方に広がり、北にも南にも広がる。何しろ土地が大きい。
何百年も同じ政権が広大な土地を支配した時もあれば、ごちゃごちゃと訳の判らないほど
入り組んだ時期もあり、大河ドラマ“真田丸”の比ではない。

兎も角、中国王朝の中から目的の北魏を見つけなければいけない。
初音ミク嬢がネギを振り振り、元気よく教えてくれるのでそれを参考に、
後漢が滅んで魏、呉、蜀の三国に分裂したところから考える。

知られた三国志は棚上げて魏に代わるのが晋。
この晋が蜀と呉を滅ぼして一旦中国を統一(265)。
とは言え、混乱がおき晋は短期ですっかりやられていく。
この頃の大陸北方は北方で、西方は西方でパカパカと馬に乗って
駆け抜け移動する民族が肥沃そうな土地へ侵入してきた。
所謂 華北と呼ばれる中国大陸の黄河を中心としたところ。
やっとこさっとこ、晋がまとめて王朝を開いたのに、北から西からよそ様が
侵入してきて、彼らの部族単位の小さな政権がたくさん生まれる。
五つの異民族によって十六の政権ができた。
これがミクちゃんも歌っている、五胡十六国時代(316〜439)。
五胡はモンゴル系の匈奴(キョウド)、羯(ケツ)、鮮卑(センピ)、チベット系のテイ、羌(キョウ)。
十六国はこれらの民族が建てた国で、広い華北の地域は大混乱。
という次第で、似て非なる十六国の王朝名に三余堂も大混乱の為省略。
やがて、その中のひとつ北魏という国が、五胡十六国の分裂状態を終わらせて華北を統一(439)。
これで前回記事と繋がった次第。

遊牧の民族が国を建てるのだから、馬で走る走る、駆ける駆ける。
五胡同士も戦い続け、華北では農村の耕地なんぞはめちゃくちゃだ。
華北の豪族たちは農民たちを引き連れて南へ、南へと…  難民状態で逃れる。
とは言え、華北には数からして漢民族が大勢いた。多勢に無勢。何といっても数は力だ。
弱体化していく政権は吸収合併になっても、たった一人で旗振りをして頑張る残党もいる。
それらをまとめ上げるまで、着々と北魏は華北経営基礎を固めていった。

勿論 南方の華南地方に逃げずに留まった漢族の豪族勢力もあった。
経営戦略としては、それらの処遇もあるし、協力も得なければいけない。
中国全土を支配するということは 北魏が鮮卑族の国家から、民族的な差別を越えた国に
発展変貌しなければならかったということである。
                    あぁ… たいへんなこっちゃ…











投稿日 2016年03月12日 12:10:49
最終更新日 2016年03月12日 12:11:02
修正
2016年02月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
丙申の三余堂月次は「張猛龍碑」を探ってみる。
先ずはこの顕彰碑が誕生した北魏という国についてであるが、
そもそも、何時のことで、何処のことなのか。
北魏は大陸の遊牧騎馬民族が造り上げた国で、西暦の三世紀中ごろまでに
内蒙古周辺を中心として連合国家を作り上げていたという。
日本は邪馬台国の卑弥呼の時代である。が、その邪馬台国の場所は未だ確定できず。

兎も角、馬に乗ってパッカパッカとひたすら草原を行く人々をまとめていた大親分に
力微(りきび)という人がいて、彼は騎兵20万余りを率いる勢力を持っていた。
その子の世代は広い守備範囲を東部、中部、西部と分けてそれぞれを治め始めたが、
結局は、西部を治めた猗盧(いろ)という力微の次男が三部を統一した。
すると、西晋が猗盧を懐柔しようと近づいて来たそうな。
おっとどっこい、これを逆手にして猗盧は、盛楽を北都とし、大同を南都とし、
内蒙古から山西 北部の地域をほぼ領有してしまった。 要領のイイ奴は何時の世にも…
と、さもさも見てきたようであるが、二千年近くも前の広大な地のことで
何ともはや。しかしながら、大親分の力微が没して40年余り、西暦316年に
西晋が滅ぶと鮮卑族の中の有力部族だった連合国は実質的に独立国となった。

さぁて、国づくりが始まる。
西暦386年、今でいうところのモンゴル草原をがっちりした足の馬で駆け抜ける
鮮卑族の勇者がいた。名を 拓跋珪(たくばつけい)という。
この拓跋珪が諸部の酋長に推戴されて王になった。
『魏』の国誕生。三国志の魏とは別物のこの『魏』の王様 拓跋敬珪は
西暦398年 都を平城に遷して、所謂『北魏』の初代皇帝の道武帝となった。
猗盧が三部統一を果たして90年。
やっとここに張さんちの猛龍さまの国、『北魏』が誕生。

第二代皇帝の御代となると 東晋を倒して、南朝に栄えていた宋も攻撃。
お馬に乗って西へ東へ、南へ南へと、黄河以南にも進出して強大な国家となって行く〜
といった次第で、既存の北方民族から抜け出して発展していった。
遊牧の民は部族制からトップを頂くピラミッド型の体制へ移り、戸籍を作ったりして、
農耕をする定着型の生活を振興したという。漢族の専制制度を取り入れたって訳だ。
貴族なんていう階級を作って優遇されれば、悪い気はしない族長もいたはずだ。
それに、漢族もしっかり官吏として登用している。大陸はこういうところが実に
能力主義というか、使えるものはしっかり使う。
時代は下るが、帰国出来ずにかの地で官吏生活を余儀なくされた阿倍仲麻呂の
ような人がいるのは当然なのだろうなぁ…

第三代皇帝 太武帝は漢人の崔浩(さいこう)を官僚頭脳として、一方鮮卑族の勇猛果敢な
騎馬の機動力で領土を広げていった!
           そして、華北を統一してしまうのだった。









投稿日 2016年02月12日 9:49:34
最終更新日 2016年02月12日 9:49:46
修正
2016年01月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
人情味厚い張さんちの猛龍さまは家族愛に溢れ、貧しかった頃にも親孝行に励み、
27歳の時に父を、39歳の時に母を亡くした時の嘆き哀しみは大層なものだったと言う。
後に高官になった際もその性格は変わらず、民衆に温かく接し徳のある政治を行った。
そこで、当時の郡の官吏らがこの張さんちの猛龍さまの善政を讃えようと、4年の年月を
かけて碑文を練り、文字を書き、碑を丹念に彫って「張猛龍碑」という物を造り上げた。

この張さんちの猛龍さまは正史に記録がないというから、実際はどの程度のどんな人かは
判らない。彼を讃える碑の文面から推し量るばかりだが、碑が建てられたのだから
まぁ そこそこの人物であったろう。
この人、中国は南北朝時代、それも北朝の北魏時代のことで、南陽郡の白水出身という。
現在の河南省出身だったようで、遠くは周にまで遡る氏族の出という。
延昌年間(512-515)に奉朝請、煕平年間(516-518)に魯郡の太守となった…
というようなことが「張猛龍碑」に彫られている。
魯郡と聞くと孔子を思い出すが、大偉人、大賢人の孔子さまと同郷となると、それだけで
有難い人物のような気がしてくる。

張猛龍碑全影 右碑面 左碑陰   張猛龍碑 −張さんちの猛龍さま−  二玄社張猛龍碑より


この「張猛龍碑」は、北魏の正光3年(522)に彫られた地元官吏の顕彰碑だ。
六朝時代の北朝独特の楷書「六朝楷書」の書蹟なのだそうで、現在も山東省曲阜の
孔子廟内にある。が、この碑、斜めにひびが入って、下半分はぼろぼろで剥落し、
幾文字も連続して判読できないところがあるといった具合で傷みが激しい。
碑額には「魏魯郡太守張府君清頌之碑」と楷書で記されている。そこははっきりと読める。

碑文は楷書で1行46字、26行で、そこに張さんちが、いかに古い家系であるかを強調。
猛龍さまの人柄に対する讃辞を記して、張さんちと猛龍さまを讃える韻文で終わる。
お決まりの碑文というところか。孔子と同郷のこともあってなのか、時代的なことなのか
孔子やその教えに基づくものがよく出てくる。
文字は角ばって力強さや鋭さを表していて、とても特徴的だ。
当時の形なのか、現在とは文字のヘンの形が違っていたりするものもある。
少々右肩上がりで、力強い筆勢が大胆さを増し雄壮な感じだが、これは北朝時代独特の書体
なのだそうだ。ほぉ〜。


        張猛龍碑 −張さんちの猛龍さま−  碑額の拓本から

 ひょんなことで出逢った顕彰碑を丙申の歳は少し探ってみようと思う。










投稿日 2016年01月12日 21:08:37
最終更新日 2016年01月12日 21:09:35
修正
2015年12月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
師走になってやっと黄葉した銀杏の葉を温かい風が吹き飛ばす。
真夏日にならんとする気温を暮れになって経験するとは、いやはや…
湿った暖かい風が南から吹き込んで、紅い葉や黄色い葉が庭一杯になった。
レースカーテン越しの陽で神経質に管理していたシクラメンの鉢は 
最近すっかり庭に出され、鮮やかな落ち葉に埋まりながら蕾をのぞかせている。


同様にすっかり四季を通して屋外の鉢物になったのが、シャコバサボテン。
一時は、どの家でも見事な花を付けて冬の窓辺を飾っていた。
シャコバサボテンはブラジル原産の多肉植物。
丁度、今頃開花するサボテンの一種で、1800年代半ばにブラジルで野生種から作られた。
日本では明治時代から栽培されていたそうで、人工的な園芸種である。
丈は20〜50cmにもなる。開花期は11月ごろから翌年の寒いうちだ。
よく似たものにカニバサボテンというものがある。これは葉のような、茎のような
茎節の縁が丸く、突起のあるシャコバとの見分けは容易につく。
花は似たようなもので、それらを交配させて、多くの品種が誕生したという。
シャコバサボテンの名の由来は葉の形が海にいるシャコに似ているからだそうだ。
茎の節ごとに一対の突起があって、これがシャコを彷彿とさせるというが はてさて如何に。
命名された頃はシャコに馴染があったのだろう。寿司ネタには必ず登場していた。

この鉢花、いつの間にか、クリスマスカクタスと呼んでいることに気づく。
クリスマスの時期に咲く花の名はこの方がふさわしい。が、デンマークカクタスとも
表示されている。近年はデンマークで改良された品種が普及したことによるらしい。
クリスマスでもデンマークでも、カクタスというのはサボテンという意味だそうで、
健気に暑さ寒さを庭で耐える鉢はたくましい限り。弛みない品種改良の賜物だろうか。
5℃以上あれば越冬は出来るというから、昨今の温暖化は年間を通して庭での生活を
快適にしているのだ。複雑な気分である。



シャコバサボテン



元々が人工種だからだろうか、環境の変化に弱い性質があった。
一度置き場所を決めたらなるべく移動させないようにと気遣い、室内の明るい窓辺、
しかもレースのカーテン越しの光を当て、夏は日陰で管理し、水やりを控え、
液肥で管理し… 誠に繊細な管理であった。
今やシクラメンも庭で毎年咲き続け、多分シャコバの名で売られたであろう鉢植えは
三十年以上の仲間となって玄関先を彩っている次第だ。








投稿日 2015年12月12日 8:35:37
最終更新日 2015年12月12日 8:35:37
修正
2015年11月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
          七五三
保育園の子供たちのお散歩時間。
歓声を上げて、どんぐり拾いかな。
11月15日が本来七五三の祝い。
今やパパ、ママの仕事は勿論、
ジジ、ババの御用の都合で9月末から始まる七五三祈願。
15日当日のお参り家族はとんと見かけなくなった。
今年の暦は先勝、日曜に当たるのでさぞ華やかなことだろう。
前年末に氏子へ配布される神社の暦によれば、この『七五三』は

三歳、五歳、七歳の児童の祝い。
一般には男児 三歳と五歳。女児は三歳と七歳で、11月15日に晴着をまとって
氏神に参拝し、無事成長を感謝し、祈願する。
古来、男女とも三歳になると、それまで剃っていた頭髪を延ばし始める 
「髪置」と呼ばれる儀式を行った。
また、五歳の男児は「袴着」という、初めて袴を着用する儀式があり、
七歳の女児は「帯解」という、着物の付紐を取り、帯を使用し始める儀式があった。
年齢や性別は、時代や地域によって異なっていたが、一般には三歳、五歳、七歳となって
おり、7、5、3という数字は昔からお目出度い数とされており、この年齢に当てはめて
生存が危ういという幼児が無事に成長していくことを願い営まれてきた。
また、今日のように11月15日という祝い日になったのは、
本来吉日ではあるが天和元年に五代将軍徳川綱吉が子の徳松の祝儀をこの日に行い
氏神様にお参りしたことから全国に広がったとされる。

と、あった。

ほほっ〜  おペット様の七五三祈願もある昨今。
なれば、11月15日にこだわらずとも皆さまの御都合宜しきときに〜
何だかんだと云っても、子供の無事な成長は切実な、切実な、
親の願いなのである。









投稿日 2015年11月19日 9:47:20
最終更新日 2015年11月19日 9:47:20
修正
2015年10月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
江戸時代になると農民は自律的な行動変革が進んだ。
というと 実に大げさである。まっ、サツマイモなんぞの新しい作物が
入ってきて、食物の生産性はあがるし、食生活は充実向上するし、
経済活動だって盛んになって… みんな やる気になってきた。
大分以前の三余堂月次で触れたことがあるが、木綿の普及が
衣服やら寝具の改善をもたらした。家の構造だって礎石を置き、畳を敷く
なんていう生活が一般的になると、清潔な生活というものが待っていた。
こうなると、ぐっと、生きやすくなってくる。そもそもそ、ヒトという生き物は
多産を可能にする潜在的な生産力があるそうだ。
食生活の安定や衛生面の改善は世界共通で、死亡率も下げている。


江戸幕府が全国人口調査、つまり徳川版国勢調査ということを1721年に
行ったそうだ。 その時の人口は3,128万人。これが多いか、少ないかは兎も角、
江戸幕府開設直前の1600年には人口1,227万人という数字が、はじき出されて
いるというから、結構な人間が徳川の世での生活を謳歌していた。
この百年余りの人口増加率は、僅かとは言え、産業革命後のヨーロッパの
人口増加率より多いと云う。

ところが、江戸時代も後期になると状況一変。
もう明治になろうとする、1867年には多くても3,383万人だったという。
1721年からの増え方のことを思うと、人口はそう増えていないようだ。
なんと、1792年には2,987万人までに減っていた。
1732年西日本では享保の大飢饉、1742年には隅田川、利根川の堤が決壊。
1772年に明和の大火災で、死者が14,700人も出た。1782年頃からは天明の
大飢饉、浅間山も噴火するといった次第で、江戸は大火や開幕以来の大水害に
みまわれ、京都も火事で御所まで炎上したというから、列島大災害の状態に
あったのは確かである。おまけにコレラの流行も大地震も繰返している。
この頃の人口増減には地域差が有り、西日本、北陸、中部の地方では増加し
東北、関東地方は冷害などによる飢饉で人口減少したという。
この1792年は、漂流してロシアにいた、大黒屋光大夫がロシア使節の
ラクスマンと根室に着いたという年で、通商を要求された幕府としては
“こっちこないで〜”と、外交?に頭を悩ましていた頃でもあった。
そんなこと言わないで 海外との経済活動で国内問題を乗り切るっていう
活路があったかもしれないが…  一応 鎖国政策中で。

まぁまぁ何とかなって、その後は緩やかに人口は増加をし、明治期になると
本格的に右肩上がりに増加を始める。
人口は大きな増加、そして停滞、減少。そして再び、増加に向かう。
案内望遠鏡で紹介の『ヒトはこうして増えてきた』(新潮選書)の如く、そんな
増減がこの列島でも、縄文時代と弥生時代にみられ、14世紀から15世紀に
又その波が始まり、18世紀末に一段落。 そして、又人口増加の波が始まった。
ここでも 農業から工業へと社会の変革が一人当たりの所得を増して、人口の
転換の基盤をなした。 そして、現在は少子高齢という渦に飲み込まれている。


今年はこの人口の状況を把握する年となった。国勢調査である。
国勢調査とは、総務大臣が国勢統計を作成するために、≪日本に居住している
全ての人、及び世帯≫ を対象として実施され、国内の人口、世帯、産業構造などの
調査を基本的に5年ごとに行うものである。
第1回国勢調査は1920年(大正9年)に実施され、今年は第20回目の調査だ。
そして、初めてネットでの調査が行われた。
情報漏れなどのこれといった面倒がなければ 非常に簡単便利。
はてさて、早速利用はしてみたものの結果は如何に。







投稿日 2015年10月12日 0:01:26
最終更新日 2015年10月12日 0:01:26
修正
2015年09月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
消えた記事を掘り起こしながら原稿を遡ると、ほぉ〜 そんなことがあったか…と
興味津々、読み入る。
五年もたてば配信されていたドラマなんぞある訳もないが、最近は何でもかんでも
ネットにあがり、日本語の字幕に拘らないなら、色々と見ることが可能だ。
2010年に動画サイトギャオで、『臥薪嘗胆』なる中国ドラマを配信し始めた時の
九月の『三余堂月次』は、高額製作費を掛けての充実した中国の大河ドラマが
発端であった。この話は三国志などと同様、手堅く視聴率が取れるのであろうか。
幾種ものドラマ『臥薪嘗胆』は制作されていて、2010年以降もいろいろな
『臥薪嘗胆』を見た。 ドラマとはいえ、大筋は歴史通りであるから、結局数回も
見ると終了なのだが…   


中国春秋時代。紀元前500年頃の大陸。中原では覇権争いが繰り広げられていた。
そんな中に勢力を強める呉(ご)の国、一方、弱小の越(えつ)の国。
この二国間の争いに由来する、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)という成語がある。
「嘗胆」のみならば『史記』の越王句践の話に、「臥薪嘗胆」と揃った形の語は
14世紀前半に成立した『十八史略』に登場。
臥薪嘗胆とは、復讐の為に耐え忍んで、成功の為には苦労に耐えるということだが、
紀元前5世紀の出来事による この成語は明治時代の日本で、三国干渉が発生した時に、
ロシア帝国に復讐するために耐えよう! という機運を表すために盛んに使われたらしい。

そもそも越は、春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国で、会稽を都とした。
当時、越の人々は断髪で、上半身は裸で入れ墨をしていたという。
銅の生成に優れていて、2500年もたって出土した銅剣は、表面が硫化銅の皮膜で覆われ、
錆の無い状態であったそうだ。

越の太子勾践(こうせん)が 紀元前496年に父の後を継いで即位した。
すると、呉王がその報せを受けて越を攻めたが敗死。
それまでにも、呉と越は何かにつけてがたがたとしていたわけで…
呉王を継いだ夫差(ふさ)は報復の準備を整える。 
すると、事を憂えた勾践は、先手を打って仕掛ける。  何とかの連鎖である。

越は大敗し、滅亡寸前にまでなった。が、勾践は謝ってしまう。 た・す・け・てぇ〜
そして勾践は呉で使用人として労働をする等の苦渋を味わう。 が…  越王勾践
呉王の夫差が中原で諸侯との会談に出かけている隙を突いて呉を攻めた!

越は呉への復讐心で着実に力を蓄えていたのである。そして紀元前473年に呉を滅ぼした。
勾践は、中原の覇者となる。勾践になにかと進言した知恵者は 范蠡(はんれい) といった。
この范蠡はなかなかの策士で、呉王を籠絡するために手塩にかけて仕込んだ
西施という美女を呉へ送り込んだりもした。
しかるに勾践は 天下を取ったのも范蠡あったればこそ。
するとこの范蠡 さっさと職を辞して陶の地で、朱と称した。 よんで陶朱公。
中国の伝説的大商人、巨万の富を得たという「陶朱公」である。
                  今でいえば起業家というところか…

紀元前465年、勾践没。
その数代後、越は楚に滅ぼされ、楚もまた秦に滅ぼされる。


伝え聞く陶朱公は勾践を伴い。会稽山に籠り居て。種々の知略を廻らし。
終に呉王を亡ぼして。勾践の本意を達すとかや。      
しかるに勾践は(ナ)。 ふたたび世を取り会稽の恥をすすぎしも。 陶朱功をなすとかや。 
されば越の臣下にて。 政事を身に任せ。 功名(こうめい)富み貴 (たっと) く。 
心のごとくなるべきを。功なり名遂げて身退くは天の道と心得て。
小船(しょおせん)に棹さして 五湖の煙涛 (えんとお)を楽しむ。           【船弁慶】


    

能 船弁慶で、義経と静御前の別れの場面での詞章にもでてくる 勾践と陶朱公。
    義経の身の処し方を例えているわけで…

陶朱公 范蠡は 蜚鳥尽きて良弓蔵せられ、狡兎死して走狗煮らる、として越を去った。  
つまり、飛んでいる鳥を射尽くせば、良い弓も蔵に仕舞われ、用はなく、
すばしっこい兎が死んでしまえば、どんなに良い猟犬でも不要になり、煮て食われる。

              要するに、引際は誤るなよ! と言っている。











投稿日 2015年09月12日 0:47:35
最終更新日 2015年09月12日 0:47:35
修正
2015年08月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
案内望遠鏡で ALOHA〜 と書いたからその勢いでアロハオエ〜 という訳でも
ないが、知人がさも披露したそうにアロハオエ〜と口ずさみ、ウクレレを抱えた
ポーズをとる。学生時代に取った杵柄らしいが、ボケ防止に始めたそうだ。 
“アロハオエ” は何といっても、ハワイアンソングの定番である。 が、何故か
昭和の香りたっぷりのハワイ感とでもいうか、少々古めかしさをおぼえる。


誠に雑駁乍ら、ハワイ諸島へ南国マルケサス諸島からカヌーでやってきた人々が
住み着いたのが、6世紀から8世紀頃らしい。 その後百年余り…
1778年にイギリス人のキャプテン・クックがハワイに来航。 これが契機となって
白人との接触が始まったという。  その頃、三人の王様がハワイを治めていたが、
カメハメハ1世が、白人の持ち込んだ銃器を駆使して、ハワイ諸島を統一。
ハワイ王国を作ったのだそうだ。
これが、1795年だというから、あの“おろしや国酔夢譚”の大黒屋光大夫が
日本に帰った頃で、北方にロシアの船がやって来ては、何じゃかんじゃと幕府を
刺激して“鎖国でござい!”と、も言っていられなくなった時期である。

カメハメハ2世の治下1820年頃、多くの宣教師がアメリカから移住して、
キリスト教文化がハワイに定着していった。この頃に讃美歌の影響で、
メロディーのついた ハワイ語の曲という、新しい音楽ジャンルが生まれた由。
一方、アメリカ人はプランテーション農場のために、土地の収奪もはじめたという。
カメハメハ3世の時代ともなると、否応なく、西洋の文化を取り込むようになり、
文字のなかったハワイ語は、アルファベットで表記されるようになったというから
当然、王族は当時の最先端の西洋教育を受け、他国との対峙に備えていった訳である。

当時の日本近海は捕鯨船の往来が盛んだったので、我国は北方どころか、
浦賀にもイギリス船は来るし、常陸にも薩摩にも船員が上陸してくる有様。
周りが海の島国は何処も 外からの刺激に向き合わなくてはならない。
そこで江戸幕府は取敢えず、“異国船打払い”の令を出す。
これは、外国から来た船に “どうぞ、目に映らない処へ行って下さ〜い” と、
海に向かって叫んでいた感じである。

西洋文化を受け入れていくカメハメハ3世。
彼が編成したロイヤルハワイアンバンドというのが、今日まで続き、現在は
ホノルル市の職員待遇楽団なのだそうだ。180年の歴史となる。
それまでは 単調なリズムの詠唱だったものから、ピアノ、ギター、ウクレレと
弦楽器が音を作っていった。 カラカウア王朝では宮殿内に造られた専用の音楽室で、
日常的に音楽会が催されたという。
現在、ロイヤルハワイアンバンドの定番はハワイ州歌 『ハワイ・ポノイ』と
『アロハ・オエ』。
そう、知人が披露したい『アロハ・オエ』  それは
ハワイ王朝最後の君主リリウオカラニ女王の作品なのだそうだ。

谷に降り注ぐ大粒の雨  森の中を流れゆく  
谷の花アヒヒ・レフアの  つぼみを探して

さようなら貴方 さようなら貴方  木陰にたたずむ素敵な人
別れの前に優しい抱擁を  また会えるその時まで

                         アロハオエ〜



















投稿日 2015年08月12日 0:07:48
最終更新日 2015年08月12日 0:08:06
修正
2015年07月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
観光都市世界ランキング1位は『京都』 というニュースはまだ耳に新しい。
東京も海外からの旅行客は相も変わらずで、過ごし難いこの季節をものともせず
買い物に忙しそうである。 外貨獲得 有難し有難し、という事か。
先日、銀座で、ウィンドーにへばりついてカメラを覗き込む西洋人の若者を見た。
 “君ィ、そこ高いから〜” と言ってやりたい気がした。一所懸命、学業の傍ら働き
貯めてきたんだろうなぁ と、我ながら、少々古めかしい感覚に ニタッ!として
地下鉄の階段を降りた。


今から ざっと百七、八十年前になるが、日本に憧れてやってきた人がいる。
所謂 文化文政から天保といった時代で、結構、日本近海は潮流の具合で
漂流民が海外へ出たり、来たりと、社会貢献することになる。
そんな中に一人の若者がいた。子供の頃、日本人漂流民に出会った少年、
ラナルド・マクドナルドは、英領時代のカナダで生まれた。 1824年のことだった。
どういう訳だか、この人、親戚のおじさんだかおばさんに、
“お前の祖先は日本人なんだよ!”と言われて その気になっていたらしい。
尤も、彼は毛皮商だったスコットランド人の父と現地人の母との混血で、それなりの
苦労と共に未知の世界への憧れという、お決まりの道が、日本行きを企てたようだ。
1845年、ニューヨークで捕鯨船プリマス号の船員となっていざ、日本へ。
勿論 密航である。 “鎖国する謎の国が 僕のルーツなんだ!”
“日本語や日本の事情を学び ベンチャービジネスの機会を!” と思ったか、
なかなかの覚悟で やってきた。

1848年6月、単身ボートで日本に上陸。母船の船長は、正規の下船証明を与えたという。
不法入国では処刑、が、漂流者なら…  ということで、利尻島に上陸。
ここに住んでいたアイヌ人と10日ほど暮らしたが、その後、拘留されたり、密入国の疑いで
宗谷、松前、長崎へと送られた。 疑いなく密入国なのだが…
ここで、1849年にアメリカの軍艦で本国に帰還するまでの約7ヶ月間を過ごしたという。
マクドナルドは、聞き覚えた日本語を使うなどのアピールが功を奏したのか、長崎奉行は、
オランダ語通詞14名を彼につけて英語を学ばせた。その中の一人、森山栄之助は、
彼から本格的な英語を学んで、阿蘭陀語、英語が使える通詞となった。
何せ、それまでは捕鯨船の漂流民の話し言葉や、阿蘭陀訛りの英語学習であるから
“しっと だうん!” の域を出るとは思えぬ。マクドナルドが最初の英語を母国語とする
英語教師だった。 森山はさすが、通詞の家柄、幼少期から特別培養されて、語学で
御奉公すべく教育されてきただけの事はあり、結構 上手かったようである。
嘉永7年(1854年)のペリー再来航の首席通詞を森山栄之助は務めている。

マクドナルドは、当然乍ら、観光都市世界ランキング1位の『京都』を見物をすることも
なく、長崎に入港していたアメリカ船に引き渡され、そのままアメリカへ。
帰国後は日本の情報を米国に伝え、後のアメリカの対日政策の方針に影響を与えた
という。アメリカ史ではかなりの重要な人物として、研究や紹介の書籍が公刊されている
そうだ。三余堂にとっては、教科書に名前があったかどうだかも定かでない人物だが、
ペリーはきっと、彼からの情報を分析しているのだろう。

帰国後はそれこそ、起業し、世界へ航海したという。
人生最後の言葉は、「さようなら my dear さようなら」だったというから、
ラナルド・マクドナルドはそれなりの満足な日本生活を送ったのだ。








投稿日 2015年07月12日 16:08:21
最終更新日 2015年07月12日 16:08:40
修正
2015年06月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
消えた記事の掘起し  2011-05-12 三余堂月次から



面白人物伝ではないが、業平に続いては明恵上人。 
たまたま 【明恵上人 その生涯と足跡…、】というYouTubeに突き当たった。
この動画、郷土の誇りとばかりに明恵上人を町興しに担ぎ出した。
と、そんなところだろうか…  上人は、和歌山県有田川町が出生地。
有田川町は吉備町・金屋町・清水町が2006年に合併して出来た町で 
有難くも上人は金屋町の歓喜寺の生まれという。 なんたって国道480号にある道の駅は
明恵ふるさと館 と命名されている。
明恵上人 両親とも藤原氏の系図の何処かに名前がある家柄。
お父上はあの後白河法皇の子、高倉上皇さんとこでお勤めだし、お母上も土地の有力者の娘。
そりゃぁ それなりに身分はしっかりしていた。が、数えで九つの時に両親をなくす。
翌年、高雄山神護寺で叔父上の上覚さんに師事。つまり、寺に預けられたって云う訳である。
これが1180年のこと。
高倉上皇から安徳天皇へ交代した年で、平家の雲行きが妖しくなっていく。
源頼政は平氏討伐のため挙兵するも、宇治平等院で敗死。  以仁王の命で源頼朝挙兵。
富士川の戦いで平氏は敗走。 黄瀬川では世にいう 黄瀬川の対面 で義経と頼朝対面。
仏御前って平清盛の寵愛を得た白拍子が亡くなったということになっているのもこの年。
それぞれ 能の題材でも御馴染。治承4年のことであった。

16歳で出家した明恵上人はあっちで学び、こっちで学びと学僧人生まっしぐら。
20代では山にこもったり、修行したりと 難しい教学を
修められ… 紀伊国内を転々と御生活。 
そうこうしているうちに天竺へ渡って 仏跡を巡礼しよう!
そんなことを企てるも、病気のため断念。 
3年後の1205年、再度 挑戦。 
が、藤原さんの氏神様である、春日明神のご神託でまた、また断念。

何たって、春日野あたりが、一面に金色の世界になり、八大竜王が百千の眷属(けんぞく)を
引き連れ、他の仏達も会座に参会し、御法を聴聞する。  ぅわぁ〜すごっ  と大感激。
         「これまでなりや明恵上人、さて入唐は」  「止まるべし」
         「渡天はいかに」  「渡るまじ」
         「さて仏跡は」  「尋ねまじや」
上人、入唐渡天を思い止り、竜神は姿を大蛇に変えて、猿沢の池水をかへして失せにけり!
と、能 春日龍神 の題材に。


その頃、大陸ではチンギスハーンがモンゴルを建てた、1206年。 
後鳥羽上皇より栂尾山を賜わり、高山寺を創建して華厳の教学に励んだという。
それらを判り易く、工夫をしたというが、なかなか自らは戒律に厳しかったそうな。
法然、親鸞、道元などの鎌倉新仏教の時代。 明恵もまた、「仏陀の精神に帰れ」との思い。
院政から武士の家の誕生、そして鎌倉幕府の政治へと、社会の大きなうねりの中で
浄土宗を開いた 法然の『選択本願念仏集』に対して、『摧邪輪』 を著したりしている。
内容は難しいので、専門家にお任せするとして、 1221年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して
討幕の兵を挙げた。世に云う承久の変。この時、上皇方の敗兵をかくまったとも云う。 
それが縁で、北条泰時との交流もあったらしい明恵上人。 なかなかのご人脈…   。

白洲正子著 『明恵上人』<講談社文芸文庫>、を手にするも良し。

1232年 耳順、自分と異なる意見を聞いても反発しなくなると孔子は云っている。  
寂、享年60。







投稿日 2015年06月12日 0:35:09
最終更新日 2015年06月12日 0:35:09
修正
2015年05月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
消えた記事の掘起し  2011-05-12 三余堂月次から

常用漢字の画数8画に「典」という字がある。テン、のりと読む。
典子とかいて、のりこをテンコちゃんと愛称で呼んだりするのは、その為で、
名前でとしては他に、みちこ、ふみことも読む。
源氏物語の桐壺は典待(ないしのすけ)だったが、おき、すけ、つかさ、つね、などとも読む。

この「典」は 基本となる書物のことを表していて、その大切さを言っているという。
「古典」とか「経典」の「典」で、基準となる教え。転じて、原則。 
そうなると、「典型」や「典範」という言葉が思い浮かぶ。 ずっしっと重みを持った、基準となることを示しているのだ。
読みに「つかさ」とある如く、つかさどるという意味もあって、職務として仕事をあずかる。
時代劇チャンネルでは徳川家、上様のお脈を取る特別上等の医者が登場。
御典医である。 この典医、如何に重職か…
一方、大陸では君主の衣服をつかさどる官職を「典衣」といった。 衣服係だ。
その典衣が衣服を質に入れる意味に転移か?
もっとも今現在、典衣が質入れとしての意味で分かるか。 わからねぇなぁ…

だいだい この文字「典」をじぃっと見ると、上の部分が冊という字。
この字は竹簡の形を描いたもので、竹礼に書いた物が紐で綴られた形だ。
木簡や竹簡は紙が普及するまでの書付物だったから、要は書物を示す。
では下部は。 当然それを載せる台、机ということになる。
机の上に本が置いてある。乱雑に埃に塗れていてはいけない。
整然と、恭しく、鎮座ましまして…  そんな書き物が 「典」 というわけである。

以前 よめねぇやつは 辞書をひけ!と文字を読むと題して記事を書いたが、
この辞書と辞典、字典に字引、違いはなんだと手繰っていく。
う〜むと唸りながら  はたまたう〜む。  
そんな折から、《岩波国語辞典》の編纂に関わられた水野静夫先生の近著《曲り角の日本語
》岩波新書 でその違いをよく識るところとなり、本題の日本語については 溜飲を下げたり、感心したり、はたまた、にやにやとしながら頁を繰る。

辞書の件、荒っぽく言えば同じことで、と先生の言。
電子辞書はさておき、ともかくも手元の字典の埃を払い机上に鎮座願い上げ!



投稿日 2015年05月12日 9:35:39
最終更新日 2015年05月12日 9:35:57
修正
2015年04月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
能 『小袖曽我』のほかにも 曽我物語を題材としたものが色々とある。
尤も、流儀によって現行曲だったり、廃曲だったりと様々だが、取敢えず
現在の五流が揃って上演曲としているのは『小袖曽我』、『夜討曽我』。
他にも 『禅師曽我』 (観世流、宝生流、喜多流)や、『調伏曽我』 (宝生流、金剛流、喜多流)がある。
廃曲になったという切兼曽我だの、伏木曽我だのというのがあったようで、
いかに当時はこの話が好かれていたかと、窺い知ることになる。

鎌倉後期から室町期にかけて成立した『曽我物語』の普及で、幸若舞では 『十番斬』や
『和田宴』(わだのさかもり)、などという題名演目がある。
能と同じ、『小袖曽我』、『夜討曽我』などの曲名もあるようだ。
幸若舞は室町時代に多いに流行った語りを伴う舞の一種で、能の原型とも謂われている。
故に、曲名が同じでも当然な訳で、能でも曽我物を盛んに作ったのは頷けるというものだ。
この幸若舞は 巡り巡って現在は福岡県のみやま市というところの民俗芸能として現存している。
当然乍ら、浄瑠璃でも曽我物はあったが、とくに江戸期の歌舞伎では、最初の作といわれる
『曽我十番斬』(1655)以来、曽我物が大当たりとなったそうである。
仇討物の曽我物語は、当時の朱子学文化としては受容されても当然だ。
正義感溢れる、若く美しい弟の五郎を市川団十郎が荒事の演出で市川宗家の芸とし、
年頭の吉例となったのである。享保(1716〜36)以後の初春舞台には必ず曽我狂言を上演。
この慣習が明治初年まで続いたという。

現在は 兄弟と工藤祐経が初めて顔を合わせる「対面」の場が、一幕の『寿曽我対面』として
上演されている。初春は勿論だが、祝儀の興業にはよく出る演目で華やかさを添えている。
忠臣蔵もそうだが、いろいろな歌舞伎の作品に曽我兄弟の物語設定がないまぜになっていて、
『助六』『矢の根』なぞもその例で、いかに庶民に広く浸透していたか、と、ここでも知らされる。
富士山が大爆発した宝永年間、江戸城下も灰で埋まる大災害になり、壊滅的となった。
それは富士の裾野で死んだ曽我兄弟の祟りであると、曽我兄弟を祀り、霊を鎮めるということで
曽我物を歌舞伎の舞台に出したという。

兎も角 曽我兄弟が好きなのか、曽我物語が面白いのか、そのうちに曽我兄弟とまったく関係なく
初春狂言は 曽我云々とならずば… とばかりの曽我物が増えたとか。
能も歌舞伎も、機会があったら幸若舞も曽我物を見比べるのもまた 一興。





三余堂 4月12日 観世九皐会例会で 能 『小袖曽我』を勤める。


投稿日 2015年04月12日 0:07:19
最終更新日 2015年04月12日 0:08:32
修正
2015年03月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
この時期 目はくしゃくしゃ、鼻はずるずると苦しむ御仁には森林破壊の王ギルガメシュの話に
出てくるレバノン杉はぞっとしない話だろうか。 が、しばし 一くさり。

今は海抜1000メートル以上の乾燥したレバノンやトルコの地中海沿岸の山地に
わずかに生息するというレバノン杉は、実はマツの仲間である。
とても硬く、腐りにくい材質は船材やマストには最適であったという。勿論 街造りには必須である。
聖書で香柏と記しているが、それはそれは良い香りを放ち 神殿の中を芳しい香りで包む、
神と向き合うには格好の内装材だった。
古代の王は宮廷の壁から床、そして天井にいたるまで、香柏の板で貼りめぐらしたという。
その為にどれほど大勢の人を伐採の為に駆出しただろうか。そしてどれほど夥しく伐採しただろうか。
人口も増え、文明が花開いた地の希少な芳しいレバノン杉。
その杉の木は、現在のレバノン国旗の中央に描かれている。
地中海東岸のレバノン山脈から小アジアにかけて広く分布していたのに
シュメール人の時代にはほとんど切り尽くされていたらしい。
森林資源の乏しさからメソポタミアの地はインダス川流域からも木材を輸入していたという。
その下流地域も今は枯渇しているそうな。
人の欲望はその自然を、徹底的に壊し、その美を消して行った。

そう、5000年前にすでに、自然破壊の問題が起こっていた。
人間が文明を発展させれば、必ず自然を破壊する。
森を破壊しなければ生きていけなかったのだろうか。
ギルガメシュ王は大きくて、立派な街を造る為に木材が欲しかった。そこで、森に木を採りに
親友のエンキムドゥという勇士と旅立った。
祟りがあるから止めろという制止を振り切って いざ 往かん!
ギルガメシュとエンキドゥはレバノン杉の森にやってきて、その美しさに呆然とする。  が、前進!!
森の神フンババが物凄い形相で待構え、森を守るためにギルガメシュ等と闘う。
結局 森の神はエンキムドゥに殺され頭を切り落とされた。

レバノン杉の森の神 フンババを退治しなければ 人は生きていけなかったのか。
美しさに息をのんだ あの森とともに生きる道はないのか…    
「もののけ姫」ではアシタカが自然との共生で苦悩した。
フンババがシシ神、「たたら場」のエボシ様はギルガメシュの友エンキドゥ。
ギルガメシュとエンキドゥとフンババの物語は、宮崎駿の手によって長編アニメーション
「もののけ姫」になって警鐘を鳴らした。 
梅原猛は戯曲「ギルガメシュ」を書いた。
前の猿之助丈が芝居にするべく奮闘したが、日本で陽の目を見ることはなかった。
「もののけ姫」公開の前年 1996年に北京で翻訳されたものが上演。大盛況の由。

『この森を破壊し、ウルクの町を立派にすることが人間の幸福につながるのだ』と 信じたウルクの王。
人間が森を破壊し征服した、最初の記念すべき出来事を ギルガメッシュ王は成遂げた
                                                    と、いうことになる。









投稿日 2015年03月13日 15:56:02
最終更新日 2015年03月13日 16:02:21
修正
2015年02月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
今年の旧歴で正月元日は2月19日の木曜日になる。
中国では最大のイベント、春節で、近年は中国からの観光客が
銀座通りに買い物に繰り出す。観光バスが列をなして買い物帰りの
客を待つ。 富裕層の家族なのだろうか、老いも若きも子供も手に一杯の荷物だ。
あぁ 春節の休暇か…

太陰暦の時代は日本も、年越しをこの日に設定していた。
まっ、江戸時代までは今頃が正月の陽気だった訳である。
江戸幕府の公式な正月行事として『謡初』 うたいぞめ というのがあった。
徳川家では、徳川家康がまだ、岡崎城にいた永禄の初め頃 既に、『謡初』は催されていた。
武家の正月の大切な行事として、定着していたということだ。
江戸幕府になってからは、徳川家の謡初めを踏襲した形で、観世太夫が出仕して行われた。
徳川家光の時代になると 観世太夫と、北七太夫(後の喜多)の両人が勤め、
寛文三年以降はその両太夫と、金春、宝生、金剛の各太夫の輪番出仕となった。 
  
謡初めの儀式はまず、観世太夫が平伏したまま 能「高砂」の一部分 「四海波」を謡い、
続いて「老松」、次にその年の輪番太夫の「東北」、と新春に相応しいめでたい曲を披演し、
そして、最後に喜多太夫が「高砂」という順に勤めた。
なかなかの豪華なメンバーで 春を寿ぐ。居囃子という形式で、能のように装束を付けた
扮装をせず、舞うこともせず、謡に囃子が入るという形式である。
その居囃子の後に、事前に徳川家からの拝領の白い綸子の時服で 当日出仕した三人の
太夫が弓矢立合という、特別な舞を合舞いした。 毎年 新品の装束を誂える訳である。
この謡初の儀式が済むと、将軍が自ら肩衣を脱ぎ、観世太夫のみに与えたという。
徳川幕府の「謡初」に臨んだ 居並ぶ諸大名も将軍に倣って肩衣を与えた。
年初の大切な「四海波」は観世太夫の担当であったことからも 徳川幕府下でいかに
観世の地位が優位であるかを知ることが出来る。
ちなみに肩衣は後日、金子と交換するという慣習だったということで、
扶持米が幕府から出ていた 能役者にとっては、お年玉… とでもいうことだろうか。

現在年初の初会などで演じられる「翁」は、謡初めでは謡われなかった。
「翁」は能とは元々異質で、あくまでも神事ということで別格だったのである。
さて、江戸幕府の公式行事の『謡初』は、家康が岡崎時代と同様、正月二日に
行われていたが、後に、時の将軍徳川家綱の生母が承応元年、1652年12月2日に
没した為、忌日の2日を避け、以後の謡初は正月3日に変更され、そのまま固定したという。
丁度 今でいうと、二月下旬の幕府にとっては大切な行事 「謡初」であった。








投稿日 2015年02月13日 16:50:14
最終更新日 2015年02月13日 16:50:29
修正
2015年01月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
大げさ乍ら、時の世を映し出す鏡とも云える落書きの話を昨年末に掘り起こした。
法隆寺の落書き話のついでを少々。
気ままに書かれたと思われる落書きだが そこに書かれた“難波津の歌”。
これは古今和歌集の仮名序で 紀貫之が紹介している歌である。

難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花

古くから手習い始めの歌として知られてきたことは以前の記事で書いたが、
紀貫之は仮名序の中で
『難波津の歌は 帝の御初め也。おほささぎの帝 (仁徳天皇) 難波津にて 
皇子ときこへける時 東宮をたがひに譲りて 位につきたまはで三年になりにければ 
王仁といふ人のいぶかり思ひて 読みたてまつりける歌なり』

と記していて、仁徳朝に 百済から渡来した王仁(わに)が詠んだ歌なんだとさ!
と紹介している。
王仁は 応神天皇の時代に論語や千字文を伝えた人物ということになっていて、
名前だけは何となく知っているが、この話はあくまで伝承。
王仁に関しての記述が存在する史書は古事記、日本書紀、続日本紀で、
日本書紀には百済からの使者を介して、来朝したという。
古事記には論語、千字文、つまり、儒教と漢字を王仁が伝えたとしているわけだ。
ところが、『千字文』は王仁の生存時はまだ編集されていない!
まっ、古事記編纂の時、複数の帰化した学者すべてを王仁先生が背負ったと解釈
しておこう。

そもそも此の歌は応神天皇の崩御後、まぁ 事情や思惑はあれど、
菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)と、大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)が
互いに皇位を譲り合って、天皇が3年間も空位となっていた。 
後に大鷦鷯尊が即位して、あの前方後円墳でおなじみの仁徳天皇となった際に、
その治世の繁栄を願って詠まれた歌とされている。
仮名序で手習ふ人のはじめにもしけるの如く、古来書道の初学として親しまれて
いたということは この難波津の歌が当時の難波曲(なにわぶり)というもので、
民謡のようなものだったのではないか、との指摘があるとか、ないとか… 
王仁云々は後からのおまけで 皆に親しまれていた歌ということだろう。

寺社建築に関する研究の第一人者で、法隆寺落書きの解読に当たった
故福山敏男先生によると 「仕上げもすみ、仕口も作り、組入天井を造りつける前に
削りたての木肌の清新さに誘惑された工匠たちによって思い思いに試みられた
落書きであろう」 とのことで、生き生きとした印象を持ったようだ。

工匠がそこに書いた「難波津の歌」は 平城京からも木簡や墨書土器が出土している。
近年では藤原京を始め、七世紀代の遺跡からも墨書の木簡に書かれていた物が
発見され、出土文字資料で現在は30点あまりが確認されるというから
けっこう、あっちゃにもこっちゃにも。 都ばかりでなく地方にもあったことになる。
難波津の歌の広まりを追うのも面白い。
徳島県観音寺遺跡後出土の木簡は天武朝の頃に、万葉仮名で書いたと思われるもので 
難波津の歌の最古の資料ではないかと考えられているそうだ。 
此の歌、どうも7世紀から百年以上かけて各地に広まったらしい。
ゴミとして捨てられていた不要品の木簡や墨書土器、目の届かぬ処で
生き抜いてきた落書きなどから、千年以上も前の生活をいろいろと思い描くのは
興味が尽きない。
ちょっとしたゴミ捨てにもシュレッダーや、粉砕に余念なく、情報を始末するなんて事のなかった
御蔭様である。









投稿日 2015年01月12日 16:10:53
最終更新日 2015年01月12日 16:11:26
修正
2014年12月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
仮名の誕生変遷を報せたのは、藤原良相邸跡からの土器片の出土。
我々の世代は 初めて触れる文字が平仮名、少し前の世代は、カタカナ。
覚えるべくして 学んだというより、気づいたら当たり前に使っているのが
いろは 四十八文字、というより、あいうえ 五十音。
戦後 旧かなづかいは なんじゃらかんじゃら… となり、文部省の指導もあって
現在に至っているが、謡本は当然、旧仮名遣いで 変体仮名の表記もあれば
カタカナ表記もふんだんに登場。
しかるに、慣れ親しめばさほど気にせずに読めるし、解することが出来るというものだ。 
能の所作の書きつけやら囃子の記譜などは 旧仮名遣い、カタカナ表記で
書き付ける時には 今も二刀流をこなす。

奈良から平安にかけて 大陸に学び文字、書法、漢文と自国の物にした我国。
役所での公文書は漢文であったし、学問しかり、文芸しかり。
漢文、漢詩が出来なければ話が始まらないのである。
一方、私的な文書は漢文に翻訳することなく 話し言葉をそのまま漢字の音に当て
はめて 表記する方法を編み出した。  これが “万葉仮名”という訳だ。
当時の官吏は 公文書は 漢文、私文書は話し言葉、つまり日本語との、二刀流。
まっ、バイリンガルってところか。
この 万葉仮名も字音を借りてきた 伊、呂、波 のような“音仮名”と、
一字一音とは限っていない字訓を借りてきた 鶴(つる)、鴨(かも)のような
“訓仮名”もある。

法隆寺の五重塔や、正倉院の文書 などに早期の万葉仮名を見ることが出来る。
法隆寺五重塔初層天井組木落書(ほうりゅうじ ごじゅうのとう しょそうてんじょうくみき らくがき)。
通称 法隆寺五重塔落書については、ちと、蘊蓄。
今は聖徳太子と教えないのだそうだが、その厩戸皇子と推古天皇が用明天皇の
病気平癒祈願で建立したといわれる 法隆寺。
この大修復で みつかったものに墨書きの文字があった。
法隆寺は飛鳥時代の様式を伝える最古の木造建築。
その五重塔を解体修復中のこと。 時は昭和22年5月14日。
天井板の組木を外したところ なんとぎゅんぎゅんに詰めて書かれた 墨跡。
どうも 文字のようでもあり、絵のようでもあり。
“奈尓”??? “奈尓波都尓佐久夜己”と 判読。
“なにはづにさくや〜”とは いろは歌のようなもので、手習いに用いられたらしい。
今でいえば宮大工の若い衆が 休憩の時にでも 一寸手遊びか。

  やっと赤外線で判読したというが…   

それにしても そんなところへ書くほど 万葉仮名が普及していたということだし、
なにはづの歌も広く親しまれていたということなのだろう。 
落書きされた材木は天井の組木となり 千年以上解体修理するまで 人の目に
触れなかったのだ。 

法隆寺は607年に創建された。が、天智天皇の御代670年に焼失したという。
その後708年、または711年に再建されたらしい。
年輪から推し量って、五重塔の屋根材は673年のものと判明。
創建時のものではなく、再建されたことが実証されている。
この、一般庶民の筆跡である万葉仮名の落書は8世紀初めのものということだ。



消えた2012年師走の月次記事起こしで
その年その月の案内望遠鏡に続いての雑感。
落書きのあった法隆寺は 因みに1993年に世界遺産となり今日に至っている。
これだけのものになれば 落書きも大した文化遺産で、
落書きの為の手習いをしてからでないと おいそれとは… 





投稿日 2014年12月12日 0:03:09
最終更新日 2014年12月12日 0:03:09
修正
2014年11月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
奈良から平安の御代にかけて行われた宮中の行事に相撲節会(すまひのせちえ)があった。
相撲節会の最古の記録は『宮中行事秘事』などにあり、聖武天皇の頃と考えられている。

文官の人事や、叙位や任官、礼のしきたりやら作法などを統括する式部省という役所があり、
この傘下に相撲司(すまうのつかさ)というところがあったという。
奈良時代は抜出司(ぬきでし)と呼ばれていたというが、その役所はどうも相撲節会に合せた
時季的な臨時の役所であったらしい。
その役所は、左近衛府と右近衛府のそれぞれ12名を人選。
この人々が相撲人と呼ばれた。 何をするかというと、残った 残ったのお相撲である…
 
彼らは近衛府や兵衛府の役人やその見習いが中心で、他に諸国から推薦された者もいた。
後に諸国からの推挙者となり、優勝者は近衛府や兵衛府などで採用されたり、
国元で役人などに採りたてられたらしい。
この相撲節会は、楽人の演奏やら 入場行進やらとなかなかの華やかな式典があったようだ。
毎年7月の行事だったようだが、桓武天皇の次代の平城上皇が崩御したのを機に
だんだんと衰微し、承安4年(1174年)を最後に廃絶となったという。
この相撲節会が、日本相撲協会の主催する大相撲の基、というわけである。

相撲節会で左右に分かれ相撲を取り、勝った方の立会役が矢を背負って
勝者の舞を演じたのが 弓取式の始まりだそうだ。
現在は作法に従って、下位の力士が大相撲の本場所で、結びの一番の勝者に
代わって、土俵上で弓取り式としておこなっている。
相撲のテレビ中継華やかな時代、 弓取りでの “よいしょっ〜ォ” という場内観客の
掛け声に合わせ、子供は茶の間で大声を出したものだった。

今日の原型は横綱2代谷風梶之助が徳川家斉の上覧相撲で、土俵上で弓を受け
“敬い奉げて四方に振り回した”ことからだとか。 時に1791年、寛政3年。
元来、千秋楽にその場所最後の勝者を称えてのものだったという。
毎日行なわれるようになったのは1952年からで 今年でちょうど60年になる。(2012年時点)

弓取は幕下力士が行うが、特別に十両以上の関取の大銀杏を結い、化粧廻しを締める。
横綱がいる部屋の力士が勤めるものなのだそうだ。結びの一番の勝者の代理なのだから
当然、といえば当然。 相当以前になるが、弓を落としたのを見たことがある。
足の甲に弓を乗せ、弓をチョンと上に跳ね上げて掴み取った。それが作法だそうで、
手を土俵につくと負けとなるからとか。これもしかり。

栃錦の引退相撲では、出羽錦が弓取りをしたという。  
朋友だったからなぁ〜 あの二人、しょっきりも上手かったしなぁ。
今年も1年を締めくくる九州場所が 始まった。 
栃若時代を相撲と思うと 何日観戦するだろうか。



といったことを、2012.11.12.の 三余堂月次に書いた。それから二年。
まぁ、是非とも現在の “公益財団法人 日本相撲協会のホームページ” を御覧ぜよ。
最近再び活況を呈してきた“お相撲”の様子が窺える。
協会各位の奮励努力、やっと髷の結えるようになったお相撲さんたちの活躍、等々。
諸々の改革努力が伝わる公式サイトである。
このサイト、テレビばかりでなく、パソコン、タブレット、はたまた スマホと
選り取り見取りの観戦提供。 
とは言え、昔ながらのラジオ放送もなかなかで ご贔屓健在!



相撲  2012.11.12. 三余堂月次から消えたアーカイヴ とその二年後





投稿日 2014年11月12日 0:03:51
最終更新日 2014年11月12日 0:03:51
修正
2014年10月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
宋の文人が抱く 日本像は自国で亡佚した古書が保存されている国であったと
案内望遠鏡 『日本刀の歌』 で記した。
それは秦の始皇帝による 焚書前に叙福が、持ち出したと考えられていたからだが、
この叙福なる人物、たいした食わせ者。
始皇帝に、「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と云って、三千人もの若い男女と
多くの技術者を従えて、東方に船出したという。
彼は多額の資金を始皇帝から巻き上げて、派手な一行を組み、日本へ渡ったと信じられていた。
叙福が東方への出立を願い出たのは始皇帝28年で、焚書は始皇帝34年。
故に焚書で消えていった書経・詩経・諸子百家などが生き延びていると想像されていた。
しかし実際に、叙福はしばらく日本へ出発せず 焚書後の始皇帝37年に出掛けたようだが…
叙福の末路は不明なるも、始皇帝がしてやられたことは確かだ。

日本に中国の古書があるのは 叙福が焚書前に持ち出したからではない。
それまでに 日本にもたらされた書籍をはじめとする宝物類は、天皇家が天皇家として
脈々と存続した日本の場合、戦乱といっても徹底的な壊滅に至らずに済んだので、
さほど 不思議なことでは無かった。勿論 御扱がお大切であったことは言うまでもない。

『日本刀の歌』 の欧陽 脩が生まれる前、宋の太宗の時代984年のこと。
日本から入宋した然(ちょうねん)という坊さんがいた。
その折、中国ではすでに亡佚していた 後漢の鄭玄の注釈による『孝経』を
水晶の軸に金縷紅羅の表装という豪華版の仕立てで 携えていったらしい。
『孝経』というのは 孔子さまの教えだが、子供の頃は何かと耳タコであった、
 『身体髪膚(はっぷ)これを父母に受く あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり』  の基である。

この鄭玄の注釈による孝経は 玄宗皇帝が 新しい注釈を作らせたら 無くなってしまった。
その新しい注釈 『始注』の次に 『重注』というのが作られたら  『始注』が無くなってしまった。
でも、日本には ちゃぁんと『始注』があった。
 儒学書も仏典も どっかにやっちゃった! さぁ大変。 でも、でも、きっと日本にあるさ?!

西暦1000年頃 日本から僧寂昭入宋。
この時、中国の目録に名前があるだけで亡佚していた小難しい 『大乗止観』、『方等三昧行法』
を携えて行き、宋ではこれを基に新たに製作。 宋にしてみれば大変な賓客であったろう。
時の皇帝真宗から紫衣と円通大師の号を賜った寂昭は結局 、日本に帰国する事がないまま
杭州で没したという。
この人、結構な有名人。
    「これは大江の定基と言はれし寂昭法師にて候、我、入唐渡天 し。
                    はじめて彼方此方を拝み巡り。只今 清涼山に参りて候〜  」
とか云って 橋の向こうが文殊菩薩の浄土だという石橋に辿り着く。
ご存知 能「石橋」に登場のワキの僧、寂昭のことである。

深い谷に掛かる狭く長い橋は人が渡れたものではない。 やがて、橋の向こうから
文殊の使いの獅子が現われ、牡丹の花に戯れて、飛んだり跳ねたり。
紅白の大きな牡丹の花に埋もれんばかりの絢爛豪華な舞台。
そこで 白い獅子、赤い獅子が獅子の舞を舞う。時には、何頭もの子獅子が橋懸、本舞台と
行き交い、もとの獅子の座に戻っていく。 



無事に基の座に戻った、中国亡佚古書。
前述の『鄭注の孝経』と 『侃(おうかん)の論語義疏 』が日本で発見された物の代表だとか。



消えたアーカイヴ  2012.10.12. 三余堂月次から











投稿日 2014年10月12日 0:06:17
最終更新日 2014年10月12日 0:06:17
修正
2014年09月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
今月の三余堂月次アーカイヴは2009の9月  老人必要養草 から
敬老の日も近いが、希少価値からすると こどもの日に次いで、青年の日、
壮年の日が祭日として登場しそうな昨今である。
まっ、老いも若きも必要養草…ということで


                                           
《 内閣総理大臣が国の機関などから移管を受けた重要な公文書を、歴史資料として独立行政法人国立公文書館が
保存管理しています。》 と、ホームページにある国立公文書館。
資料の保存、データベース化、一般公開、インターネットの駆使と広く事業を行う。
重要な公文書の適切な保存と利用を図ることを目的とした施設。
公文書館は図書館、博物館と共に 文化施設として三本の柱の一つなのだそうだ。
ふぅ〜む

ヨーロッパでは、18世紀以来、近代的な公文書館制度が発達したという。
が、我国では 戦後、その必要性の高い声に 準備の末 
   『公文書等の保存、閲覧・展示などへの利用、公文書の調査研究を行う機関』 を
目的として、昭和46年に国立公文書館が設置。   結構 近年のことだ。

この設置に際して 重要な一部門となった内閣文庫。 
明治6年太政官に置かれた図書掛に始まり、明治18年内閣制度創始と同時に内閣文庫となる。
和漢の古典籍・古文書を所蔵する専門図書館となった。
その蔵書には、江戸幕府の記録等の公文書に類する資料も多いという。
平成10年にはつくば研究学園都市内に、つくば分館設置。
平成13年独立行政法人国立公文書館となる。
独立行政法人への移行後も 内閣文庫の所蔵資料は引き続き国立公文書館で保存されていて…
   ふむ、 ふぅ〜む



この 国立公文書館のホームページ。時折 覗くと興味深いものを見つける。
今月のアーカイブを手繰っていくと 老人必要養草 ろうじんひつようやしないぐさ!に当たった。

ご存知、養生訓の著者貝原益軒、その弟子の 香月牛山 かつきぎゅうざん(1656-1740)の著。
対象は高齢者限定ときた。もっとも この時代 いくつが高齢者だろうか。
正徳6年(1716)に 出版された書で 高齢者がいる家庭のための家庭医学事典と…
三余堂 必携の書のような気がしてくる。
養老の総論、飲食やら何やらと続き、鬱屈した心を癒す工夫や高齢者特有の心理を具体的に
解説しているのが、本書の特徴。と、ある。
老人性のうつ病ということか。現代ならではの状況ではなさそうだ。
形体保養の説という項には 手足の屈伸やマッサージが血流を促し卒中風の患いなしと ある。
    ふむ、ふむ、 ふぅ〜む



今月の展示を確認すべく覗いたところが とんだ 敬老の日を前にして心の準備となった。
東京、北の丸公園、近代美術館へ御用の向きは ちょっと 一足!
展示会は入場無料、
   地下鉄東西線竹橋駅下車[1b出口]徒歩5分。
矢来能楽堂の地下鉄東西線神楽坂駅から 三つめの駅。 ついでにも便利なところである。
そこには文化の必要養草を実践する国立公文書館がある。



国立公文書館  

   老人必要養草 ろうじんひつようやしないぐさ




投稿日 2014年09月13日 9:18:54
最終更新日 2014年09月13日 9:18:54
修正
2014年08月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
消えた記事の掘り起しシリーズは 『扇』。
2009年の八月の記事である。五年前はまだ扇に関して考えるゆとりのある暑さであった。
今は温度計もすっかりデジタル化となり、30という数字を切っていると誠に涼しいような気がしてくる。
平成26年の夏は立秋を過ぎたが 空調のない部屋は夜もなかなか30の数字は切れないでいる。


ボルサリーノのパナマの帽子に ローンのハンカチ。
颯爽とした白いスーツ姿の紳士は、 むっとする 重苦しい空気を追いやるために 胸のポケット
から扇子を出してパタパタと首筋に風を運ぶ。
百貨店の一階で 花が閉じ込められた氷柱を 子供たちが取り囲む。
氷に手を当てて騒ぐ子らを見守るように、薄物に身を包む和装の婦人が 白檀の扇子を
ハンドバックから取り出して そっと胸元へ風をおくる。
映画や、小説でなくとも 昭和30年代までは そんな姿を見かけた。
今、この様相を銀座のデパートでみたら 何とも風変りな姿に映るだろう。

洋装の男性も 和服の女性も その手にする扇子。
開閉自在で場所を取らず 涼を呼ぶばかりでなく、孫の手代わりも務め、護身用も果たす
すぐれものは 日本で生まれた。


摺畳扇、しょうじょうせんと云われる 開閉式の団扇。 これが扇、扇子である。
平安の初期 京の都で生まれた。 木札に文字を記した 木簡から派生したとされている。
檜の薄皮を重ねて束ねた 檜扇、ひおうぎは、女雛が手にしている。 檜片の枚数は身分で
決められていたという。 当初は 公家、僧侶などの儀式用の持ち物だった。
平安中期になると 紙製も登場。 いわゆる 蝙蝠扇、かわほり。
「ほほほっ ほっ ……でおじゃりまする。」 と、口元をそっと隠す、あの扇。
片面のみ紙が貼られている。その後 両面貼りとなる。
扇の先が閉じずに開いている 中啓、ちゅうけい。これは 能で使う扇の形。
で、僧侶の手にする扇の形でもある。 歌舞伎の河内山では 宗俊がほくろに中啓を持っていく。
そして 鎮折、しずめおりという 現在の一般的な形状へと変化を遂げた。

武士が登場すると 骨が竹でなく鉄で出来た鉄扇は、指揮ばかりでなく 護身用として活躍。
礼法が確立していく室町の時代には 庶民の間でも折節目に使われ、
祝儀、贈答として取り交わされていく。
室町の文化は扇をも育てた。
能の舞台では あらゆる表現に必携な扇、寸法、骨の装飾から絵柄も流儀によって
細かい決まりを持つ。 
扇を末広というのは 扇の骨の先がひらいた 能扇の中啓を指しているという。
能の一部分を舞う上演形式の仕舞、地謡、後見などは いわゆる先の閉じた鎮扇を使う。 
茶席で扇子は結界を示し、相手に対する礼を表す。
末広がりの形状が吉祥を現わし、扇面という画布が 名筆も名画も生み出した。
俵屋宗達は扇絵の絵師であった。

室町時代に摺畳扇は 盛んに輸出されたという。
それが 大陸へ、さらに西欧へ伝わる。絹や鳥の羽で作られ、貴婦人の間で大流行した
エバンタイユや、フラメンコのスペイン扇などは日本生まれだ。

作り上げるには 数十に及ぶ工程を 幾人もの職人の手が支える扇。
肝心かなめの要を中心に 末広がりに開く扇。
それは、扇面の下に 隠れる骨の確かな重なりの美しさに他ならない。
今日 幅広い種類をもつ扇子は 儀礼用、涼をとる夏扇から、飾り扇、 
どれもが 作り手と使い手の生活の中に生きている。













投稿日 2014年08月12日 13:56:17
最終更新日 2014年08月12日 13:56:33
修正
2014年07月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
消えた記事の掘り起しシリーズは 『鵺』。
近年の温暖化で異常な暑さも、空調の効いた能楽堂で、うとうとと過ごせる時代となった。
もっとも、この科学の力がなければ 暑い時に装束を付けて難行苦行を
演者、観客になす事は無かっただろう。
見所て゛揺らぐ扇子、絽や紗の涼しげな夏の装いこそが 清涼を呼び、夏の舞台を作ったが…



シリーズ 消えたアーカイヴ掘り起し 2012年7月の記事から

背が虎で足がタヌキ、尾はキツネだとか、サルの顔、タヌキの胴体、トラの手足で尾はヘビ、
または 頭がネコで胴はニワトリとか、諸説は紛々ながら 「ヒョーヒョー」という
気味の悪い声で鳴いたという生き物。 これが、伝説の妖怪、鵺(ぬえ) である
専ら、後白河さんの時代にご出現の もののけ。
元来、鵺とは夜に鳴く鳥のことで『古事記』や『万葉集』にも名が見られるというのだが…
鵺の正体は、現在ではトラツグミとするのが定説だ。
その寂しげな鳴き声は、当時の人々には不吉なもので、天皇をはじめ貴族たちは
鳴き声が聞こえるや、大事が起きないよう祈祷したという。




まだまだ 後白河さまが天皇になられるなど、考えも及ばない遠い頃のことでございます。
後白河さまの弟におわす近衛さまが、天皇となられたのは僅か2歳でございました。
崇徳さまは、その方々のお兄様で、天皇から、上皇となられ、政に関わることのない
閑職になられたのでごいます。これは御父 鳥羽法皇さまの御計らいでございました。
政のおもむき、ごちゃごちゃど真ん中!の様相でございます。
名誉職のような上皇はお若く、即位した天皇は御身お弱くて、15歳の頃には退位を
お申し出になられ、御所の中は大騒ぎでございました。
もちろん近衛天皇のご退位は許されず、お子も無いまま17歳の若さで亡くなられ
鳥羽院はその衝撃か、 間もなく崩御あそばす。 ここに皇位継承問題勃発!

と、歴史は展開する。
実は、あの若い天皇さんは愛宕山の天狗さんの像の目に釘を打ち付け呪詛されていたので、
眼病で目が見えなくなったとか…   死は呪詛によるものだとか…   
病気平癒の祈祷も、呪詛も、誰がだれを祈祷したやら、呪詛したやら。
その後、朝廷は後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂して、保元の乱になっていく。


うなされる夜が続き、病に摂りつかれていた近衛さまは ヒョーヒョーという音、
辺りを覆い尽くす黒雲の光景に ますますのご不怪。 
この時、鵺と思しきもののけ退治の白羽の矢が源頼政どのに。 
頼政どの、大願成就の祈願を行い、清涼殿を覆う黒雲の中で動く影に向かって、
「南無八幡大菩薩」と念じつつ、矢を放つと、頭は猿、胴体は狸、尻尾は蛇、
手足は虎という代物が、奇っ怪な声を上げて落ちて参りました。
摂関家ご兄弟仲はごたごた、兵の家の者が朝廷に根を張りだした頃の事でございます。
戦さならいざ知らず、得体の知れないもののけ退治に推挙された 頼政殿は如何ばかりか。
所謂これが、鵺退治の一度目。
次は 後白河さまが天皇をお子の二条さまに譲ってから。
二条さまを怯えさせ、ご病気にした怪鳥退治でございました。またまた、頼政どのの功で
天皇のご体調、たちまちにしてご回復。
ご褒美に獅子王という刀を頼政殿に貰賜したのだそうでございます。




鵺退治の話を晩年の世阿弥は能にしている。
能では、鵺の亡霊が主役で、源頼政に退治され、救いのない滅びへの姿を語る。
諸説ある物の化だが、その正体は頼政の母だという伝説までもある。
退治した頼政も不可思議なさだめを持っていた。退治された鵺に救いはあったのだろうか。
世阿弥は、中央での華やかな日々、頭領としての思い、佐渡での配流の暮らし、そして
研ぎ磨き上げていった幽玄の世界をすべて背中にして、晩年に 『鵺』のような曲を作り上げた。





鵺の季節到来!この時期の曲目である。
本年2014年7月観世九皐会にて上演。三余堂は仕舞 白楽天を勤める。


投稿日 2014年07月12日 12:43:03
最終更新日 2014年07月12日 12:43:16
修正
2014年06月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
シリーズ 消えたアーカイヴ掘り起し 2011年6月の記事から

物の怪にとりつかれた源氏の妻、葵の上。
その正体は如何にと思いきや、姿を表したのは六条御息所の怨霊。
御息所は このところすっかり足の遠いた源氏の姿を、一目見ようと加茂の祭りへ出かけた、そこで
妻の葵の上に車争いで敗れ、散々な想い。
御息所は葵の上にとりついて、その魂を抜き取ろう… とばかり、生霊に。
さぁ大変と、横川の小聖(よかわのこひじり)に祈祷をさせるも、御息所の嫉妬心が鬼女となって、
葵の上ばかりか、祈祷する小聖にも激しく襲いかかる。
が結局、御息所の怨霊は折り伏せられて、成仏するというのが 能 『葵上』の話。
能では舞台の上に置かれた一枚の小袖が、物の怪に取りつかれた葵の上として登場。
御息所の恋慕と嫉妬の情を描いている訳で、前半は『源氏物語』の巻名を散りばめ、
鬼に変貌しても高貴で、なお美しい御息所を描き出すのが後半。 という訳だ。

能 『葵上』は、賀茂の祭の車争いに破れたということで、御息所が破れ車に乗って登場する。
言わずと知れた賀茂の祭は、葵祭のことである。
567年、欽明天皇は、凶作と飢餓疫病の蔓延を振り払うため、4月の吉日を選び盛大な祭りを
行った。枕草子で祭の中の祭と言っているが、祭りといえば葵祭を指し見物場所の取り合いが、
車争いに見られるほど、人気だったということが良く判る。
祭に関わる人、社殿の御簾や牛車に至るまでフタバアオイを桂の小枝に挿して飾る為、
葵祭と謂われる。そもそも、この祭りの加茂社の神紋が葵。
加茂社の由来は諸説紛々。
雑駁で恐縮ながら、別雷神社(わけいかずち)と御祖神社(みおや)とに分かれ、
総称して加茂社。 これに関連しても、能に『加茂(賀茂)』という曲がある。
天女となって御祖神が舞い、勇ましい別雷神が舞台を駆け抜けて雷鳴を轟かす。夏の能である。

閑話休題、
神官や氏子に広まった葵の紋。
その意匠は二葉葵、三つ葉葵、立ち葵に三つ剣葵等といろいろある。
賀茂神社を氏神とする徳川家の家紋は、三つ葉葵。それが所謂、葵の御紋。 
本多忠勝も「神代以来、京都の賀茂神社に奉仕仕る賀茂族」ということで、立葵の紋を使用。
本当は、こっちの方が正統だと本多氏は言いたいのかもしれないが…


扨、加茂社の神紋葵はウマノスズクサ科カンアオイ属の多年生ツル草のフタバアオイ。
賀茂葵、日陰草、挿頭草、両葉草などと呼ばれる。
草丈もせいぜい5cmから10cmほどで、ハート型の葉が向かい合って2枚。
故に『ふたばあおい』と呼んでいる。
本州以南の山地の木陰に自生して、初春に薄い紅紫色の花をつける。誠に地味なものである。
ただ『葵』というと、立葵を示すアオイ科のタチアオイのこと。
葵紋の『双葉葵』とは別ものだ。
日を仰ぐという意味の「葵」は、美しい花で、人目も虫も寄せつける。
ハイビスカス、ムクゲに、フヨウ、オクラやワタもアオイ科で実に華やかだ。
 (葵、天竺葵の異名を持つゼラニウムは園芸種で、人為的に作った品種。念のため。)
密やかに花をつける双葉葵は、細やかな愛情という花言葉を持っているが、
葵の花言葉は平安、威厳、高貴だそうである。
能の題材となった源氏物語の葵の上。物語中で源氏の妻が葵の上とは謂っていない。
源氏の第九帖から後世、読者が勝手につけた呼び名「葵上」は 
 「はかなしや人のかざせるあふひゆえ神のゆるしのけふを待ちける」
     「かざしける心ぞあだに思ほゆる八十氏人になべてあふひを」 から来るというが。
双葉葵にしても立葵にしても、葵の上は縁のあることである。




消えた2011年6月の三余堂月次記事を改訂掲載




投稿日 2014年06月12日 14:46:29
最終更新日 2014年06月12日 14:46:29
修正