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2009年10月12日
すみだ川
カテゴリ : [三余堂月次]
現在の隅田川は、東京都北区の 新荒川大橋のすぐ下流にある「岩淵水門」で荒川から分岐。
石神井川だの、神田川だのと支流河川を合わせ、東京湾に注ぐ全長23ほどの一級河川である。
足立区・荒川区・台東区・墨田区・江東区・中央区と 7つの区を通って東京湾に注いでいる。
両側はコンクリートで固められ、河原 という語感と無縁な都市の川だ。
隅田川は 住田河として835年の文献に出てくるという。
江戸時代以前は、利根川の下流の名前だった。
利根川は現在、関東平野を西から東に流れて、 銚子で直接太平洋に流れ出ている。
徳川家康の頃の利根川は途中から南に流れ、今の隅田川を通り 東京湾に注いでいたそうだ。
家康江戸入府より、利根川東遷の大工事を行ったという。
四代将軍家綱の時代に現在のような利根川、荒川、隅田川の形が完成。
大規模な河川工事は、水害対策、関東南部の新田開発、交通、輸送体系の整備であった。
古隅田川(ふるすみだがわ) と呼ばれている埼玉県さいたま市岩槻区からの川も併せると、
「隅田川」とは、現在よりも長い区間の荒川を合わせた後の利根川や、その分流を
総称していたらしい。
明治末期から昭和初期にかけて、洪水を防ぐ為に岩淵水門から河口まで
荒川放水路が建設された。これが現在 荒川 とよばれている。
1965年に荒川放水路が荒川の本流、分岐点である岩淵水門より下流は
俗称であった 隅田川 に改称された。
ややこしい!要は 時代と共に 隅田川には変遷があった。
江戸時代には、吾妻橋周辺より下流は大川(おおかわ)と呼んだ。
新大橋周辺までが、あの、ちょっと小粋な響きをもつ大川端(おおかわばた)である。
また、宮戸川ともよばれていた。 そうだ、落語の宮戸川は隅田川!
ということは 在原業平が、
名にしおわば いざこととはむ 都鳥 わがおもう人は ありやなしやと
と詠んだ隅田川は、利根川の下流になる。
そんな 隅田川、江戸時代には二十ヶ所近く渡し舟の渡場があったという。
最後の渡し船は佃の渡しで、昭和39年に廃止。
勝鬨橋のたもとに 勝鬨の渡しという石碑を見たことがある。
隅田川沿いに散歩をすると、渡し跡の石碑を他所にも見つけられるという。
この渡しのうちに、橋場の渡しというのがある。 能 「隅田川」の舞台。
橋場の渡しは、石浜の渡し、須田の渡し、梅若の渡し、真崎の渡し、と別名を持つ。
その昔、源頼朝が石橋山の戦いに敗れて安房の国に逃れ、下総を経て、鎌倉へ向かう時、
隅田川に浮橋を架けて渡った所とも言われる。
もっとも 渡しの位置は時代により多少移動しているようだが、
現在の白鬚橋の南側にあたるらしい。
それも 大正初年に地元の人が木橋を架け、橋場の渡しは消滅した。
やや北に離れたところに 梅若丸の塚がある、墨田区堤通の木母寺(もくぼじ)だ。
我子を人買いにさらわれ 都北白河から武蔵の国隅田川のほとりまで尋ね歩く女。
業平の 名にし負わば〜 の古歌と我が子を尋ねる我身を重ねて嘆き悲しむ様子に
渡しの船頭が、川向うでの大念仏は、子供が死んだのを人々が回向しているのだと語る。
それが尋ねる我が子の梅若丸と判り、女も念仏を唱える。 と、 南無阿弥陀仏と 子供の声が聞こえる。
あっ! あたしの梅若丸だわ〜。可愛いあたしのぼうやだわっ。
おかあちゃまぁ! おかぁちゃまですよねっ!!
その姿が幻のように現れ、夜明けと共に消え失せ、あとには草の生い茂った塚があるのみだった。
世阿弥の子、十郎元雅の作品。
世阿弥と元雅の間で この梅若丸を舞台上に登場させるか否かのやりとりがあった。
子方として子の幻を舞台に出すか、子方を出さずに幻を見る気持を強く意識させるかと。
元雅は我子を亡くしていたという説もある。世阿弥も後年元雅を亡くし、逆縁となった。
隅田川と言うと
銀杏がえしに 黒繻子かけて 泣いて別れた すみだ川 … を思う御仁もあろう。
永井荷風の小説「すみだ川」に題材を採った 御存知 東海林太郎のすみだ川。
あぁ そうだったわねぇ あなたが二十歳、わたしが十七の時よ。
いつも清元のお稽古から帰って来ると、 あなたは竹谷の渡し場で … と田中絹代が台詞を言う。
あまりピンとこないなら 島倉千代子の芸者姿のすみだ川もある。
文庫本70頁程の作品、「すみだ川」は明治35、6年の光景で、荷風の香りをたっぷり。
世阿弥父子の頃の隅田川の香りは、今月26日鎌倉能舞台で。 三余堂が子を思う狂女となる。
石神井川だの、神田川だのと支流河川を合わせ、東京湾に注ぐ全長23ほどの一級河川である。
足立区・荒川区・台東区・墨田区・江東区・中央区と 7つの区を通って東京湾に注いでいる。
両側はコンクリートで固められ、河原 という語感と無縁な都市の川だ。
隅田川は 住田河として835年の文献に出てくるという。
江戸時代以前は、利根川の下流の名前だった。
利根川は現在、関東平野を西から東に流れて、 銚子で直接太平洋に流れ出ている。
徳川家康の頃の利根川は途中から南に流れ、今の隅田川を通り 東京湾に注いでいたそうだ。
家康江戸入府より、利根川東遷の大工事を行ったという。
四代将軍家綱の時代に現在のような利根川、荒川、隅田川の形が完成。
大規模な河川工事は、水害対策、関東南部の新田開発、交通、輸送体系の整備であった。
古隅田川(ふるすみだがわ) と呼ばれている埼玉県さいたま市岩槻区からの川も併せると、
「隅田川」とは、現在よりも長い区間の荒川を合わせた後の利根川や、その分流を
総称していたらしい。
明治末期から昭和初期にかけて、洪水を防ぐ為に岩淵水門から河口まで
荒川放水路が建設された。これが現在 荒川 とよばれている。
1965年に荒川放水路が荒川の本流、分岐点である岩淵水門より下流は
俗称であった 隅田川 に改称された。
ややこしい!要は 時代と共に 隅田川には変遷があった。
江戸時代には、吾妻橋周辺より下流は大川(おおかわ)と呼んだ。
新大橋周辺までが、あの、ちょっと小粋な響きをもつ大川端(おおかわばた)である。
また、宮戸川ともよばれていた。 そうだ、落語の宮戸川は隅田川!
ということは 在原業平が、
名にしおわば いざこととはむ 都鳥 わがおもう人は ありやなしやと
と詠んだ隅田川は、利根川の下流になる。
そんな 隅田川、江戸時代には二十ヶ所近く渡し舟の渡場があったという。
最後の渡し船は佃の渡しで、昭和39年に廃止。
勝鬨橋のたもとに 勝鬨の渡しという石碑を見たことがある。
隅田川沿いに散歩をすると、渡し跡の石碑を他所にも見つけられるという。
この渡しのうちに、橋場の渡しというのがある。 能 「隅田川」の舞台。
橋場の渡しは、石浜の渡し、須田の渡し、梅若の渡し、真崎の渡し、と別名を持つ。
その昔、源頼朝が石橋山の戦いに敗れて安房の国に逃れ、下総を経て、鎌倉へ向かう時、
隅田川に浮橋を架けて渡った所とも言われる。
もっとも 渡しの位置は時代により多少移動しているようだが、
現在の白鬚橋の南側にあたるらしい。
それも 大正初年に地元の人が木橋を架け、橋場の渡しは消滅した。
やや北に離れたところに 梅若丸の塚がある、墨田区堤通の木母寺(もくぼじ)だ。
我子を人買いにさらわれ 都北白河から武蔵の国隅田川のほとりまで尋ね歩く女。
業平の 名にし負わば〜 の古歌と我が子を尋ねる我身を重ねて嘆き悲しむ様子に
渡しの船頭が、川向うでの大念仏は、子供が死んだのを人々が回向しているのだと語る。
それが尋ねる我が子の梅若丸と判り、女も念仏を唱える。 と、 南無阿弥陀仏と 子供の声が聞こえる。
あっ! あたしの梅若丸だわ〜。可愛いあたしのぼうやだわっ。
おかあちゃまぁ! おかぁちゃまですよねっ!!
その姿が幻のように現れ、夜明けと共に消え失せ、あとには草の生い茂った塚があるのみだった。
世阿弥の子、十郎元雅の作品。
世阿弥と元雅の間で この梅若丸を舞台上に登場させるか否かのやりとりがあった。
子方として子の幻を舞台に出すか、子方を出さずに幻を見る気持を強く意識させるかと。
元雅は我子を亡くしていたという説もある。世阿弥も後年元雅を亡くし、逆縁となった。
隅田川と言うと
銀杏がえしに 黒繻子かけて 泣いて別れた すみだ川 … を思う御仁もあろう。
永井荷風の小説「すみだ川」に題材を採った 御存知 東海林太郎のすみだ川。
あぁ そうだったわねぇ あなたが二十歳、わたしが十七の時よ。
いつも清元のお稽古から帰って来ると、 あなたは竹谷の渡し場で … と田中絹代が台詞を言う。
あまりピンとこないなら 島倉千代子の芸者姿のすみだ川もある。
文庫本70頁程の作品、「すみだ川」は明治35、6年の光景で、荷風の香りをたっぷり。
世阿弥父子の頃の隅田川の香りは、今月26日鎌倉能舞台で。 三余堂が子を思う狂女となる。
投稿日 2009年10月12日 0:11:07
最終更新日 2009年10月12日 0:11:07
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