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2006年11月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
主望遠鏡と平行に、視野広く対象星を追跡し易くするためにある望遠鏡を案内望遠鏡という。 などと
言うとさも天体小僧のようである。子供の情操教育に託けて家庭用の天体望遠鏡を購入し 三余堂の前の公道に堂々と三脚を立て、夜空を見たのは何年前のことか。

閑話休題 この深まり行く秋の夜をどのように過ごすか。 一杯飲んで早めに寝ちまうとその日のうちに目が覚める。星を眺めるにはちとさぶい。 夜中のテレビは……。 ラジオ深夜便ほどの歳でもない?  
そんなときのお薦めはやはり 読書であろう。気楽で面白く、何年も手元に置く本を引っ張り出す。

高木彬光/著 成吉思汗の秘密 30年近く手元に持つ本である。
高木彬光/著 成吉思汗の秘密  角川文庫・光文社文庫 
昨年は大河ドラマの影響か義経ブームで本屋でも随分見かけたが、出版社も替わっていた。
今年は大モンゴル建国800周年で、モンゴル政府主催の記念行事や便乗イベント、ツアーなど目についた。日本人の大好きな義経は遠く大陸モンゴルの地で生きるのである。
そんなことを 興味深く読ませてくれる。今月は義経と静御前の別れ、義経が海上で知盛の霊を祈り
鎮める様を題材にした船弁慶が上演される月でもある。



秋の夜長には成吉思汗    
 (C)鵞毛庵  大山祇神社所蔵の源義経奉納「国宝赤絲威鎧・大袖」 を想い起して
観世九皐会11月定例会「船弁慶」
観世九皐会 http://www.kanze.com
投稿日 2006年12月01日 13:01:04
最終更新日 2006年12月01日 13:01:12
修正
2006年12月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
鵞毛庵が 親孝行をして 朝食後 パリの自宅へ親父殿を招いた。 東京の家から 西へ 西へ と上空を飛ぶ。  もののン拾秒で パリ自宅上空へ到着。  空から ご近所に挨拶をして お馴染の シャンゼリゼへ行き 店を覘き、 オペラ座やら なにやら立ち寄って 国外へ。
                           モスクワを越えて 東へ 東へ とカザフスタン共和国へ行く。

カザフスタン東部にある バルハシ湖の近くを丹念に巡る。
ソビエト連邦時代から 今に至るまで 軍事関連の地がある為か お目当ての場所には あまり近づけない。 それでも 寄ったり 引いたりして 湖の西半分は淡水、東半分は塩湖 という バルハシ湖付近を 行ったり来たりする。 親父殿 ロシアの捕虜として三年間 電気技師をしていた地である。  
書生時代の 丸七年を戦争に盗られたことになる。    

なおも 東へ 東へ。 行けども 行けども 同じような景色を見ながら 満州新京へ。
現在の吉林省長春へ着く。ここは終戦を迎え 捕虜となった処。 
ここまで来たのだからと一寸 大陸の思い出のあちこちを散策。  そして 海を越えて東京へ。

生まれ育った 本郷へ寄り、牛込矢来町の舞台 矢来能楽堂へも顔を出して、自宅へ帰る。

昭和23年 抑留解除になり カザフから品川に着くまで 丸ひと月。
昭和32年 能楽渡欧団の際は パリから南回りで丸?日。 平成18年 朝食後の一服は 15インチほどの画面で85年分を 一時間で駆け巡った。         

グーグル・アースで世界さんぽである。 
3D地球儀ソフト Google Earth http://earth.google.co.jp/  
2、3年 前の状況ではあるが 自宅前に停まる車も、歩く人もはっきり見ることが出来る。ひっそりと自室に篭って思い出の地を巡られよ!

今は兵役もなく 捕虜にも捕られず書生を勉められる。活字も、音も、映像も、溢れるように活用できる。
さて、さて、厳寒の地で電気技師をしていたほどに謡が謡えているか。


3D地球儀ソフト  Google Earth http://earth.google.co.jp/
投稿日 2006年12月02日 13:21:34
最終更新日 2006年12月02日 13:22:11
修正
2007年01月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
        謹賀新年


               平成19年 元旦

三余堂近くに 建久年間(1190〜98)源頼朝が 奥州藤原氏を征伐して凱旋の時に創建したと伝えられる 大きな神社がある。
ここは 文明9年(1477)大田道灌が石神井城の豊島氏攻略の戦勝を祈願したとも伝えられているところで、
大晦日の晩は初詣参拝、交通整理の警察、参道の屋台など 大変な賑わいになる。
三余堂の寝所にも 参拝客の声が 年を跨いで聞こえ、路行く人の為に外灯を点し続ける。
ネット参拝が話題になり 神社本庁が注意を喚起したというが 家族て゛、カップルで、友達同士で
わいわいと 神社に向かう姿を 月明かりに見るのは今年も同じである。


             平成19年 元旦
         大晦日 準備着々 井草八幡宮



             平成19年 元旦
     明かりもついて 絵馬に破魔矢に 準備万端

下駄履きで ちょいと とはいかない向きには


まっぷるおすすめ 初詣スポットhttp://www.mapple.net/sp_newyear/ 

を 参考に初春の行事をひとつ……
投稿日 2007年02月21日 20:16:31
最終更新日 2007年02月21日 20:24:10
修正
2007年02月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
以前は 年が明けるとお雛様の宣伝が盛んにテレビに流れた。
7段飾りだ、8段飾り、やれ家紋入りだのと。最近は あまりお目にかからない気がする。
三余堂亭主は 男ばかりの兄弟で お雛様には とんと縁がなかった。
娘が生まれた時 母上殿は 孫娘に木目込みの雛人形を作った。
三余堂は トイレットペーパーの芯で段飾りなるものを作った。
お内裏様に お雛様、 三人官女に五人囃子 左大臣 右大臣 三仕丁と
左近の桜 右近の橘。  お内裏様の纓に笏  お雛様の冠、瓔珞と 折り紙を貼って作った。
纓 エイ も 瓔珞 ヨウラク もシテ方は手に馴染みである。 それを 家内は ひとつひとつ薄紙に
包んで箱にしまい 次の年も その次の年も その次も 飾っていた。

今年も三井記念美術館で 「三井家のおひなさま」の企画展が始まる。


雛人形

この美術館は 三井文庫別館(東京都中野区)が、平成17年10月に日本橋の三井本館に
移転して開設された。江戸時代以来300年におよぶ三井家の歴史を知ることが出来る。
勿論 能装束、面などの所蔵もある。
ここは 建物自体が 重要文化財で一見の価値ありだが お江戸の在には あまりにも見慣れた
風景に溶け込んで目に付かぬ御仁も多かろう。 どちらさまも 日本橋へお出掛けの節 一度は
立ち寄られぃ。

今年の展示は 京都・丸平文庫が所蔵するお人形もあるそうで その土地 その時を
感じられるだろうか。 作 三余堂なる 雛飾りは いつのまにかなくなった。 が、 母上殿の
八十余年になる お雛道具 調度の箪笥や長持ちはならぶ。 その長持ちの中に 樟脳と共に
薄紙に包まれた 一対の小さな 小さな 雛人形が仕舞われている。
五十余年 大切にされてきたのだろう。

ペコちゃん、ポコちゃんの お雛様である。

雛人形

三井記念美術館  http://www.mitsui-museum.jp/exhibition_02.html
投稿日 2007年02月01日 0:55:15
最終更新日 2007年02月01日 0:56:21
修正
2007年03月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
電子図書
只今 三余堂から 百数十歩のところに 区立図書館建設中。

以前 車で5分ほどの 近隣図書館に行ったことがある。
大きなガラス壁面をもつ 近代的な建物だった。
燦々とふりそそぐ おてんとさまを背に 日向ぼっこをしながら新聞を読む老紳士、 
家庭雑誌に 鼻眼鏡で目を通す 白髪の婦人で ソファーのコーナーは 満員御礼。
平日午前中のことであった。

その後時を経て 家庭にパーソナルコンピューターが 入ってきた。 そして インターネットも。

最近 《Flib》 フリブというサイトが開いた。 電子書籍の図書館である。
電子図書館としては 青空文庫が有名で 著作権切れの作品を 収集、公開している。 
ボランティアの手によるものだそうで なかなかのご苦労である。
著作権切れの作品 ということは 本棚裏の奥や 天袋をごそごそやって
見つけ出したような本にもお目にかかれる。
中里介山 大菩薩峠   千恵蔵でも雷蔵にでもなったつもりで目が通せる。
そのほか 銭形平次でも 何でもなってくれぃ。
ipodでも読めるようになっている。 机竜之介を ipod片手に 通勤電車で読むのは オツか?

フリブは 雑誌も 絵本も コミックも 閲覧できる。
活字が小さく 読みにくくなった御仁には 頁をめくりながら大きな文字で読める。
ただし 著作権問題があるので 作品は限られる。
鬼平もないし、国家の品格もないし、総理大臣の美しい著書もない。

多少 文字が小さかろうが 自らの眼鏡が合わなかろうが 読みたいものは 読みたいものだ。
図書館がひなたぼっこに 最適だろうが まもなく 近くに出来ようが 今ここで 読みたいと
親父殿も 母上も 擦り切れるほど読んだ 鬼平に代わって 佐伯泰英のシリーズを端から 
繰り返して 読破している。 食事・一服・血圧記録・居眠り と日々忙しい中
せっせと読み 重要な仕事である 定期通院の 病院の待合室でも 読む。
いずれ この本は パリ鵞毛庵蔵書 となる。


電子図書
佐伯泰英   「密命」シリーズをはじめ、数々の人気シリーズをかかえる人気時代小説作家

書籍を電子化する巨大な計画が グーグルやヤフーで推し進められているそうな。
利用・活用は それぞれの分野で 限りなく広がっている。
電子書籍が 印刷物に 取って代わることはないだろうが 活用者は増えよう。
一方 一冊、一冊を 糸針で和綴じされた書籍も より愛おしまれるだろう。
謡本もその一つである。




Flib    http://www.flib.jp/
青空文庫    http://www.aozora.gr.jp/
投稿日 2007年03月01日 0:09:46
最終更新日 2007年03月01日 0:09:46
修正
2007年04月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
東京は 桜が 満開になった。
日本全国 ソメイヨシノはみな 兄弟、いや 世界の 染井吉野は皆 姉妹。
この花 山手線の駒込あたり 染井村で 江戸末期に誕生した。
そこの植木屋さんの苦心の作。 エドヒガンとオオシマザクラの雑種で接木、継木で ……

この染井村、 今は横浜能楽堂に移築となった舞台があった。
東京で戦禍を免れた希少な舞台は 靖国神社の野外能舞台、
多摩川の観世銕之亟家舞台(現在 青山の銕仙会舞台)、狂言大蔵流の山本東次郎家舞台
(杉並能楽堂)、それに 染井の舞台 駒込の染井能楽堂である。
見所は升席、照明も煌々とせず 子供の頃の想いが あちらに ぽつり こちらに ポツリ。

それはれとして 兎にも角にも 桜はたぁくさん 種類があり
材が均質のため 造船材から 版木、鼓の胴にもなる。 樹皮は咳止めから細工物、
花は塩漬けで桜湯に、葉は葉で桜餅を包む。
そもそも ソメイヨシノは 明治以降 全国に広まったもので、と いった具合に
この時期 桜についての 薀蓄はいたるところで語られているので 割愛。

桜挿頭
ご存知 向島長命寺の桜餅は 三枚の葉につつまれて …。
向島長命寺桜もち 東京都墨田区向島5-1-14 03(3622)3266





4月は東京を皮切りに 西へ 北へと 移動に伴い桜を愛でることになる。
多種ある桜と南北に長い列島のお陰で 車窓からの花見行脚の始まりィ。


夜の御観桜会
桜挿頭 桜挿頭

先ずは手始めに 三余堂前で 夜桜見物。桜挿頭 の宵である。
少し行くと 夜の桜にはちと無粋な 都知事選の公営ポスター掲示板に突き当たる。
ちなみに都知事選での、公営ポスター掲示場数は都内1万4千ヶ所あまりとのこと。
いったい どれだけの人手がポスターを掲示するのやら。
十何人の候補者に 4枚のポスター。
この候補者方、 お手があるようで しっかりと向かいの 桜を御見物である。




染井舞台の移築先 横浜能楽堂     
投稿日 2007年04月01日 9:24:35
最終更新日 2007年04月13日 18:38:55
修正
2007年05月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
6月2日 秋田県大仙市の唐松能楽殿で 薪能がある。

まほろば唐松薪能
まほろば唐松薪能お問合せ 大仙市協和市民センター「和ピア」 TEL018-892-3820
北東北地域連携軸構想推進協議会
大仙市をクリック

まほろば唐松能楽殿  (c) 鵞毛庵昨秋立ち寄るまほろば唐松薪能

大仙市は2005年に大曲市をはじめ、 仙北郡神岡町、西仙北町、中仙町、協和町、仙北町、
太田町、南外村が合併して誕生した市で秋田県の南東部に位置している。
大仙のダイは 大曲の大。
この大曲の花火は有名で 近年はCS放送で見ることができる地域もある。 
大仙のセンは 仙北の仙、ということか。 まほろば唐松能楽殿は 元の協和町にあり
毎年6月は観世流、8月は喜多流の演能がある。 今年は三余堂 頼政を勤める。

この大仙市の中心 大曲にある 大仙市中央公民館では  能楽さんぽの会を毎月開催している。
ただし 大仙の地を散策しながらの 吟行ではないので 御注意のほど!

散策の会と思い 問合せがあったとか …。

大仙能楽さんぽの問合せ 能楽さんぽメールまで
s-gokita@jcom.home.ne.jp




2月の三余堂月次で触れた 融も 6月17日に国立能楽堂で勤める。
奇しくも 頼政の最期で有名な 扇の芝ある平等院は 融の別荘であった。




能 『融』  能を知る会 東京公演別会 まほろば唐松薪能 



投稿日 2007年05月01日 21:41:10
最終更新日 2007年05月01日 21:41:46
修正
2007年06月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
初夏の空になった 衣更えの日ころもがえ

6月1日は衣更えである。袷 アワセの着物が単衣 ヒトエになる。
要は 冬から夏になるということである。
一般に 6月1日から夏服に、10月1日から冬服に替えるとしている。

そもそも 衣替えは更衣といった。
季節、季節で衣服を着かえることで 平安貴族が 4月に 薄衣 ウスギヌ、
5月 捻り襲 ヒネリガサネ、6月 単襲 ヒトエガサネ、
8月1日から15日まで捻り襲、8月16日から9月8日まで生織 キオリ の衣、
9月9日から生織の衣の綿入れ、10月から3月まで練絹 ネリギヌ の綿入れ着用と 
決まっていたということである。

季節の移ろいと共に 装束説明がある源氏物語ではお馴染。
天皇の着替え役の女官の職名を更衣と言い、後に女御に次ぐ者を更衣と言うようになった。


いずれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひたまひける中に、……、 
そこで ご遠慮申上げて季節の着替えを更衣とは言わず衣替えと言うようになった、と。


江戸時代には 4月1日、10月1日をもって春夏の衣を替える日となり
明治時代、旧暦から新暦に変わって
政府が6月1日を夏の衣替え、10月1日を冬の衣替えと定める。 
 お上が 定めたのか!
今も、制服を着るところでは、6月1日と10月1日を衣替えの日としているところが多い。
が、 昨今の温暖化で 各校で移行期間が設けられ 同じ学校でも バラバラの様相である。
女子中高生の制服衣替えが 新聞一面を飾ることも あまりない。

でも 着物は違う。 きちんと季節、季節を衣替えで受止める。
と 言っても 5月に摂氏30度ではなぁ。
そこは ドウヌキなる 袷のうらが袖口と裾廻しのみの仕立てのもの、
襦袢の衿はともかく 見えない所は 涼しい生地を利用しての工夫がある。
もっとも 空調装置 という強い味方もある。
3月月次 春つ方 に書いたが舞台の上では 能の装束は常に同じである。

季節に係らず酷使される 能の装束を夏の土用のころ、虫干しをする。
カビや虫害を防ぎ 風を通すためである。
暦の上では、土用の間に虫干しをすると良いことになっているが 
結局 冷房を強力にかけての作業になる。

趣ある季節を感じることを文化としている うつくしいくににっぽん は何処!

お手打ちの 夫婦なりしを 衣替え ってな句があった。
単衣の紋付に絽の襦袢のしつらえを見ると ふっと 口をついて出た。



毎年衣更えの頃 産卵を終えたメダカが池を泳ぐ 子メダカの姿は単衣も身についた頃に見られるか…
ころもがえ
投稿日 2007年06月01日 11:44:31
最終更新日 2007年06月01日 11:45:15
修正
2007年07月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
国立新美術館へ行く機会を得た。

〜六本木に出現するアート・トライアングルは新しいアートの拠点です〜


とのうたい文句に 東京は六本木に三角形を描くように国立新美術館、
サントリー美術館、森美術館が位置する。
六本木をアートに親しめる街にしていくことを目指し、新しい六本木の魅力、
アートの散歩をお楽しみ下さい! ということだそうである。

再開発の一環で 六本木ヒルズが出来、森美術館が開館。
この春には 防衛庁跡に東京ミッドタウンがオープンした。
この中に サントリー美術館がお引越し。
その向かい 東大の研究所あとに国立新美術館は 平成19年1月 今年の正月に開館した。
昔で言う処の港区龍土町で 今も龍土町会員之証なるものを 掲げる家が何軒もある。
そもそもそが 陸軍の土地であった。

昭和20年、大戦終結により、旧日本軍の基地や施設は、米軍が接収。
昭和27年の平和条約及び旧安全保障条約の発効に伴って 在日米軍基地となり
引き続き米軍が 現在も使用しているところが 都内にもまだ何箇所かある。
国立新美術館から望める、赤坂プレスセンターも 在日米軍基地である。
旧日本陸軍駐屯地。現在 米陸軍管理。
横田の基地からブーンと ヘリコプターで米要人が都内に入る所だ。


国立新美術館前庭から赤坂プレスセンターを望む  独立行政法人国立 …… 
                   木立の向こう フェンスに囲まれ ビルに埋もれる 在日米軍基地



かの黒川紀章先生による設計の国立新美術館は
10を超える展覧会が同時並行で開催できるようになっていて、
作品搬出入などあらゆる意味で機能性を重視し、尚且つ 日射熱・紫外線をカットする
省エネ設計でありながら、周囲の森と共生する建築であり、レストラン、カフェ、
ミュージアムショップが、新しい東京の芸術文化のサロンとなることを願っている のだとか。

まぁ いろいろと ご意見はあろうが 耐震構造のガラスのお城は
なるほど 搬出入は 車の出入りも良さそうである。
館内は 飛行場かと思われるように 高い天井、
何処までも幅広く続くまっすぐのロビーというか 通路というか。
とにかく広いので せいせいする。が 体力勝負の観も有り。

なにしろ 大きくて広い会場には 展示物の重厚さ、大きさとスケール、が要求される。
既存の都美術館などを会場として 公募展作品を募っていた団体は 
作品の規定サイズが大きくなったとか。
どこで どうやって製作するのか、搬入するのか、展示するのか、と思うばかりの
大きな作品をゆったりと 鑑賞できる。
さすが 独立行政法人国立美術館、 ともかく器は大きく造られた。
 

国立新美術館           独立行政法人国立 …… 
                    ガラスのお城と 手前の傘立て は 夜になるとライトアップされ銀色に輝く 

本当の使い勝手は これからだろう。
ああでもない、こうでもないの思いがけない不備があちこちから出でくるものだ。


国立能楽堂の出来た時もそうであった。
小さな鏡の位置ひとつにしても 使い始めて判ることは山ほどあった。
開館前の準備もさることながら 器も中身も運営が始まってから 練られていく。
落ち着くかなぁ という頃に職員人事異動がある。が、利用者は旧態。

こんな繰り返しが続いた国立能楽堂も 時代の変化に対応して
平成18年11月より座席字幕システムを導入。
前の座席の背面に小型液晶画面設置。
ボタンで日本語表示・英語表示・表示オフを選択する。
座席字幕では能の詞章の表示以外に、能・狂言の決まり事なども適宜解説するそうだ。

                  ただし、字幕システムは自主公演での利用可能 ということでェ。念のため。 
とにかく 独立行政法人日本芸術文化振興会はすごい、 さっーと 座席を新装した。


座席字幕システム 国立能楽堂 独立行政法人国立 …… 


日本初となるパーソナルタイプの字幕画面は ゲームに最適な寸法で、
座席に着くと とにかくボタンに触れてみたくなる。
         
どのみち 三余堂 客席なる見所へ出ることはほとんどなく まして 画面稼動中には…









投稿日 2007年07月01日 18:37:44
最終更新日 2007年07月01日 18:38:21
修正
2007年08月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
いよいよ五木田摩耶カリグラフィー展の開催月である。

〒103−0023
東京都中央区日本橋本町3-6-2
小津本館ビル1階
電話 03-3662-1184
http://www.ozuwashi.net
/ カリグラフィー展

24日(金) 一日講習会開講 12:30 〜 14:30


毎月、鵞毛庵の項で御紹介している カリグラフィーなるもの実際にご覧頂く機会となった。
この西洋の代物は http://maya-g.com/essay.html をお読み頂くと
少々 御理解頂けると思う。 
とは謂うものの ちィッちェえ字で めんどくせェ!

さてさて カリグラフィー展は西洋ばかりでは如何ばかり。
何故か お母上の作品展が同時に一隅を飾るのだそうである。
能 源氏供養のクセ を書いて、 せっせと 登場人物を木目込みの人形で製作していた。
能の花 なのか???

平安貴族の時代から武士の時代となった鎌倉期には 紫式部が書いた源氏物語が
狂言綺語で その為に 式部が地獄に落ちたという説が広まる。
そこで 紫式部の救済のために源氏を供養することが行われた。


カリグラフィー展 カリグラフィー展
源氏供養クセを眺める夕顔

お暑い最中に 誠に恐縮乍
日本橋まで御用の向きは 三越デパ地下のついでにお立寄り頂き
西洋、東洋の文字の作品をご覧願えたら ……




投稿日 2007年08月01日 11:19:32
最終更新日 2007年08月01日 11:19:58
修正
2007年08月26日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
8月25日 五木田摩耶カリグラフィー展が終了した。

急ぎ 御礼と御報告 


200名近くの方に 作品を観て戴く事が出来たそうな。
有難いことである。
この 酷暑の中 足をお運びいただいた皆様に御礼申上げる次第であり、
又 関係各位にも多大なご苦労とお世話を戴いたことと 感謝申上げるばかりである。。

鵞毛庵は 9月の 毎月曜、木曜に期間中の 様子をご覧戴きたく準備中とのこと。
カテゴリー鵞毛庵で しばらくの間 お付合い願いたい。

小津ギャラリーには ビジネスマンが 昼休みに 多くの来場がある。
日本橋のオフィス街ということか 一寸の気分転換だそうである。
サイト上で 一点、一点について 時間に追われず 解説を!
との希望があったとか。
当日 お出掛け頂けなかった方にも 御報告を兼ねた
カリグラフィー展の掲載で 様子をご覧頂きたい。 



 期間中の一日講習会  急ぎ 御礼と御報告 

さてさて 如何になるか。 お付合いの程を……
投稿日 2007年08月26日 8:42:01
最終更新日 2007年08月26日 8:42:21
修正
2007年09月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
9月も衣替えになる。 夏は終了ということである。

この猛暑の夏休みに 今も学校は 読書感想文を宿題に出すのだろうか。
100選だの ナツイチだのと文庫を厳選して売り出す。

集英社文庫では 古典作品にふれてもらおうと、4作品を特別企画として
今までとは違った イメージの装丁に一新。
漱石のこころ、 武者小路の友情、 宮沢賢治 銀河鉄道の夜、 太宰の人間失格。
この 人間失格の装丁が 大変な人気なのである。
新装一カ月で 7万5千部売れたそうである。 
人気コミック デスノート の小畑健氏の手になる表紙????

話だけでは さっぱりわからんので 先ずはこの文庫を入手とばかりに …
立ち寄る書店は どこも売り切れであった。
太宰の人間失格は 新潮社文庫の100選が平積みになるばかり。
新潮社装丁室のデザインも充分 今風で洒落ている。
しかたがないので 集英社文庫ニュース なるチラシで 装丁を確認する。



集英社文庫・ナツイチ新たな装い 

文庫本でさえ 乱造気味の出版物は 印刷、製本など 多少チャチになった気がするが
表紙をみて ンーッ! と興味を惹かれるなら 作戦成功である。
小学館の日本古典全集のカバーにも 人気イラストレーターを起用しているとか。
イメージで 先ず読者を 取り込むということであろう。

書店に新装版が並ぶと 中身を暗記するほど知った者も 思わず見直す。
同じ本でも装いが変われば つい手に取って見るものだ。
もはや 漱石も武者小路も古典といわれる現在
いままで ご縁の遠かった御仁にも 縁ができる。
新装版は 作品の命を延ばす。



     PHP文庫 新たな装い         
昭和60年初版後 この数年絶版であった本は
平成18年 新装出版になった。古びることのない歴史の本である。


が それは本ばかりではない。
繰り返し、繰り返し 時をかけて練り上げていく物は 多かれ少なかれ 同じである。
新装、改装は 長い時間を生き抜くものの課題である。 能もその一つ。

観世九皐会のホームページも 改装なった。








観世九皐会






投稿日 2007年09月01日 11:38:14
最終更新日 2007年09月05日 0:22:09
修正
2007年10月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
三余堂近くの八幡様の例大祭は、 今年、五年に一度の流鏑馬神事の年だった。
真夏の蝉が賑やかな時期から 参道に覆い被るように茂った木々の枝払いが
クレーン車を使ってなされ、9月早々には 馬場となる参道の整備がはじまった。
また、これまで神事所役のうち家臣の役を国学院の学生の奉仕に依っていたが、
今年は地元の青年も 的場、采揚、矢拾、覧筥の役として募集をした。
準備万端 、 さて当日 9月30日 ……




参道に流鏑馬の馬場を造る初見参から一年   初見参から一年  準備万端


それまでの 30度を越す残暑の日々に替わって 11月半ばの気温と強い雨。
中止である。


この数年、9月の末から10月の初めは 必ず雨で祭囃子も湿り気味であった。
今までは櫓を組んで 朝7時から テケテンッ テケテンッ と例大祭を報せていた。
が、近年は 近隣からうるさいという苦情が出るようになったそうである。
今年は 櫓を止めた、囃子連中の朝も9時頃からになった。おまけに雨もちらついている。
なんともはや   言い難し。

ところで 能楽さんぽへよくお出掛け下さいました=@と 始めたこのサイトも一年になった。 
号にしている三余(さんよ)とは、中国の魏の薫遇という人の

    読書当以三餘  冬者歳之餘 夜者日之餘   陰雨者時之餘  
(出典 魏志・王粛伝)


からの引用で 1年のうちで勉学は農作業(仕事)の出来ない冬の季節、
1日のうちでは夜、そして雨の日を有効活用せよ、といっている。
と 挨拶方々記した。せいぜい 飲んだくれて寝る前に 活用したいものだが。

遠くの祭囃子を聞きながら そんなことを想う というなら、ちと様になるが
鼻の先で ピーヒョロ テケテンッ では止めて欲しいという人もあろう。

こっちとら 浮かれちまって しごとになんねぇのが …


有志で造られた万灯神輿が青梅街道を練る 初見参から一年 

野中の一軒家とはいかない 昨今 音を出すことはどちら様も敏感になる。
初見参から 一年の祭りの日の雑感であった。
投稿日 2007年10月08日 9:36:32
最終更新日 2007年10月08日 9:36:55
修正
2007年11月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
以前隣家に 萩の大株があった。
南側の塀越しに薄紅色の花を望んだ。
長月夕方になると まだまだ がんばる蝉の声に雑じって虫の音が聞こえ始める。
そんな頃 ちらっと見える萩の花に秋の七草を思った。
何処そこにありそうな 萩が花 尾花 葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝貌の花 だが
近年は なかなかお目にかかれない。 
時節の移り目に無残な枯れ色を見せ、そのうちに 抜いてよいのやら、悪いのやらとなり…
いつの間にか 小さなちいさなみどりの芽が出、やがて 蚊の温床のように緑が茂る。
そんな 秋草を庭で愛でるのは 今 らしくないのか。
草なのか、木なのか、秋の七草は床の間の植物か。


尾花はススキ、萩は小低木だか草のお化けだか、
葛花は葛根湯、くず粉、その蔓は行李にもなるし、繊維で葛布もできる。
撫子の花も薄い紅をして 毎年じわじわと移動する多年草。
女郎花、能では おみなめしと云う。黄色の小花が傘状につく、利尿剤とか。
藤袴は 淡紫の小さな花が房状につく、そして 朝貌の花。これまた なんの古名か…
鵞毛庵の観た桔梗もよし、槿もよし、
昼顔でもなんでもいいやぁ

正倉院展の季節  朝顔市から届けられた宿根系の朝顔が毎年越冬する  霜月にも葉を繁らせる これぞ朝貌の花か


要するに ほっといても毎年花が付く。毎年、まいとし、何年も、なんねんも。
宿根草、 しゅっこんそうと音便にして云う。
地上部分は枯れるが 地下茎や根が残って翌年も、また次の年も芽を出す。
これが秋の七草だ。


秋の七草がそろそろ終わりに近づく頃 毎秋の繰り返しに正倉院展が始まる。
今年は10月27日から11月12日まで 奈良国立博物館で開かれる。
東京では さっぱりであるが 京都など地下鉄の正倉院展ポスターはみごとなものだ。
正倉院には9,000点もの宝物が納められており、奈良天平文化を伝えている。
今年の正倉院展は聖武天皇、光明皇后遺愛の品々、文房具などの70点が展示され
文様表現の優れた宝物が多く出展されるのが特徴とのこと。
第59回展となる今年は17点の初出展があるという。
うぅ〜む …… 。  興味のないものは一つとしてない正倉院の品々である。



正倉院の宝物を見る正倉院展の季節 


正倉院の校倉 (あぜくら) はもと東大寺の倉で、光明皇后が亡き聖武天皇の遺品を
東大寺大仏に奉献したことに始まった。その後 大仏開眼会 (だいぶつかいげんえ) に
関わった物をはじめとして 仏具・調度・服飾、楽器類などあらゆる物が納められた。
宝物に及ばず 製作技法も西方を源流とするものが多々あるし、能の源流のひとつ 
散楽の様子を識ることの出来るものもある。
過去の文化は今の文化、今の文化は未来の文化である。
 てなこと云ってもこんな地球じぁな … 
シルクロード紀行だの 西域の残照だのと 囲み記事にも事欠かない宝物殿である。

が、今年もそんな季節になったかぁ。≠ニ 隣の萩になりそうである。 
枯れ草と 抜き取られる前にしっかり鑑賞しなくてはなるまい。


投稿日 2007年11月01日 13:00:16
最終更新日 2007年11月01日 13:00:16
修正
2007年12月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
案内望遠鏡 とはguiding telescope。
写真撮影用の望遠鏡に平行に取り付けてある望遠鏡で、視野広く対象星を
追跡し易くするために添えたものということである。
ということで 三余堂月次の補いにでもと始めたことであったが、反って 邪魔をしているかもしれない。その一つが 記事中の言葉の読みである。
すべて漢字にルビを施せば 事は簡単であったが、 サイト上でルビを打つのは
体裁良く仕上がらず、読めないような小さな字では致し方なく、
まぁ 小難しいことを書くわけでなし 大昔の岩波文庫のように なんでもかんでも
読み仮名、振り仮名は要るまいと判断したわけである。


まてよっ!  
作家は漢字にルビを振ることでその小説の雰囲気や自らの主張を伝えんとしている。
貴方、貴女、をあなたと読ませたり、あんたと読ませたり。彼方もあなたと読むし、
我輩だの流石だのの読み方も 破れそうな紙製本にごちゃごちゃとルビをふった
岩波文庫で鍛えられた。
講談本や落語の本にも世話になったが。
既に使われなくなっていた 旧字体や書写体が読めるのは謡本のお蔭ばかりではない。 

みんな読み仮名の御蔭で 普段日常的に使わずとも識っている。
しかも その道、その分野で 読みが違うことも 体感していた。
先月の案内望遠鏡の記事にもあるように 女郎花を謡では おみなめし と読ませている。
勿論 辞書でおみなめしは引ける。但し おみなえしへ と゛うぞ!
草子洗小町という謡に スサノウノミコトが登場するが ソサノウノミコトと読ませる。
以前 神社の老婦人が謡の稽古で 頑として 『私どもは すさのうでございます』 と
最期まで そのように謡っておられた。

まぁ 読み方も時代で変わるもので 他人事とかいて 平気でたにんごとと読む輩が居る昨今、
到頭、辞書もひとごとばかりでなく たにんごと と読むことを容認した。
寝台なぞは今でこそ しんだい特急あさかぜ というが、明治期にはもっぱら ねだい 
と云ったそうである。 ちなみに吉行淳之介の小説に寝台(ネダイ)の舟 を見つけた。
同じ文字を書いて どちらが正しいのへちまのと 喧々諤々。
大概 内ではこうでございます、で閑話休題となる。
 


最近は面白い辞書もででいる 文字を読む 


ほとんどの場合 どれも正しい。呉音で読むか、漢音で読むかの違いである。
時は桓武天皇の御世、延暦年間に漢音が奨励された。 
行政関連、学者は 遣唐使などによってもたらされた 長安風の発音を用いたという事のようだ。
それまでの呉音は仏教用語などとして今でも使用。
交易があれば言葉も流通する。大陸の地方の発音も伝えらた。
行灯(アンドン)の行は 中国江南地方の発音が伝わったということらしく 難解な読み方 
とされても生きている。 漢音は行をコウ、呉音はギョウ。 
例の宮内庁御用達は ごようだつが呉音、ごようたつが漢音 なじみの深い ごようたしは
何処から来たのやら ……。


近代アイテム 文字を読む よめねぇやつは 辞書を引け!  


もっとも 他人事のごとく多くの人の間違いが 正しいこと になることもある。
云いまわしが時代につれ変わり 文字も換わるからと  勝手に思い込みで読むのは如何かと。
辞書を引く習慣を身に付け わかりきっている字も確認し、他の読み方を探り、言葉を曖昧にしない。
辞書はきちんと案内をしてくれる。      何事も 然り。



山茶花のこぼれつぐなり夜も見ゆ 加藤楸邨 文字を読む 

三余堂にも山茶花が咲き始めた。人は はじめ さんさかと謂っていたそうである。







投稿日 2011年05月12日 4:01:00
最終更新日 2011年05月12日 4:01:10
修正
2008年01月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
    恭賀新年

                  平成20年 戌子 元旦 


今年は 戌子 の歳になる。 
閏の年で、なにかと 世情も喧しいことであろうと拝察し、年越し早々に近くへ初詣。
神様に懇ろにご挨拶と外へ出たが その手前のコンビニで ビールなぞ購入して
参道の入り口て゛遥拝!    謹賀新年!


                 平成20年 戌子 元旦 
                 平成戌子の新年 昭和戌子生れの三余堂 子の置物を飾る


平成20年、西暦2008年、何暦、カニ暦 ……
干支に六曜 二十四節季と 暦の中の言葉は 聞き慣れているようで いないようで。
いざ 今年は何の年かとなると 十二支はすぐに思い浮かぶが 十干のほうが心もとない。
ことしは 戊子 つちのえね となる。
国立国会図書館の日本の暦をご覧ぜよ。

http://www.ndl.go.jp/koyomi/kotoba/02_eto01.html

年頭にあたり 暦について一読するのもなかなか。ついつい 読みふける。
おまけに謎解きまで用意されて ふぅーむ!
ちょっとした 正月雑学習 である。






投稿日 2008年01月01日 2:26:49
最終更新日 2008年01月19日 21:39:10
修正
2008年02月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
まもなく 立春である。冷たい日はまだまだ続く。
最新のソーラーシステムによる 床暖房も オンドルも無いながら
三余堂は年間を通して素足で過ごす。せめて板の間ではスリッパを履くようにと云われる。
大きなお世話である。
スリッパは 右方は此方、左方は彼方、何処にや…… となるのが落ちであろうし。
だいたい スリッパだ、靴下だなどと 極寒の地でもないお江戸ではおこがましい。
日常の生活に当り前の様に靴下、スリッパ いや、足袋が取り入られるようになったのは
明治期以降ということだ。



足袋保護のため楽屋で使用する上履き
足袋



そもそも 足袋は 読んで字のごとく 足を包む袋である。
平安の頃 山野で生計を立てるような人々は 足袋の原型と思われる 獣の皮で親指の部分に
股をつけた履物を用いるようになったらしい。
其の頃 都の貴族は 襪 (しとうず) という履物を用いていた。
平安中期には、革足袋の原型となるものが用いられ始めていたということで、
鎌倉期の宇治拾遺物語の中に、「猿の皮の足袋に沓きりはなして」 と、すでに足袋という言葉が
出てくる。
もっとも 今のような形かどうか。
近世以前、武士は足袋や襪などの履物は履かないものとされていた。
合戦の武装には毛履などの沓、革足袋、革製の襪のような物が用いられた。
鎌倉、室町初期は、足袋を鹿皮や猿皮をなめした革で作っていた。   
武士の間で革足袋が普及すると、白の革足袋や、小桜などの模様の小紋足袋を履く習慣が生まれ、
その後、戦乱が広がるにつれ、軍装として革足袋の使用が一般化したということらしい。
武家の間では、足袋の使用については規定があった。
礼装の際や主君の前では素足であるのが正当とされたということで、
三余堂もこれに倣っている訳である。


江戸時代初期は革足袋が専らであった。主に輸入の鹿革が多く使用されていた。が、
鎖国の為に鹿革の輸入量が激減、明暦の江戸大火で防火用として革の羽織が流行し、
革の値段が高騰した という事が影響して、木綿足袋の普及に至ったということだ。
初期は晒木綿の布を重ね、補強に太い糸で田畑の畝のように縫ったそうだ。
当時の足袋はまだ革足袋の名残で 鞐(こはぜ) ではなく紐で止めていた。

江戸時代も足袋の使用に関する厳しい規定があった。
足袋の着用は50歳以上、10月1日から2月20日の間のみ。
病気等での足袋の着用は主君の許可にて 足袋御免 となる。
大奥も、足袋着用の期間が厳格に定められていたそうだ。 武家の男女礼装は素足である。
武家の間では人前で足袋を用いるのは無礼ということか。
もっとも 木綿足袋が普及すると共にし、有名無実化していったらしい。 さもありなん。

誰しも 麗しきおみあしとはいかんじゃろぅ! 冷えもよろしくない

が、足袋御免の制度自体は文久2年(1862)年の武家服制改革まで存在していた。
公家にも指貫には勅許がないと襪を履くことはできないという制度も残っていたというが。

さてさて 一般庶民は如何に。

江戸初期、農民や町民にとって足の保護の為に使われる、作業用の履物、祭礼の衣装であった。 
中期、商人などの町人の台頭で、日常生活にも足袋が取り入れられるようになっていった。
その習慣はやがて武士階級に取り入られるようになり、一般的な習慣になっていった。
日常生活で、武家階級は白足袋、町人の男は紺足袋や黒足袋、女は白足袋を用いたという。
もっとも それも立場や階級で紺足袋も白足袋もある。 
必殺仕掛人の早乙女主水は紺足袋である。
橋蔵の平次は白足袋で、下っぴきの八五郎は紺足袋 … 。
まぁ テレビや映画のチャンバラを鵜呑みにしてはいけない。映像の演出というものがある。
農民はというと、それまでと同じく専ら作業用の履物であって、普段は素足。                  


紺足袋と白足袋 足袋

能や狂言が確立した頃、能は白に晒された鹿皮の革足袋が用いられ、
狂言は生成りの革足袋が用いられていたようである。
現在 狂言足袋は流儀などで多少違いがあるが、細かい黄色の縞のものや薄い黄色で
鹿革の足袋の名残をここにみる。


装束を付ける時、初めに着け、最後に脱ぐのが足袋である。
舞台で使用する足袋は 神田駿河台の店で誂る。足にしっくりと沿った足袋の提供あってこその舞台。
どちらも違わず高齢化が物作りに押し寄せて 老舗の足袋店も呑込もうとしている。




今日も足袋は舞台で三余堂を支える。足袋







投稿日 2008年02月02日 10:10:30
最終更新日 2008年02月02日 10:10:47
修正
2008年03月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
花や葉を蔓状の曲線でつないだ文様を唐草という。
平安時代に 大陸からの蔓草文様という意味で からくさ という名が使われていたようだ。
古代から洋の東西、その時代で変化をみせて 多くのものに取り入れられている。
エジプトの睡蓮文様が唐草文様の起源といわれるが 詳しくは 鵞毛庵の記事に任せるとして
日本では正倉院宝物に西方からの唐草文様が多くみられる。
文様の種類は数々あれど その後、日本の文様として牡丹唐草、ぼたんからくさ文様は定着する。
三宅坂の国立小劇場の緞帳の中に 牡丹唐草文の見事な綴織 (つづれおり)のものがある。

唐草文様の中でも 華やかな図柄は 装束、帯等々と目にする機会も多い。

正倉院古裂柄牡丹唐草 牡丹唐草牡丹唐草図

2月の鵞毛庵能の花シリーズで 春節の獅子にふれているが
唐代に盛んに使われた牡丹の唐草文様は獅子などと組み合わせて、華麗な文様を描き出している。
大陸伝来の唐獅子は幻想動物の獅子で、法隆寺や正倉院にその姿を見ることが出来る。
法隆寺展、正倉院展、書物などでお目にかかった御仁も多かろうと思う。
空海や円仁が唐から持ち帰った曼荼羅には獅子の図があった。
仏法護持の神獣ということか。


その後 12世紀末の鳥獣戯画に唐獅子は登場、興福寺供養での獅子舞なども行われているようだ。
能の起源となる 田楽や猿楽と並んで民間で獅子舞も行われたであろう。
勇猛な唐獅子の姿をかり 邪気を払う呪術的な要素も持った芸能は現在に至る。
能 石橋 (しゃっきょう) は百獣の王としての獅子が華麗な牡丹の花姿と対峙して登場する。
歌舞伎の鏡獅子や連子師の元になる。
紅白の牡丹の花が咲き誇る 大きな作り物が舞台中央に登場する。
張りつめた 冷たい気の中 静寂のうちに落ちる花の露の密やかな音がきこえる。
大、小、太鼓が露を伝える その息と力で。
そして親獅子、子獅子の登場。獅子の頭も白は親、子は赤く 
勇壮な親獅子、血気盛んな子獅子、 三間四方の舞台で処狭しと ぴョコタン、ピョこたん と跳ねる。
華やかそのものの演出である。


武家は唐獅子図を好んだ。
日光東照宮の装飾彫刻の中で多用される 唐獅子と牡丹の図柄。 豪華絢爛 。
まさに 唐獅子牡丹である。

義理と人情を 秤にかけりゃ 義理が重たい 男の世界
幼なじみの 観音様にゃ 俺の心は お見通し 背中で吠えてる 唐獅子牡丹

健サンは背中に彫る。

やがて夜明けの 来るそれまでは 意地でささえる 夢ひとつ 背中で呼んでる 唐獅子牡丹 と
                 
帯に牡丹唐草を選ぶ小生であった ……牡丹唐草









投稿日 2008年03月02日 9:38:32
最終更新日 2008年03月02日 9:38:51
修正
2008年04月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
東京は桜の開花宣言が今日だ、明日だと耳にしながら秋田へ出かけた。

秋田は 慶長7年(1602)に 常陸の国から国替えを命ぜられた佐竹氏によって治められた。
佐竹義宣が JR東日本秋田駅近くの台地 久保田に城をつくった。
現在この久保田城跡は千秋公園として憩いの地になっている。
久保田城は別名「矢留城」ともいい、公的には「秋田城」とも称していたという。
千秋、矢留、久保田など今も地名として残っている。

久保田城は 天守閣がなく、土塁をめぐらして内側にだけ石垣を築いていたようで、
一の郭は、本丸・二の丸・兵器蔵、二の郭は、外堀に囲まれた三の丸と重臣の屋敷、
三の郭・四の郭まで土手をめぐらした構成であったらしい。
城自体はあまり防備に重点を置かずに 城下町をすべて迷路にして
街全体が防御のために造られていたということである。
確かに 古い街なみが整然としているというには 程遠い気がする。
佐竹氏12代の居城 久保田城本丸は 御維新後の明治13年に焼失。
その後、公園として明治29年に千秋園と称され県営となり、昭和28年には秋田市営となる。

現在の千秋公園は丘の上の歴史ある 市民憩いの場、といった感じである。
まだまだ 硬い蕾が北の地を感じるが、四月下旬には桜祭りが開かれる。


夕方のニュースは能楽さんぽ 夏には蓮の花で一杯になる堀 まだまだ さくらも遠い


秋田散歩の次は あきた能楽さんぽの話。

3月24日のあきた能楽さんぽに珍客があった。
講座にAKTテレビ夕方のニュース番組 スーパーニュース担当キャスターの
女性アナウンサーとカメラマン氏が取材に訪れた。
スーパーニュース? 各地方版があるようだが 東京のフジテレビ系列ということか。
夕方6時のスーパーニュースという番組のコーナーで 数分間の放映。
受講風景、受講生へのインタビュー、謡などを折り込んで 
アナウンサー自身の体験記がまとめられていた。 


夕方のニュースは能楽さんぽ
インタビューや撮影、準備や機材運び、なんでもコンビがやります!

受講者は事前に知らせてくれれば 床屋へ行って 髭をアタって男前に、あるいは 
護岸工事も入念に しっかりと塗り固め 女っぷりを上げてきたのに と思っただろう。
三余堂も秋田発の前夜に知った。
番組制作は担当キャスター自ら取材対象を見つけて カメラマンと共に東奔西走。
突撃! 隣の晩ごはん 方式なのか。 (日本テレビ系列で 突然夕飯時分に訪問、取材をする番組があった)
取材先では 何事も物怖じせず体験して 局へ帰って編集、放送 となるのだろう。
勿論 女性アナウンサーは受講生と共に 声も出し、謡を謡って…
しっかりとして なかなかのものであった。



カメラマンも女性アナも はいっ 声を出して!夕方のニュースは能楽さんぽ
  本放送は 受講生のインタビューや女性アナの独吟?も 放映

 
地方局の番組は その地を知るに手っ取り早い。その地の文化、気風を伝える。
CS放送などで地方局の生番組を選べるようなると 面白いのだが…







投稿日 2008年04月01日 12:20:50
最終更新日 2008年04月01日 12:20:50
修正
2008年05月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
中国大陸でまだ秦が天下を統一しない頃、書物の材料は竹と木であった。
竹は1メートルに満たない長さの簡 、つまり竹のふだで、それに8字から30字くらいを1 行に書く。
100 字程度を書く時は、木の札を使っていた。
それ以上文字を書くには 竹や木の簡を何本も 鞣革 なめしがわで編み連ねた冊をつくる。
冊 さく という字は簡をなめし革でつらねた象形文字なのだそうである。
中国の最も古い書物の形態だ。


紙が発明される以前は 竹や木の札、竹簡、木簡、が多く用いられてきたが、帛 はくもあった。
秦の始皇帝以前の大陸では帛も書写の材料となった。絹製の布である。
帛を書物とする場合には もっぱら 軸をつけて巻いた巻子本、かんすぼんの形態をとったらしい。
安宅の関で武蔵坊弁慶が … それ つぅ〜ら つぅら … 
と読み上げた巻物の形を思い浮かべられたし。
後に始皇帝となる 秦王政を暗殺に行った 荊軻が剣を忍ばせていったのは 帛の巻子であった。
絹でできた帛は大変に高価で 特別なものであったのだ。
4月鵞毛庵の記事 でも触れているが 書物は内容、形態ともにまさに宝物であった。


紙の発明は ずっと時代が下って後漢時代 、世界中の書物にとっての大革命ということだ。
その後 紙がもっぱら書物の材料となる。書物の形も変化する。
日本へは奈良時代に伝わった巻子本。
仏典などに利用されて 経巻や法帖類で目にすることの多い折本、 おりほんは習字手本や
揮毫帖などにも用いられている。


折本 書物の綴じ


折本の背の部分を糊づけしたもので、広げると風にひるがえるようになる 旋風葉 せんぷうよう。
料紙を二つ折りにして重ね、折目の部分に糊づけした粘葉装 でっちょうそう。
三井家所蔵の古今和歌集などにこの装丁が見られ 平安末期には日本ですでに行われていた。
鎌倉、室町、江戸期に至るまでこの様式は続いていたという。

粘葉装は唐代に盛んで、宋代には益々増大していった。
が、糊を一枚ごとに入れる為 虫害を受けやすい。
そこで 糊で貼り合わせる代りに糸で綴じる方法が案出された。
これらを経て糸で綴じた綫縫 せんぼう に至る。これは大陸から 朝鮮や日本にも伝わって
日本では列帖装れっちょうそう、大和綴 やまととじなど、独自の方法が生まれたということだが。
もっぱら袋綴 ふくろとじと言っている。
普通の和装本に使用されているものである。 


四つ目綴じ書物の綴じ


生活に溶け込んで常に目にする、四つ目綴じの本。 確認すると明治何年、大正何年と印されている。 
そう 謡本。
目にする謡本は 一冊一冊を手で製本、装丁、糸針で綴じる 宝物ということである。
糸の切れた物は 綴じ替えながら受け継がれていく。
華やかに飾る中に 実用の要点を押さえた綴じ方には いろいろな工夫や流行がある。
四つ目綴じの本が 康煕王朝に流行った康熙綴じに、麻の葉綴じにと変身していく。
帰国中の鵞毛庵は 和綴じの講習で腕に磨きをかけていた。





下から 麻の葉綴じ、康煕綴じ、亀甲綴じ書物の綴じ










投稿日 2008年05月02日 7:57:57
最終更新日 2008年05月02日 7:58:24
修正
2008年06月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
松下電器産業から 2008年4月末 待っていまた! の新しい乾電池
【EVOLTA エボルタ】が発表された。
アルカリ電池を進化させた製品で さらなる長持ちと 10年間の使用推奨期間を誇る。
つまり10年は保存がきくということである。 災害・非常用等の備蓄用には結構な代物だ。


エボルタ登場     EVOLTA エボルタ君グランドキャニオンを登る


乾電池の多くには、使用推奨期限が刻印されている。あくまで 使用開始をする推奨する期限で
期限までに使い終わるようにと云っているのではないらしい。
このエボルタは 従来のアルカリ乾電池より電力容量が大きく 電圧が落ちにくいということだ。
デジカメや音楽プレーヤー向きという。
まぁ 取敢えず デジカメと携帯ラジオで たまにお世話になる程度であるが……


EVOLTA エボルタ君グランドキャニオンを登る  マンガン電池からエボルタまで


最も歴史の古いマンガン乾電池は 素材が安価で、安く作れるが 容量が小さい。
電池の生産量が8割という アルカリ電池は マンガン電池より 容量は大きいが 
デジカメに対応できるほどの力はなく、電圧が下がってしまう。

そこで ニッケル乾電池登場!

正確にはニッケルマンガン乾電池と云うのだそうだ。
松下電器産業が2004年4月1日に発売した乾電池である。
オキシライド乾電池のことだ。
この5月まではこれをデジカメに利用していた。 が、これは 初期の電圧が高くなるために
豆球のライトや玩具などには不向きで 製造元である松下電器産業は使用不可としている。

この4年後の今年 オキシライドの欠点がなく ほぼすべての機種に利用でき 長持ちする電池誕生。
アルカリ乾電池 エボルタ である。
単三2本を背中に背負って ロボット EVOLTA君は グランドキャニオンの540メートルの崖を登った。



http://evolta.jp/EVOLTA エボルタ君グランドキャニオンを登るエボルタ君


乾電池は 明治20年 日本の時計技師屋井先蔵が「屋井式乾電池」を発明。
その前後で特許の取得をしている ドイツのガスナー、デンマークのヘレンセン がいるが
屋井先蔵せんせいの御蔭で 何と豊かな日常を過ごしているか。

兎にも角にも 乾電池は日本人の発明である。 
素晴らしき発明に 有難く感謝して カセットを聴く。  CDでなく MDでなく。
そして 謡でなく トラゾウを。














投稿日 2008年06月02日 11:16:45
最終更新日 2008年06月02日 11:17:13
修正
2008年07月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
錦木塚記事 編集中

能 錦木の題材となる 錦木塚へ錦木塚





錦木塚 



秋田県鹿角市  錦木伝説の地
              能 錦木は世阿弥の作といわれる



投稿日 2008年07月01日 0:10:38
最終更新日 2008年07月01日 0:10:38
修正
カテゴリ : [案内望遠鏡]
吊花、つりばな という落葉低木がある。
五月の連休前後に 密やかに緑淡色からほんのり赤紫の小さな花柄を下げる。5ミリほどの花である。
結んだ実は秋に熟して紫紅色になり、5個に裂開する。そして、目にも鮮やかな朱赤の種がのぞく。



錦木塚伝説 その壱
三余堂吊花 

錦木塚伝説 その壱  吊花の実がはじけて



秋の紅葉が錦の織物のように美しいところから 錦の木、錦木の名前で知られる低木がある。
カエデ、スズランノキと並び世界三大紅葉樹のひとつのなだそうだ。
枝に矢筈のような羽がある。
弓の弦を受ける矢筈、やはずのような羽を枝につけているので 見つけるのが容易い。
若枝は緑色。やがて表皮を突き破って、板状の羽根ができる。カミソリの刃のように。
羽根は年々大きくなるが、4年目には成長をやめるらしい。

錦木塚伝説 その壱ニシキギ
花も実も 吊花 とそっくりである。
三余堂の庭には 秋の錦を愛でるために 錦木があった。
ややもすると朱赤の実がはじけるまで 気づかれないままにいる吊花もある。
日陰で絶えた錦木、多少は日を浴びながらも 余命いくばくかと心配な吊花。
ともに ニシキギ科ニシキギ属。ご親戚。


昔 奥州の縁組の風習で 男が女の家の門に錦木を立て、応ずる心があれば家に取り入れた。
取り入れがなければ さらに加えて立て、千束を限りとしたという。
錦木は、恋文の役目をたした鹿角の風習であった。

立てそめてかへる 心は一の千束 (ちづか) まつべき心地こそせね  山家集

世阿弥の作という能 錦木は、この話を題材にしているといわれている。

JR花輪線十和田南駅より徒歩1分。
命あるときには結ばれなかった悲恋物語として語り継がれる錦木塚がある。













投稿日 2008年07月24日 21:20:33
最終更新日 2008年07月24日 21:20:51
修正
2008年08月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
暑中の時の花 いまだけさきたゆう


今年は 洞爺湖サミットのために 例年より10日も遅れての朝顔市だった。
生産者は この10日あまりの差に、さぞご苦労があったろう。
土、水、光、虫、病気 等々の管理を経て一年掛けてのお商売物だ。

朝 開いて昼には萎む花。 葉の繁りが邪魔をしてきちんと開花出来ないことがある。
で、 葉が貧相だと養分が蓄えられずに 花が咲かない。
あぁ この不条理を … と カミュ気取りで言ってもはじまらないが、
朝顔を舞台に出すのも 厄介なことだ。
今年も鉢の出来に 黙って玄人の心意気が出る。  


市にならぶ鉢にも流行がある。
時の花は 市場調査も条件として重要だ。
同じ 朝顔の鉢をならべての市でも 色も形もじわりじわりと変化する。
鉢も、行燈づくりの支柱も、素材が変わってプラスチィックになる。
そして 宅配便が待ってましたとばかりに 入谷朝顔市 と印刷した専用の段ボールケースで運ぶ。
恐れ入谷の鬼子母神は東京の一部の地域から 全国区となる。

団十郎  暑中の時の花

団十郎 といって売られているこの朝顔は 所謂市川団十郎家の色を表している。 
三余堂に咲く朝顔は これに倣って それぞれ銘がつく。
いかにも涼を呼ぶ大輪の青は 咲大夫。
これは浄瑠璃義太夫の豊竹咲大夫ならぬ 今竹咲大夫。 いまだけさきたゆう である。


五代目志ん生 暑中の時の花 濃い花は六代目菊五郎

一昨年 流行った 小さな青は 三餘亭小朝。
他にも 六代目菊五郎だの 五代目志ん生だのと、心象としては ちと 古い命名ばかりだが。
鵞毛庵ご推奨、涼をとるための 志ん生の「牡丹燈籠」もよいが、
朝顔の志ん生も なかなか結構なものでござんすョ。







投稿日 2008年08月01日 15:55:13
最終更新日 2008年08月01日 15:57:31
修正
2008年09月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
先月の鵞毛庵の写真の中で 使われていたペン置。
箸置きとして作られたものであろう。能管をかたどった黄瀬戸である。
親爺殿が昭和30年代に 瀬戸焼の窯元へ稽古に出向いたことが縁で 
パリの空の下も、東京も 黄瀬戸は活躍する。
薄茶茶碗はもとより いもの煮っころがし、香の物tが黄瀬戸の器に盛られる。 
その取り皿も 緑の斑紋のついた朽葉色の陶器。
毎年の干支の飾りもしかり。

何を思うか このネズミ   黄瀬戸の笛


小生制作、三余の銘を入れた薄茶茶碗を主催会の記念として出したこともあった。
瀬戸で制作した黄瀬戸である。
ご指導の諸先生方はさぞ御苦労であったろう ???

黄瀬戸は 瀬戸、美濃で焼かれる薄い茶というか、渋い黄の色をした陶器である。
桃山期のものが珍重されるとか、やれ 上薬の色、つまり釉色(ゆうしょく)がどうのとか
蘊蓄(うんちく)、好みはさまざまあれど…
今風にいえば 硫酸銅が出す緑の色と あの黄枯茶(きがらちゃ)の色がなんともロハスな感じィ 
ということか 拙宅では人気の焼物だ。


そもそも 瀬戸物の瀬戸は 愛知県名古屋からちょぃっと東へ行った処の地名である。
右を見たら加藤センセ、左を見たら加藤君、上を見れば 加藤さん、横を見ても遠くを見ても 加藤さぁん、瀬戸は 加藤さんの街である。 そして 陶磁器工業地でもある。
陶土が産出し、焼き物の燃料となる黒松が多かったことで、陶祖 加藤景正以来、
その名を瀬戸物として全国に馳せたのである。
1300年の歴史と伝統に 我々も一方ならぬ世話になっている。


所謂 瀬戸物。食器は勿論、セラミックス、衛生陶器つまり 便器、それから 碍子(がいし) 。
碍子(がいし)は 電柱を見上げると配線の間にみえる白いもの。

黄瀬戸の笛 多種の碍子が使われている 横チョの電柱

明治6年には、瀬戸の加藤杢左衛門(かとうもくざえもん)によって、電信碍子がつくられたそうだ。
電気を逃がさずに電線と支柱を結びつける。電線がたるんでしまうことを防ぐ役割も担っているとか。
焼物の絶縁性や、屋外でも劣化しにくい性質を生かして、碍子は陶器で作られるようになり、
あっちの加藤さんも、こっちの加藤さんもこの仕事に携わって、瀬戸市の大事な産業になった。


閑話休題  
黄瀬戸の笛は今カリグラフィーのペン置になっているようだが、パリで過ごす本物の笛は元気だろうか。
鵞毛庵、東京では笛の稽古をしていた。

黄瀬戸の笛を駆使する 迷手の奏でる 音やいかに。


笛の名手として聞こえた、清経は平重盛の三男であった。
平家一門が都落ちした後、豊前国柳浦にて入水の前に笛を吹く。享年21。
世阿弥が書いた能 清経 を6月に勤めた。黄瀬戸の笛










投稿日 2008年09月01日 9:24:06
最終更新日 2008年09月04日 21:35:48
修正
2008年10月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
10月1日は 都民の日。 東京都立のところは 特別な催しがあったり、都内の学校は休みになったり。
まぶしい秋の日差しの中 ご協力おねがいしまぁ〜す!の高い声が 駅の階段で出迎える。
ボーイスカウト、女子中高生、と衣替えで冬の制服に身を包み 各所で声を張り上げる。
赤い羽根共同募金が始まる日なのだ。

まだやっていたのか、と思う向き、それって なんですか?という御仁、
さまざまあれど 10月1日の風物だった。 鵞毛庵も お願いしまぁ〜す と 立ったという。
そして、夕刊各紙はこぞって その様子を一面に載せていた。 
まだまだ 暑さの名残りを身に受けて冬服の紺色は うっとうしい時期である。
が、近年は 紺、紺、紺、と 重苦しく感じない。
温暖化のためだろう、制服も今日から衣替えとはいかないのだ。
季節は10月1日を虫食む。衣替えも都民の日もへったくれも ありゃぁしない。

駅では 毎日何かの募金、署名集め、ティッシュ配りと それぞれの定位置がある。
その趣旨が忘却の彼方にいってしまったような 赤羽根共同募金は 位置取りも大変だ。
ボーイのリーダーが こっち、こっちと 邪魔にならない場所を確保して 団員を立たせる。
地方では 如何なのか。
学校が休みではなかろうし、晴天の下 甲高い声が叫びとぶこともないと思うが。




祭りの準備が進む  秋霖  秋霖の一日
もっとも この時期は冷たい秋霖 <しゅうりん>で なかなか 晴れないものである。
しとしとと音のあるような、無いような雨の晩はまさに三余である。
読書に利用するべき三つの余暇、 冬は 年の余り 秋は 日の余り 陰雨は 時の余りである。
いつまでも続く陰気な雨は 本を読め、学べ、勉学に勤しめと言っている。


祭りに向けて準備万端整った 御神酒所も 神輿も 祭り囃子の座所も、
秋霖に どこか沈んで浮き立たない。
その横の 公孫樹並木の下では 傘をさしながら せっせとギンナン拾いに勤しむ姿を見つけた。

宵宮の囃子の音が聞こえてくれば 勉学なんぞに勤しんでいられるわけもなく 
杏子飴屋のおやじは今年も元気かと 熟して落ちた銀杏をそっと除けながら 
                                         傘を手に急ぐ三余堂である!



御神酒所も冷たい雨を静かにうける 秋霖

秋霖秋雨に烟<けぶ>る鴨脚樹<イチョウ>の並木は 東京都の木でもある。











投稿日 2008年10月01日 0:59:56
最終更新日 2008年10月01日 0:59:56
修正
2008年11月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
以前 11月1日は年賀はがき発売の日。季節の区切りを感じていた。
今年は、10月30日 からの売り出し。

今年の年賀はがき  年賀はがき





1月1日に 年賀状を配達するような制度をとり始めたのは 明治32年だそうである。
全国的に広がったのは 6年後、明治38年だ。 西歴1909年。100年の歴史を持つ。
ことしも まだまだ暑いという頃から 宣伝が始まっていた年賀はがき。
今は日本郵便社員と云うのだろうか、予約に郵便局員が汗をカキかき各家を廻り、 
近所の郵便局では 窓口で用をたすごとに宣伝チラシと購入申し込みを渡された。
今年は39.5億枚の年賀状を発行するという。人口を1億3000万として 一人30枚当たり…
正月松の内まで、スーパーやコンビニに 年賀の挨拶を印刷したお年玉年賀はがきが売られている。
結局のところ、お年玉付き年賀はがきは どれだけ流通するのか。
スーパーやコンビニでどれほど廃棄処分に回されるのか。 

今年のお年玉商品は 実に豊かである。そして 世相を表してもいる。
マッサージチェア、生ゴミ処理機、メタボ対策機器、折りたたみ自転車、アウトドア用品 等、等。
但し 当たるのは切手がせいぜい。
昭和24年 初めてお年玉付きの年賀はがきを発行。寄付金付きのものは3円で1億5千万枚も
発行されたそうだ。 因みに 寄付ナシは2円で3千万枚の発行とか。
その後 昭和50年代後半から 各地方独自の絵入り印刷のものが出始めた。

      東京都限定  年賀はがき





平成になってからは 再生紙やインクジェット、写真が奇麗にでるのやなにやかにや。
今年は オリンピック招致を願ってか五輪の色をモチーフに エコはがきも売られていた。
まことに 賑やかなことである。 
一応、発売日には ニュースに取り上げられて、売れ行き好調、種類によっては 売り切れ増刷などと
言っていた。 が、三余堂御用達郵便局では なんでもござれとばかりに並ぶ。
おまけに 豚にみまごう丑の開運招福根付け も登場

     来年の干支は???  年賀はがき





さ〜ぁ! 今から 戦闘開始 ! なんて だれがするものかと 郵便局の前を通り抜ける。
投稿日 2008年11月01日 22:29:32
最終更新日 2008年11月01日 22:32:34
修正
2008年12月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
今年は締めくくりの月に入る。陰暦12月も様々の異称を持つ。
僧も馳せ走る慌ただしい月だからと 師走というのはお馴染だ。
極月、ごくげつとも云う。駐車場の看板ではない。
ちなみに駐車場では 月極 となり、つきぎめと読むので念のため。

最近の温暖化傾向ではしっくりと来ないが、 春を待つ、春待月と記されもする。 
冬至の後に 狩猟の獲物を神に供えた祭りの《臘 ろう》 から 年の暮れを ロウという。
臘月は もっとも日が短くなり、月初めは冬至より早く日の入りが来る。
街は 当たり前のようにクリスマスの飾りがなされ、さして 慌ただしく追われるつもりがなくても 
そそくさと 歩かなくては信号を渡りきることが出来ないような気になる。
これが 師走なのだ。


さてさて、去年は… 
 文字を読む  過去の日記  2007 12 

その前の年は…   食後の一服は世界さんぽ    過去の日記 2006 12
と案内望遠鏡を振り返ってみる。

ふぅ〜ん 変わりばえしねぇなぁ と思いつつ、咲き始めた山茶花を深夜の窓から覗く。



暗い冷気のなかで  臘月 ろうげつ サザンカ咲く臘月 ろうげつ 臘月朔日のヤマボウシ

天空に輝く オリオンも 変わりばえしねぇなぁ と三余堂を見下ろしていた。





















投稿日 2008年12月17日 3:17:48
最終更新日 2008年12月17日 3:18:19
修正
2008年12月31日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
鵞毛庵の記事がなかなか 上がってこない。
ケンショウ炎で ゴミ捨てもままならないらしい。姪が大掃除の助っ人に出かけた。
今頃は 暮にしては暖かなパリでの年越しの準備。

腱鞘炎は手や指の過労によって起こるという。 鵞毛庵にとっては 職業病だ。
まずいことである。
関節をまたいで 骨に付いている筋肉と、骨との付着部分を腱という。
そこが滑らかに動くように外側から包んでいる部分を腱鞘というのだそうだ。
ケンのさや、ということだ。この鞘を使いすぎて腫らしたってことか???

昨今、耳にするコンドロイチンだの、IPA(イコサペンタエン酸)だのが 腱鞘炎には効き目があるらしい。
   『 …コンドロイチンは 加齢と共に生体内で減少し、生成する量も減って参りまぁ〜す。 
ネバネバ食品、フカヒレ、すっぽん、牛テールからも摂れまぁ〜す。こちら サメの軟骨から精製しましたサプリメント… 』
と、やっていた。
IPAはサンマの宣伝で聞いたし、
カルシウムをとって筋肉を動きよくしろ、と 牛乳屋のチラシにあった。

いくら パリの空の下 青魚を焼いて、納豆とひじきの煮つけを食っていても 
加齢には勝てぬ庵主なのか。

ともあれ この一年 能楽さんぽに御付合いを頂き、有難く感謝申し上げると共に 
各位に置かれまして 明年が多幸の日々となられますよう 祈り上げる次第で 御座候!



2008 近隣で見た季節

年末御挨拶節分の朝 2008

花散る 2008年末御挨拶


              見つけた秋 2008年末御挨拶
投稿日 2008年12月31日 0:36:13
最終更新日 2008年12月31日 0:36:13
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2009年01月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
恭賀新年

                   年始ご挨拶

 冷たい北風の吹く 東京の元日。三余堂窓から 遥拝にて初詣終了。
気持も新たに 2009年の朝を迎え 思うこと。
旧臘、弁当に折り込まれた料亭の用紙の一言。
 
 
 花は色 人はこころ   と…

隅にも一言  季節により内容が変わります!  




投稿日 2009年01月01日 0:01:45
最終更新日 2009年01月01日 0:01:45
修正
2009年02月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
日頃 何気なく車で通り過ぎていた、近所の住宅の中に盆栽園をみつけた。

盆栽は、草木を鉢に植えて、枝ぶりから鉢に至るまでの姿全体を鑑賞する。
梅、桜、松 …  鉢の木、鉢木 である。
草木の自然を、鉢の上に縮尺して再現することを目指すという。
枝を針金で固定したり、曲げたり、剪定をしたり、岩や石を置いて根を這わせたり
手間と時間をかけて作っていく。 相手は生き物。常なる変化と対峙して、限りがない。


昔、中国の唐の時代に行われていた 「盆景」 が平安時代に日本へ入ってきて盆栽を生んだという。 
盆景は箱庭の親類といったら 無礼になろうか。
蛇足ながら 今や子供を伴って盆景展へ出向くむきも無かろうが
子供が会場で、人差し指を立てたら危険信号。 
しっかり手をつなぎ、空いた手から目を離す事なかれ。
山川草木が、自然の大地が、海が、小さな盆の上に再現され 思わず指が近ずく…
必ずや海にある筈のない大穴ができ、山に窪みが増える!


江戸時代には武士の間で盆栽の栽培が盛んになり、興隆する。
鬼平なんぞが チョッキン、チョッキンとしながら 与力の報告を聞いている様を思われよ。
盆栽は粋な趣味である。暴れん坊将軍では 大店の旦那も 別宅の奥で鋏を握っていた。
が、管理が大変だ。
生活環境の推移により 手間と時間が必要な趣味は愛好者が 次第に熟年層となる。
戦後は、年寄り臭い趣味とされていた。しかし、近年、盆栽が海外でも注目を集めるとともに、
若者の間でも再認識されるようになったと聞く。  どこかで聞いたような話である。

関東大震災後に、被災した東京小石川周辺の盆栽業者が移住した、埼玉県さいたま市には、
盆栽町という地名がある。日本屈指の盆栽郷とされ、海外の盆栽愛好家にも知られる地区だという。
国内外の観光客も多く訪れて 盆栽見学だそうだ。


植物にハサミを入れて形作るのは 大自然を縮尺する盆栽ばかりではない。
樹木や低木を刈り込んで動物や 球や円錐をつくったりするトピアリー がある。
こちらは 西洋の伝統的園芸技法。 盆栽の 柘植の玉仕立て の親分サイズといったところか。 
本来の樹形を生かして 仕立てる盆栽に対して トピアリーは人工的な形を目指している。


大きな鹿と大きな手  盆栽の親分サイズ

大分前になるが シザーハンズという両手が鋏の人造人間の映画があった。
最初は両手のハサミを持て余していた、ジョニー・デップ扮する人造人間。
ある時ハサミで庭木を美しく動物などの造形物に刈り取る。 見事な作品をつくりあげた。

古代ローマ時代に 奴隷の庭師が、生垣に主人と自分のイニシャルを刈り込んだのが
トピアリーの最初といわれているそうだ。この技法が普及したのは16世紀以降のヨーロッパらしい。
円錐や球体の幾何学的な形に樹木を刈り込んだトピアリーが 王宮や貴族の館で流行したという。
左右対称に整然とつくられ、トピアリーで飾られた、そんな西洋の庭園が目に浮かぶ。

実物大の像の親子 盆栽の親分サイズ


先日の読売夕刊紙でトピアリーガーデンが紹介されていた。

くしくも 三余堂数軒先のシャッター前。リボンをつけて、お洒落してのかわいい小鳥が二羽。 
盆栽の親分サイズ この夜寒に 無造作に置かれている






投稿日 2009年02月01日 0:37:44
最終更新日 2009年02月01日 0:37:44
修正
2009年03月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
            狸・たぬき・他抜
         よそさんの前を御免下さいまし!


こんな親子が三余堂への行きに見送り、帰りに出迎える。
風流な御仁が設えた物だ。
身の丈 1メートル50はあるか信楽たぬき。
福々とした狸殿、編み笠を被り少し首をかしげながら徳利と通帳を持って立っている。
信楽焼<しがらきやき>は、滋賀県は忍者の里 甲賀市の信楽町を中心に作られる陶磁器。
狸の置物と言えば信楽と思っている。

常滑や備前、清水などでも焼かれている徳利片手の狸だが
大狸の信楽焼置物は比較的歴史が浅いのには驚いた。
信楽では 幕末に狸の置物を造っていた記録があるというが、あの大きいのになったのは
明治以降、の作家によるものが最初らしい。
戦後、昭和天皇が信楽へ行幸の際

    をさなどき あつめしからになつかしも 信楽焼の狸をみれば

と狸たちに歓迎されたことを歌に詠まれた。
このことで 恐れ多くも、信楽の狸が全国に知られるようになったという。
「他を抜く」と書いてたぬき、よそ様を抜くということに通じるので 商売繁盛とばかりに
店の軒先に置かれることが多いという訳だ。 ご縁起物。


香合に掛軸と 茶席にも登場する気取った狸もいるし、昔話に登場して人を化かすのもいる。
憎めない その図々しさに親しみを感じるのか。
音曲から落語まで取り上げられる話題のつきない存在である。 
 
2月の鉢木が講談仕立なら 次は落語の一席で「狸」といきたいところである。
えぇーっ  先代の小さんは その風貌から狸に似ていると云われましてぇ、
お頼まれしますってぇと 色紙などにもよく狸の絵を描きまして…。
一門はたぬきの噺をすると たぬきの料簡になれ!と教わったもんでございます。
たぬきの料簡 とはなんぞや…  えぇーっ  キツネは七化け、たぬきは八化け ともうしまして〜
若い噺家の枕の受売りだ。 

いろいろあるたぬきの噺は とどのつまり 助けられた御礼話である。
劇作家の宇野信夫氏が そんな噺から 霜夜狸〈しもよだぬき〉 という作品を書いた。
1966年にNHKラジオで放送したものを ついこの間、ラジオドラマ・アーカイブスとして放送していた。
40年前のものである。
新派の大矢市次郎がとっつぁん、文学座の若き加藤武が狸。

孤独に暮らす番小屋の老人と、寒さに耐えかねて老人の死んだ息子に化けたタヌキが、
しだいに心を通わせていく……。

歌舞伎界の大御所・宇野信夫の原作を、森繁久彌が構想15年を経て完成させた人情アニメ。
森繁の語りが絶品だ。と 銘打ってDVDも売られている。 

狂言現行曲にも 狸腹鼓〈たぬきのはらつづみ〉、 和泉流のみになるが 隠狸〈かくしだぬき〉、とある。
人間とお狸さまとのかかわりは、狂言も御同様。  で、今日も 寒空の下 たぬき親子に迎えられた。



            おかえり!狸・たぬき・他抜



投稿日 2009年03月01日 0:36:47
最終更新日 2009年03月01日 0:36:47
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2009年04月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
正確な文字数が把握できる升目に、一字一字を書込む原稿用紙。
日本語の文章を書くために誂えた用紙である。小学校の作文の時間からの馴染だ。
通常用いられる原稿用紙は400字詰と200字詰の二種類で、1行を20字。
升目は正方形に近いかたちにつくられ、行と行との間に振仮名、傍点を記入しやすいように
ある程度の余白がある。行間の余白を取らず横長の升目のものもある。
老舗の原稿用紙を使って文章をしたためると、 ちょっとした文士気分で作文も上等になるかと…
あぁ 勘違いも甚だしい限りだが、名入りの原稿用紙には憧れたものだ。



原稿用紙の起源は、隠元禅師でご存じの黄檗宗が 経典の版木をつくるに当たって、
縦一行の字数を20字横10行と定め、これを1頁と定めたことによるらしい。
要するに、明朝風の出版活動が我が国に置いて活発に展開された産物 ということで 新聞活字の
明朝体もこの時の名残だということである.。
その後も 原稿用紙は、頼山陽が『日本外史』を記すのに用いた升目様の用紙であったとか、
400字詰様式の起源はやれなんだとか、あるようだ。
一字一字を区切った用紙は漢文を記す為に、適したものと深い関係があろう。
明治になってからは 活版印刷が一般的になる中で、新聞・雑誌などに原稿を掲載する際、
字数が正確に計れることが 最重要視されたことも関係する。
書かれたものの 分量の単位として原稿用紙換算が利用されている為か、日本語ワープロソフトには
原稿用紙のフォーマットがテンプレートとして入っている。  ネット検索をすると 
     原稿用紙のダウンロードができます!    の文字が溢れるように出てくる。


作家の丹羽文雄お気に入りの満寿屋の原稿用紙。 
大切な目と万年筆の保護に、永久保存の効く中性紙使用と説明書きにあり
書くために生まれてきたその書き味をぜひ一度お試しください、ともある。
洋紙の原稿用紙は相馬屋から というのは相馬屋源四郎商店 。
明治中期に和半紙だった原稿用紙を 尾崎紅葉の助言で洋紙にして売り出した。
夏目漱石、北原白秋、石川啄木、坪内逍遥といった文豪たちにご愛用頂きました、と言われては
末は 芥川賞か、直木賞。はたまた 本屋大賞か。使わずばなるまい。




名入れ百冊単位でお受けします!   原稿用紙
文士じゃあるまいし… 学校の作文の時間にはもったいねぇ。


勿論 銀座の伊東屋にも特製の原稿用紙はある。原稿用紙


利用者の便宜、製作者のこだわりなど さまざまな飾りやデザインで工夫が凝らされている 
原稿用紙。
好事家はどこにも居られるもので ○○紙店、××屋、と駆けずり回って いろいろと楽しむ。
原稿用紙を売る老舗店。どちらも 付近は文芸の香りを味わえる。
文士の利用した旅館、編集者と打ち合せに使った洋食堂のあと、わいわいと集まった飲み屋。
神楽坂の相馬屋までちょっと 用足しに行けばそんな気になれる。 か…  ?
矢来能楽堂で観能の節は御立ちよりも。   ただし 日曜は定休なり。




日曜の夕暮れ相馬屋 原稿用紙
投稿日 2009年04月03日 7:41:26
最終更新日 2009年04月03日 7:42:39
修正
2009年05月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
住宅地の中に 見たカリンの畑。 
以前は農地だったであろう処が 緑地として残すためか 今はカリンが植えられている。
カリンの前は 芋か何かの作物だったこともあった。 
その前は 栄養たっぷりの色をした土が小山のように積み上がっていた。
四月に満開だったカリンのその後は 陽の光にかがやく葉をたたえ 実を結ぶ序章。


かりんの向こうに満開のもも 三月下旬の様子 かりん


かりん  カリンの花
 

        新緑のカリン 低木に剪定  かりん 

バラ科の植物と知ると、 なるほど 同じバラ科のボケの花に似ている。
低木に花をつけたカリンは馴染がなかったので 初めは何の木かと 訝しく思った。
そのうちに 楕円形の黄色い大きな実を見た。  ほぉー カリンかぁ 〜 
きれいに剪定された低木には不釣り合いな 大きな、おおきな 実がなっていた。
10月も下旬 芳しい香りがする。
秋になる実は ビタミCなど 咳や痰、喉の炎症に効く成分があるという。
生食には御世辞にも向かない 堅さと、渋み。 
これが砂糖漬けやジャム、果実酒になるのだから 不思議なもンだ 。
ちなみに 小麦粉、砂糖、水、食塩、重曹などを練って 棒状にして油で揚げ、
黒砂糖などの蜜でからめて乾燥させた菓子は カリンの砂糖漬けのことではない。
かりんとう、花梨糖 という菓子は全く別物なのでご注意のほど。 


大きな実がいくつかに割られ、ぷかぷかと焼酎に浮かんだカリンは 飴色の酒になって
喉に良いと 風邪の季節に台所の床下から登場する。 
渋みが抜けて 甘い。 別に旨いものではない。
要するに 薬ということで ウマいからクウ というものではない。
生薬ということは 毒にもなるということで種は気をつけろ といわれている。
花もきれい、葉の緑も紅葉も美しく、芳しい香りの大きな実、 とくれば お次は 毒だなぁ…

吹く風にあたっただけで死んでしまう 附子(ぶす) という毒が入っているから絶対に近づくなと 
太郎冠者、次郎冠者に言って 出かけた主人が、隠していた砂糖をすっかり 彼らに食われてしまう、
という狂言がある。
曲名 附子。 五月九皐会で野村萬蔵師が勤める。
当時の貴重品 砂糖を猛毒のブス だと言った主人。 
この 附子は トリカブトの根の毒のことで 四谷怪談のお岩さんが飲まされたのも これだとか。
勿論 この附子、生薬で用法によっては 我らもお世話になっているわけだ。


まっ、 どの道、お里の知れないものは 遠くからそっーと 愛でているのも選択肢 !



投稿日 2009年05月01日 14:09:42
最終更新日 2009年05月01日 14:09:42
修正
2009年06月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
仏教で 釈迦入滅のときの伝説によって聖木とされる 沙羅の木。
釈尊涅槃の際、東西南北に生えていて時ならぬ花を咲かせたと伝えられる木。
二本づつあった為に双樹、沙羅双樹、裟羅双樹と云われる木。
インド北部が原産で 日本では温室でなければ育たないという木。


よって 日本でいうところの 沙羅の木は ツバキ科のナツツバキということらしい。
茶花として 白く清楚な花が軸に添って飾られる。 朝に開花し、夕方には落花する一日花。

祗園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色
盛者必滅の理をあらはす おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし

てなわけで この沙羅双樹の花の色は 夏椿のことのようである。
名の如く 花は椿によく似た姿をもつが 秋には薄く、やわらかなその葉は 紅葉して散る。
初夏、 “ボッサッッ…” と 音ともならぬ気配が 落花の時を告げる。
この時期になると、国立能楽堂の中庭には 大きく育った夏椿、沙羅の木が見事な白い花をつけ、
それはみごとな落ちっぷりである。

本来の沙羅双樹は インドの高地などに生える高木の 二葉柿(フタバガキ)科のサラノキ。
こちらが お釈迦様入滅ゆかりの木で、葉の1枚が20センチにもなり、花は小さな房状で芳香あり。
インドのお釈迦様も日本でお釈迦様になると 花木も天竺風から和風へ となるってことで。


和風の沙羅の木には 伊豆半島より以西の山地に自生するという 花や葉の小振りなものがある。
花は梅花ほどの大きさで 姫沙羅という。 庭木や盆栽などでも栽培されている。
箱根にはヒメシャラ林がある。 神奈川県の天然記念物に指定されていることを知った。

以前、三余堂には 夏椿と姫沙羅が それぞれ双樹となって配していた。
日当たりの具合か、今 沙羅双樹は沙羅無樹となり、姫沙羅一本のみが独特の木肌をみせている。
葉は 重なり合いながらも 緑の紗をかけたように日の光を透し、
白い小振りの五弁の花が 黄色のしべを包む。
“ボッサッッ…” という 落花の気配は 姫 というには驚くほどの大きさで 陽の傾きを知らせる。
また、あしたに新しい花を咲かせる為に 本日の了を告げる ということか。


             姫沙羅  沙羅双樹


独特の木肌 沙羅双樹



            沙羅双樹 葉が陽を透かして
















投稿日 2009年06月06日 19:55:40
最終更新日 2009年06月06日 19:55:57
修正
2009年07月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
2006年秋の初見参以来 三余堂月次の補いにと始めた毎月一日の 案内望遠鏡の項。
案内望遠鏡 とはguiding telescope。
写真撮影用の望遠鏡に平行に取り付けてある望遠鏡で、視野広く対象星を
追跡し易くするために添えたものということである。 と、
紹介しながら、 一方でその補いが 反って 邪魔をしているかもしれない、とも書いた。
勝手なことを言いながら  ほとんど能楽さんぽは 毎月、あらぬ方へのさんぽになる。
ご案内! ということであれば まぁ 何でもご案内申し上げるということで…


先日 岩田いくま杉並区議のメールマガジンで サイトの紹介があった。
文部科学省のホームページで 開設1ヶ月、17万件のアクセスを記録した 
深海ワンダーなるものだ。
最近は啓発や教育を目的として 動画を活用したり、インターネットテレビで配信したりと 
官公庁が 企画制作会社と作り上げた作品がいろいろとあるということは 何となく承知している。
ご時世だなぁ〜  と云ったって そうそう誰もがパソコンを使いこなしている訳でもなし、
と 複雑な思いで 深海ワンダー を覗く。


潜水調査船「深海ワンダー号」で、人工頭脳「ジュール」をパートナーとして、深海探検の旅に出発。
要は ゲーム。と 侮ることなかれ。
世界に誇る日本の深海研究の現状、文部科学省の果たしている役割などについて
理解が出来るようにと作成したものというが、老若男女、それぞれの立場で 一見の価値あり。
内容のご案内より 先ず ちとご覧ナれ。


この うっとうしい季節に 涼を呼ぶ。



深海ワンダー

 http://www.mext.go.jp/wonder/
投稿日 2009年07月01日 14:46:00
最終更新日 2009年07月01日 14:46:00
修正
2009年08月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
近年の夏は 急激な天候の変化に過ごし辛く、思いもよらない災害に巻き込まれる。
ご苦労されている地域の方々に、お見舞い申し上げ、一刻も早い回復を願うばかりである。



今月の災害記事 暑中お見舞い


なんとも遣る方なき様相、暦の上では一週間もすると秋になり、残暑を見舞う。
まだ 梅雨も明けやらぬ 処が多い中、暦の上では秋が来る。
立秋に至って 梅雨明けが無い時、梅雨明けなし ということらしいが。

暦は、時の流れを年、月、日といった単位に当てはめたものだ。
また それを記した暦表、カレンダーも暦と云っている。
月齢、日の出、日の入り、月の出、月の入りの時刻、汐の干満、行事、吉凶を記したものも暦。
七月三余堂月次・準備中のヒトコマ でも触れたが 処変れば 暦変わるで興味がつきない。
どちらも 気候、土地、生活、習慣、宗教 による 文化そのものの反映だ。
今日は何の日 が 大好きなのは日本人ばかりだろうか。
記念日の無い日はナイ!のである。


嘉吉3年 秋立つ頃、8月8日は 能の祖とされる世阿弥元清が没した日ということになっている。
西暦でいうと 1443年。
播磨守護であった赤松満祐が、将軍足利義教を自邸に招いて殺害した
という 嘉吉の乱は1441年。
赤松満祐は 能を催し、そこへ将軍を招いての事だという話もある。 
芝居がかった設定とは言え、あながち無いとは云えぬ。
面をかけたシテの大夫。 が その実は…  手にする長刀振り廻し、狙うは将軍 足利義教 なりィ !
千恵蔵、はたまた歌右衛門の刺客が顔を出す…  東映時代劇の一シーンじゃぁ あるまいし。
当時の能の姿は どのようなものであったか、将軍家は 代々能がお気に入りだった。
その時すでに、世阿弥は佐渡に流されて6、7年を経過していた。 


世阿弥は室町時代、将軍足利義満 の特別な庇護により、能を大成し、作品や能楽論書を著した。   
晩年、後援者の足利義満没後は 台頭する次の世代、音阿弥元重に人気を奪われ
佐渡へ流されるなど と不遇であったが、詳細は不明のようである。
しかし、世阿弥の残した風姿花伝等の20を越える芸道理論書、
高砂、井筒、砧、融などの人気現行曲は めんめんと引き継がれて今日に至っている。
近年解説つきの番組、要するにプログラムに 世阿弥作と ことさら書かれることもあるが、
番組に 作者を記す習慣はない。

作者の名は見当たらない能の番組 暑中お見舞い



寺社仏閣、全国各地を巡り 果てに遠流となった 芸人集団の統領 世阿弥。
古今東西 そんな人物の役目は如何に! まぁ これも東映時代劇かっ。
世阿弥は時代背景を手繰ると 誠に興味をそそられる人物である 。
まずまず この立秋は森羅万象穏やかなることを願って  流された佐渡の方へ向って 遥拝!
投稿日 2009年08月12日 7:34:32
最終更新日 2009年08月12日 7:34:34
修正
2009年09月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
文房四宝、 ぶんぼうしほう は、筆紙墨硯の四つをさす。書にとっては 大切なお道具。
骨董価値を持つ硯、墨などは美術品として 精巧な彫のもの等が博物館のケースに
鎮座ましましているのを観る。 その硯でその墨を磨ると どんなことになるのやらん… 


墨は、油煙や松煙などから取ったすすを膠で練り固めたもので、古代中国の甲骨文に
墨書の跡がある。
日本最古の墨書は、松阪市貝蔵遺跡で出土した土器にみられる。4世紀初頭という。
国内では奈良時代の後期、松の木片を燃焼させて煤を採取する 松煙墨が奈良県和束町で
作られたとされる。
油を燃した煤を膠で固めた 油煙墨の製造が始まったのは鎌倉時代である。
江戸時代は各地で製造されるようになったが、歴史と実績の奈良に職人が集まることとなり、
現在も奈良は墨の主要産地だ。墨製造見学が修学旅行のコースにも組まれている。

年月が経って乾燥した墨は、膠の分解が進むためにのびが良く、
                              墨色に立体感が出て、誠に宜しくなる!
ということだ…  なにが誠によろしいのやら 使えば 違いがわかる ということか。 古墨と呼ぶ。

墨の原料は煤で、基本的に色は黒。
しかし 黒とっても 青墨、紫墨、茶墨などと色味の違いはある。
松煙墨は松の燃焼温度にむらがあるために 重厚な黒味から青灰色まで墨色に幅ができるらしい。
油煙墨の油は菜種が最適とされる。繋ぎとなる膠は 動物性のもので、いわゆる、コラーゲン。
骨や皮から抽出、高級品は鹿である。この膠、年と共に成分が変質して弱くなる。
こうして 膠が枯れてくるのだ。
ものの本によれば 年月を経ると膠が枯れ、滲みも増し、墨色表現が広がる、と。 
枯れて、よくなる!!

お習字で丸をつけるのは朱墨。朱墨の原料は、鉱物として天然に採掘される辰砂だ。
朱の顔料や漢方薬の原料として珍重されていた。能の型を書き付ける時も この朱が入いる。

朱墨となじみの黒インク 手製インク


明治31年、田口精爾が開明墨汁として、発明した墨汁で会社を興した。
現在の開明株式会社の創始者である。くしくも 矢来能楽堂近隣 牛込区築土八幡であった。
墨汁は天然の煤ではなく工業的に作られたカーボンを使っているものがある。
このカーボンは、コピー機などで使われるトナーと似た成分の場合があるらしい。インクである。
中国で開発された固形墨も黒色インクの一種になる。
各地域の初期文明でも 植物の実や種、鉱物、イカなどの海洋生物から
様々な色のインクが作り出された。

先日 鵞毛庵が 手製のインクを届けてくれた。


つけペンで文字を書くことは 日常の生活に馴染まなくなった。勿論 インク壺も机上にはなくなった。
が、せっかくの届け物。 試しにと ペン先とペン軸を引き出しの奥から探しあてる。
紙の上を走るペン先から生み出される文字は のびが良く、色に立体感が出て、誠に宜し!


引出奥の墨、墨、と手製のインク 手製インク 

9月11・12日は 鵞毛庵が代々木でインクづくりの講習会を開く。詳細はこちら
投稿日 2009年09月01日 0:16:15
最終更新日 2009年09月01日 12:04:48
修正
2009年10月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
この「能楽さんぽ」が La plume d'oie ラ•プリュム•ドワの兄妹サイトとして誕生したのが2006年10月。  
「でもォ、アイツとじゃなぁ…」 と始めたこの 三余堂と鵞毛庵の能楽さんぽ は 
また、歳を重ねることになった。 表紙の文面も 時移り事去り、そろそろ装束替えをと考えた。
ところが このサイトはそうそう手入れが出来ない代物と判明。
半年ごとのリモデル家電製品宜しく サイトの仕様も、どんどん時代遅れになっていく。


こちとらぁ 月に二度や三度のアップで、まだ三年っぱかりでぇ! と啖呵を切ったって始まらない。三余堂と鵞毛庵の能楽さんぽ


簡単に 新装できないのは大した内容でもないのに小難しくタラタラ文章を並べず、
案内望遠鏡の意に沿って、視野広く対象の星を追跡しやすくするために主望遠鏡を助けるがごとく、
ご案内やらお知らせやら、訂正を掲載せよ、と 示唆されたわけだ。

そこで 表紙差替えのつもりで 改めてご挨拶を。
      

三余堂亭主が「能」についてのあれこれをお話しする「能楽さんぽ」が 鵞毛庵の
      La plume d'oie ラ•プリュム•ドワの兄妹サイトとして誕生したのが2006年10月。  
      「でもォ、アイツとじゃなぁ…」 と始めた三余堂と鵞毛庵の能楽さんぽも、また、 
      歳を重ねることになりました。2009年は日本での活動を展開している鵞毛庵です。
      当初、能に関する名所旧跡を訪ねるサイトだと思われた方もありましたが、アニハカランヤ!
      能楽師と西洋の文字を綴って能を表しているカリグラファーとの 掛合漫才。
      またまた、気儘なさんぽへ出ようと思います。

                                                2009.10.01.  三余堂 










投稿日 2009年10月01日 1:29:06
最終更新日 2009年10月01日 1:29:06
修正
カテゴリ : [案内望遠鏡]
あちらも百年、こちらも百年、「100年記念の年」になると 昨年末三余堂月次《百萬》で書いた。
お陰さまで 全国各地で九皐会百周年の記念会は、無事進行中である。 
むっ!もう一つ、百年があった。
今年三月には 早稲田大学の演劇博物館で 
「世阿弥発見100年―吉田東伍と能楽研究の歩み―」と題する企画展をやっていた。

一般に世阿弥の秘伝書といわれるものは、「道のため、家のため」の書であった。
別に数百年もの間、土に埋まっていた訳でなく、自然の惠を人の手が丹精した
和紙と墨の力は、過去何千年と生き抜いた証明がある。
原本がすっかり朽ち果てるとは思えない。
室町から江戸の間は、能役者や一部の権力者、観世家、徳川家康などの大名家に秘蔵され、
人の目に触れることはなかったし、その必要もなかった。
が、御維新後、世の事情で顔を出した写本があったのだ。 


明治41年に、『申楽談儀』 さるがくだんぎ を吉田東伍が翻刻・刊行し、その存在が初めて
広く知られることになった。
数百年間、伝説的であった世阿弥の姿を明らかにする大発見!
能の大成期について具体的に知ることができる貴重な『申楽談儀』は、世阿弥の芸談を子息の
元能が書き留めたものである。
どのような経緯か長い時を経て 実業家・安田善次郎の手元にあった伝書が、吉田東伍によって
翻刻・刊行され、一般の人の目に触れた。

数百年の間には勿論、それなりに、それなりの人が必要として、写本、写本、写本を繰り返す。。                     
               なんたって 秘伝書。秘されれば 見なくちゃ、みなくっちゃっ!
スキャナー、コピーがあるわけでなし。
当然 加筆も、誤筆も、悪筆で訳の判らないものも出てこよう。
               僕、ここだけでいいから、そっちは君写せば! ぅっわぁ〜 いいのぉ。でも、メンド!!
                     やっとの思いで 写本したら お茶をこぼして駄目にィってなことも … あるかもしれない!



吉田東伍の業績は 『申楽談儀』の存在を広く伝えることには寄与したが、書写を重ねた本を
底本としているし、欠損は他の写本で補ったりして厳密さを欠いたらしい。
その上、安田の手元にあった伝書は大正十二年の関東大震災によってすべて焼失!
とはいえ、吉田東伍が「能楽創始の根本史料」と記した如く、刊行した『世阿弥十六部集』は、
能楽研究の第一級資料として高く評価され、研究者による研究を生んで現在にいたる。
戦後は、表章が携わった岩波文庫版『申楽談儀』、『世阿弥 禅竹』で、いろいろな写本を
参照して原文を復原する試みを行っているので 興味のある御仁は 図書館ででも…。 

書棚から引き出された『世阿弥 禅竹』時雨月の御案内を
時雨月の御案内をツンドクでも結構ケースに焼けがあるなぁ…


10月10日から東大の駒場博物館で特別展 
観世家のアーカイブ ―世阿弥直筆本と能楽テクストの世界―
と題した展示がある。
ここでも世阿弥と歴代の観世太夫に触れることができる。             
文中敬称略



投稿日 2009年10月01日 1:29:06
最終更新日 2009年10月01日 1:29:06
修正